『道徳の系譜』日記
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また読んでいくことにした。
『死霊Ⅰ』に書いてあることと関連しそうだ。
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古代の模様だったワイ。弥生時代とニーチェイタロー.icon
序言
精神的な自伝も含まれている。
一
われわれのわれわれや、われわれの体験に関する認識はズレている。おそらく主題、問題とされることだろう。
二
『人間的な、あまりに人間的な』が言及されている。このようにたびたび自著をかえりみて、具体的に言及していく方法はニーチェによく見られる。cf. 『この人を見よ』
長い期間、思想を育てること。人はその人の思想の樹木をもつ。長い期間は、ひとつの太い幹から枝を繁らせる。
これに類似のメタファーをどこかで読んだ。
だから、自伝的な要素も持つのだろう。
三
ニーチェは若いときから道徳の起源に関心があった。そしていわばカントと対照的な考えをもった。やがて史学や文献学の修練を経て、「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を案出したか。そしてそれらの価値判断そのものはいかなる価値を有するか。それらの価値判断はこれまで人間の進展を阻止してきたか、それとも促進してきたか。それらの価値判断は生の窮境・貧困・退化の徴候であるか。それとも逆に、生の充実・力・意志を、その勇気を、その確信を、その未来を覗かせているか。」 カントを知らないとどういうふうに対照的かわからない。
長い沈黙のすえ、ニーチェはニーチェの土地を手に入れた。 最近読んだ『存在と時間』の「地平」を思い出す。思い出しただけ。 四
パウル・レーの『道徳的感情の起源』がニーチェに刺激を与えた。ニーチェはこの本のいちいちに「否」をいいながら読んだ。しかし怒りは覚えなかった。ニーチェはこの本を引き合いに出すことで、自身の若き日からの道徳に対する根本的な疑念を練っていった。ここでニーチェのパロディーの才能が思い出される。 五
「道徳の価値」をめぐって、「価値自体」どんなものだろうの立場に立って生や自己自身に「否」をいったショーペンハウワーと思想的に対峙することになった。ニーチェはそれをさらに掘り下げようとして、「無」「ニヒリスムス」を発見し、注目した。 これは新しい仏教、ヨーロッパ人仏教興味深い言い方だのようなもので、薄気味が悪い。同情道徳の蔓延は、その兆候だ。 これによれば、カントは、近代哲学者には数えられていない。
六
ニーチェは道徳の価値自体を問題とするべきだと考えた。
七
「道徳の系譜」を検討することで、われわれはいつか道徳の問題を楽しく、喜劇として扱うことができるかもしれない。この底をつきぬけたような明るさユーモアはすき 八
この著作は耳障りが悪いかもしれない、と言う。
「箴言」の「解釈」。