力への意志
Wille zur Macht(独)
Will to power(英)
もしかして
生あるものがいるところには、かならず力への意志があった。そして服従し仕えるものの意志にさえ、支配者となろうとする意志があった。
弱者が強者に仕えるのは、もっと弱い者の支配者たらんとする意志があるからだ。この快楽だけは捨てられない。
(中略)
犠牲が、奉仕が、愛のまなざしがあるところにも、やはり支配者たらんとする意志がある。弱者は、抜け道を忍んでいって、強者の城内にそして心中に入り込み──力を盗む。
『生存への意志』という語を矢にして真理を射当てようとした者は、もちろん命中しなかった。そのような意志は──存在しないのだから。
なぜか。存在しないものは、意志することができない。またすでに生存しているものが、どうしてなお生存を意志するなどということがありうるか。
生があるところにだけ、意志もある。しかしそれは生への意志ではなくて──君に教えよう──力への意志だ。
また、「真理への意志」については、力への意志に内包される意志であるとした。 そしておまえ、認識する者よ、おまえも要するにわたしの意志の一つの小径、ひとつづきの足跡にほかならないのだ。まことに力へのわたしの意志は、真理へのおまえの意志をも足として歩むのだ。
真理への意志や、生産への意志、目的への衝動、より高いもの、より遠いもの、より多様なものへの衝動、こうしたものは同一のもの……力への意志である。
わたしはつねに自分自身を超克し、乗り越えざるをえないものなのだ
『道徳の系譜』の第二論文『「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題』にも力への意志という言葉が散見される。 生の本質とは力への意志にあるのだ。