📖『HHhH: プラハ、1942年』ローラン・ビネ/高橋啓 訳 (創元文芸文庫)
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読み始め。
オラドゥール村のことは知っていたけれど、プラハのリディツェ村と落下傘部隊のことはあまり知らないので少しだけ予習をしたり地図を見たりしながら読み進めている。 だいぶ読み進めて74章目(23%)。
作者は、ヒトラーのこの後の道を開いたのは英仏の二国であるという態度らしい。
32%、ポーランド侵攻のはじまり、そして第二次世界大戦への突入。
映画『ナチス第三の男』にもあるように、ここではこのポーランド軍による襲撃は実はハイドリヒやナウヨクスによって綿密に仕組まれたドイツ軍によるものだということが描かれている。この辺りの歴史は多くが映画や映像になっているので見ておきたいな。
38%まで。これが原作となっている『ナチス第三の男』を見てみたいけれどすぐには見られないのでNetflixの『ヒトラーの共犯者たち』というドキュメンタリードラマを見る。 以下、そのメモ。
ドイツでは第一次世界大戦に敗北ののち、活躍した軍人が尊敬されるどころか市民に暴力を受けたりしていた。ゲーリングは戦後仕事がなくなり飛行機の曲芸で稼いだりもしていたそう。
ヒトラーを見出した人物として出てくるエッカートは小説家で、トゥーレ協会と結託してドイツ労働党を作る。もともとトゥーレ協会はゲルマン民族をアトランティス大陸ゆかりの優れた民族であるという考えを持っていたみたいで、極右的思想を持っていたエッカートと相性がよかったのかもしれない。その後のワイマール帝国の政策を彼らはユダヤ民族の混じった国の弱腰な姿勢であると批判。今までみたいなすでに地位のあるものではなく、もっと叩き上げの救世主をドイツは必要としているとエッカートは確信。そして党大会でヒトラーを見出した後はエッカートが演説を磨き、ヒトラーが演じるというコンビがうまれた。
この時の演説に惹かれたのはエッカートだけではなく、ルドルフ・ヘスもそのひとりだった。
ヒムラーは終戦当時18歳で、戦争に参加したいのにできなかった。軍に対する歪んだ欲望がある。農業を学んだが、土地と血の結びつきという考えに囚われ、それが後に純粋なアーリア人の血筋がドイツを強くするという考えを強化する土台となっている。
ヴェルサイユ条約で過大なペナルティを受けたドイツは屈辱を募らせていく。
史実を小説としようとする時の話だけど)作者は現実にあったことと書かれたことの間の違いについてずっと考え続けている。それを小説というかたちにしようとすれば、録音した声をそのまま書取らない限り全く同じく再現することはできない。そしてそれが果たして小説として良いものなのかという疑問もある。
私も何かしらのドキュメンタリーを見る時、過剰な作者視点への偏りがあると見られなくなってしまう。どんなものも、関わった人の視点が関わらないでいられるものなどない。でも自分の思想へ寄せるために出来事を選びすぎたり、偏った説明や言葉選びをされていると感じると、見るのをやめてしまう。その思想に賛成であるかどうかは関係なく。
この世の中にあるものはどうしたって受け取るその人の認識によって同じものとはならない。
その端境を見過ごさずに考え続ける記録ともなっている。
72%まで。
ついに襲撃のその瞬間へメルセデスが走り出した。ここにいるのは襲撃を企む人々と襲撃される人、それから作者自身。作者は綿密にその過程を追い、一刻一刻、ひとりひとりの状況を拾い上げ、記録にないことは(逸脱しないよう努めながら)想像する。それからその後の歴史の中で翻弄されたひとたち…。
最後に、それを読んでいる読者、なのかもしれない。
リディツェ村が襲撃されてしまった。
人を消し去るだけではなくその村の存在ごと消し去ろうとする執念は今のイスラエルのパレスチナに対する徹底的な踏み躙りを思い起こさせる。
読了。あとがきにこの小説を完結かつあますところなく説明しているものがあったのでメモ。
この〝HHhH〟という傑出した長編小説は、ハイドリヒがナチの組織のなかで頭角を現し、ドイツは戦争へと着々と歩を進め、ロンドンに亡命したチェコ政府はハイドリヒを暗殺すべくチェコ人ヤン・クビシュとスロヴァキア人ヨゼフ・ガプチークの二人を故国に送り込む、この三つ巴の歴史ドラマを描いた作品である。本格的なスパイ小説に仕上げるに十分な資料を手にしていながら、「細部へのこだわり症」と自称する著者は、ありきたりな作品に落ち着くことを潔しとしない。史実に忠実であろうとする姿勢と、憶測によって事実が置き換えられる瞬間を分析しようとする強迫観念のごとき執着によって、この〝HHhH〟は、歴史小説であると同時に、それを書くうえでの技術的かつ倫理的なプロセスそのものを語ろうとする。この類を見ない手法が文学的成功をもたらした。
読み終えてみて、
「クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ」
と著者は小説内で言っているが、この小説は果たしてどうなんだろうか。まだ読み終えたままで、余韻を味わううちに、何度も思い返すうちに像がかたまってくるかもしれない。
以下もあとがきのなかにあった言葉。
「僕は自分の物語の登場人物に乗り移っている」と書き、そして「僕はガプチークではないし、そうなることもありえない」と書くのを読んで強く揺さぶられる。それでも彼が、そう、今や「僕」でもビネでもある彼が、遂にハイドリヒ暗殺のその瞬間と、それに続くひと続きの痛ましい時間を、まさに今それを見ているかのように、覚悟と勇気をもって書き進めるそのさまに深く感動させられる。それは魔法が詐術でしかあり得ないという残酷な真理を引き受けることによって、詐術を魔法に変えることである。
僕は、世界というものは滑稽で、感動的で、残酷なものだと思う。この本も似たようなものかもしれない。物語は残酷で、登場人物は感動的で、僕は滑稽だ。