指導していて感じたこと(文章理解)
教科書を自分で読むための知識を紹介し、場を作るということは、子どもたち一人ひとりを“教科書を読む主体”とすることを意味する。この構造が文字通り、子どもたちの「 #主体性 」を強く刺激する。今まで制限され、自分のコントロール下になかった教科書の文章がQNKSという言葉を得ることで、自分で編集し、噛砕き、理解していける対象となるのである。これで本稿の問題意識で指摘した「教科書は先生と読むものであり、自分で読み進めてはいけない」という暗黙の文化を消し去ることができる。そしてこの状況は子どもたちにとって非常にやりがいのある状況となっていたように感じる。確かに導入初期は根本的な考え方の転換に戸惑う子も見られたが、継続的に取り組むことでおおくの児童が学習の #学びのコントローラー を受け取り、自分で読む、という姿勢を身につけられていたように感じる。 その主体性の現れとして、2章でも指摘したが、授業の予習や復習をとても積極的にやるようになったということが挙げられる。コレも当然といえば当然で、「教科書は先生のレクチャーのもとで読むもの」という認識のもとで学習をしていれば当然、先生がいない場では教科書を読もうともしないが、「教科書は自分で読むもの」という意識とそれを確実に支える知識(QNKS)があれば、子どもたちは自分で教科書を読もうとするのである。そこに家庭学習では好きなことを学習できるという宿題領域の自由度があれば、多くの子供達がその場を活用し、自力読解に挑戦するようになる。授業で自力読解が思うようにできなかった児童は家に帰って再度挑戦しようとするし、自力読解が楽しくなってきたり、もっと読解力をつけようと思ったりした児童は、未習範囲の読解に挑む。このような姿が多く見られた。その結果として、宿題と授業の境界線が曖昧になり、家と学校という場の特性の違いに応じて学び方を変えるといった工夫をする児童も見られるようになった。
上記のような表れは比較的学習意欲や学力の高い児童に現れた態度であったが、そうでない子どもたちにもポジティブな影響があった。QNKSを用いた自力読解で単元全体の要約文を書くという活動は小学校段階の児童にとってはかなり認知不可が高い活動になる。よって初めのうちはうまくできなかったり、友達の助けを多く借りる必要があったり、最終的に満足に書き上げられず、単元の学習に入ってしまったりすることがある。しかし、QNKSという概念は特定の教科、単元に特化したものではなく、「文章を読む」という活動が発生する場合ならばいつでも使えるというような汎用的な概念であるため、導入時の単元でうまくできなかったら、なぜうまくできなかったのかを分析し「次の単元では、もっと〇〇に気をつけてやってみよう」というような再チャレンジの機会を用意に得ることができる。
この構造は何かを向上させようとするためには当たり前の構造であるが、現在の学校教育においてこの構造を備えているような教育課程は殆ど見られない。多くの教育課程ではある技術や知識は、ある単元、ある時間に設定され、そこで一度指導が行われれば、それっきりである場合がほとんどである。その単元やその時間でうまくできなかったことを次の単元でまた挑戦する、といった努力の積み上げをデザインするという発想がないのだ。
QNKSという概念はこの問題を解決しうる。しかも昨今のカリキュラム・マネジメントという名のもとで行われる教育課程の再編集といった大掛かりなことは必要ない。単元、教科を横断しうる“概念”を導入することで、教科横断的な学びは実現し、教科や単元を横断しながらあらゆる場面をQNKSという概念で切り取ろうとすることで、「文章理解過程」を自分のものとして使えるようになっていく。これを社会で生きて働く知識技能と言って、何か差し支えることがあるだろうか。
ここまでは、個人の認知発達という側面からQNKSの効果について実感したことを述べてきたが、その効果は個人学習のみならず、学級における集団的な共同学習にも現れた。
自力読解と言っても授業中に行う場合には、クラス全員が完全に一人ですべての過程を進行させるという設計にはしにくいし、すべきではない。自立とは依存先を多く持つことであると言われるように、自分の力で読みすすめることが難しいと判断した場合には、他者の援助を求めることもまた重要な学習スキルである。この時、QNKSの過程にそって表象を #外化 しながら自力読解を行っていた場合、QNKSの概念なしにただ助け合わせる場合に比べて、その関わり合いの質が格段に高くなることを実感した。 ただ何の手立てもなく関わり合う場合、相手を援助したければ相手がどこでどのようにつまずいているのか詳しく聞き取り、その内容に応じて援助をしていく必要がある。しかしそれを小学校の教室でやろうとした場合、援助を求める側が自分はどこでどのように躓いているかを正しく表現できる場合は少なく、また援助する側も相手の困り感を聞き取る能力が足りない場合もよくある。
しかしここでQNKSの過程を意識し、表象を外化したノートが両者の間にあればこの難しさの大部分を解決できる。援助する側からすればノートさえ見せてもらえば、相手の理解度が今どの程度かをひと目で判断することができるし、いざ援助をしようと思った時も言葉であれこれ説明することだけに頼るのではなく、自分のノートを見せながら解説することができる。この構造はクラス内で協働的に自力読解をすすめるという活動を非常に円滑に促進することが確認できた。
またQNKSという名称も共通言語のように作用している様子があった。具体的には「まずNしたら?」とか「ちょっとKみせて」といった、具合に、各過程の表象をそのまま英単語で表し、会話する様子がよく見られたのである。これは・・・で指摘した「子どもたちが実際に使える具体性と平易な言葉で定義する必要性」を見している光景であると考える。
NEXT…