「アンチクリスト」読書メモ
使用書籍
白水社のニーチェ全集第4巻(第II期)久住哲.icon
ちくま学芸文庫
講談社+α新書
2023/9/4
久住哲.icon
『ツァラトゥストラ』と照らし合わせながら読んだり、これと照らし合わせて『ツァラトゥストラ』を読んだり。
全体がひとつの流れになっていないとはいえ、論述の形式に近く、その点でいえば読みやすいと言える。
超人?
第4項で人類の進歩の文脈で、ニーチェの考える人間の向上は、近代的な意味での進歩ではないと言われた上で、それの成功例は「全人類と比較して一種の超人のようなもの」の出現だと言われている。 p169 人類は、今日信じられているような仕方で、より善きもの、より強きもの、より高きものへと発展しているとはいえない。「進歩」とは単に一つの近代的観念、すなわち誤った観念にすぎないのである。現代ヨーロッパ人はルネッサンス期のヨーロッパ人と比べはるかに価値が低い。発展しつづけるということが向上・上昇・強化であるとは、必ずしも断言できない。/人間の向上発展の成功例は、個別的にはこれまでもたえず、地上のきわめてさまざまな地点でさまざまな文化の内部から現れているが、それは近代的な進歩の観念とは違った意味においてである。それは、より高いタイプの人間が――全人類と比較して一種の超人のようなものが、実際に現れ出る場合である。天与の幸運とでもいうべきこのような偉大な成功例は、これまでもしばしばあり得たし、おそよこれからもつねに起こりうることだろう。単に個人ではなく、世代、種族、民族の全体でさえもが、事情いかんによってはそのような紛れ当りを見せるかも知れない。[pp169-170]
このような人は人類史においてたまたま例外として生まれてきたのだが、第3項でニーチェはこの種の人間が意欲されるべきだとする。この意欲(Wollen)は、育成に結びつけられる。 問題は、価値のより高い者、より生きるに値すもの、未来をより確保する者として、いかなるタイプの人間を育成すべきか、意欲すべきか、ということである。/この種の価値のより高いタイプの人間は、従来もかなりしばしば出現していたと考えられる。が、それは僥倖として、例外として現れたのであって、決して意欲されたものとしてではなかった。それどころか、このような型の人間は、人びとからまさしく一番恐れられて来た人間である。(中略)そして人びとは、この恐怖感から、正反対のタイプの人間を意欲し、育成し、達成した。――すなわち、家畜、畜群、病める動物である人間を――キリスト教徒を……[pp168-169]
「今日の人間」への人間軽蔑から話をはじめているところが、分かりやすい
春人氏が述べていた神の死の解釈はかなり適確だと、これを読んでいると分かる ニーチェは〈本当はもう誰も神を信じていないのに、自分をキリスト教だと称するところ〉に吐き気を催していると、言っている
イエスは「偉大な象徴主義者」と呼ばれる。
ニーチェいわく、イエスは「神の国はもう存在している」ということを身をもって表していたが、誰も理解しなかった。信仰ではなく【行為】だった。 弟子が偶然(十字架)を許容できなかったところからのルサンチマンからの初期教会
なぜこの人が殺されなければならなかった?→誰が殺した?(恨み)
人類の罪を償うためだった
ここで我慢ができなくなるニーチェ。「なんでそうなる?!」という感じか。
弟子からすれば、彼の死の理由・必然性(非偶然性)がほしかった。
ニーチェが偶然というものを重視しているようにみえる箇所では、このことを思い出してもいいかもしれない。