2025-07-13
明日はフランスの一番大きな祝日のひとつなので土曜から3連休。
食材を買い込んでアイスも買い込んでお茶もたっぷり作ったので少し楽しいことをしようと思う。とかいってやりたいことは読書なんだけど…。安上がりだな。
朝からとある舞台のコンセプトを日本語にするという作業をしたけど、自分たちが語りたい哲学のために人類史を歪めるようなことが書いてあるのでは…という気がして手が止まっている。
布で体を隠すということの始まりをフロイトの「女性の体は男性の体の欠如した形である」ために羞恥心を持たされるに至ったという構造に結びつけてフェミニズムを語ろうとしているようなのだけど、布で体を隠すことが始まったのは先史時代で、その頃の人類は今とは全く別の世界観、死生観を持っていたはずで、男女というものへの考え方、ひいては羞恥心のようなものの感じ方も近代の生活環境のなかにいる人間とは違うと思う。近世以降の社会に限定して語るならいざ知らず、先史時代に始まったことをフェミニズムと安易に繋げるのは無理がありすぎるのでは…抑圧された女性こそが体を布で覆うことを発見したのだ→フェミニズムが手工業を誕生させ、発展させたという理論に繋げるのはちょっと言い過ぎというか自分の理論のために歴史をゆがめているというか…。そして日本では江戸時代には混浴が普通に行われていたりもしているわけで、今西欧世界で常識となっている男女の体に対する意識、捉え方は人類史にとって結構新しいものだという気がするので、翻訳していて何だか気が重い。
しかもフロイトでフェミニズムを語るって…今はとっくに有効ではなくなっているのでは…?と思っていたけどそうでもないんだろうか。
アイスを食べながらNetflixの『おつかれさま』を見た。人間模様を落ち着いたまなざしで見つめた良いドラマだった。ちょっと感傷的なシーンが多すぎるきらいはあるけれど。
『📖『HHhH: プラハ、1942年』ローラン・ビネ/高橋啓 訳 (創元文芸文庫)』続き。
リディツェ村が襲撃されてしまった。
人を消し去るだけではなくその村の存在ごと消し去ろうとする執念は今のイスラエルのパレスチナに対する徹底的な踏み躙りを思い起こさせる。
読了。あとがきにこの小説を完結かつあますところなく説明しているものがあったのでメモ。
この〝HHhH〟という傑出した長編小説は、ハイドリヒがナチの組織のなかで頭角を現し、ドイツは戦争へと着々と歩を進め、ロンドンに亡命したチェコ政府はハイドリヒを暗殺すべくチェコ人ヤン・クビシュとスロヴァキア人ヨゼフ・ガプチークの二人を故国に送り込む、この三つ巴の歴史ドラマを描いた作品である。本格的なスパイ小説に仕上げるに十分な資料を手にしていながら、「細部へのこだわり症」と自称する著者は、ありきたりな作品に落ち着くことを潔しとしない。史実に忠実であろうとする姿勢と、憶測によって事実が置き換えられる瞬間を分析しようとする強迫観念のごとき執着によって、この〝HHhH〟は、歴史小説であると同時に、それを書くうえでの技術的かつ倫理的なプロセスそのものを語ろうとする。この類を見ない手法が文学的成功をもたらした。
読み終えてみて、
「クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ」
と著者は小説内で言っているが、この小説は果たしてどうなんだろうか。まだ読み終えたままで、余韻を味わううちに、何度も思い返すうちに像がかたまってくるかもしれない。
以下もあとがきのなかにあった言葉。
「僕は自分の物語の登場人物に乗り移っている」と書き、そして「僕はガプチークではないし、そうなることもありえない」と書くのを読んで強く揺さぶられる。それでも彼が、そう、今や「僕」でもビネでもある彼が、遂にハイドリヒ暗殺のその瞬間と、それに続くひと続きの痛ましい時間を、まさに今それを見ているかのように、覚悟と勇気をもって書き進めるそのさまに深く感動させられる。それは魔法が詐術でしかあり得ないという残酷な真理を引き受けることによって、詐術を魔法に変えることである。
僕は、世界というものは滑稽で、感動的で、残酷なものだと思う。この本も似たようなものかもしれない。物語は残酷で、登場人物は感動的で、僕は滑稽だ。
#07-13