世界創作の方法
本論文は meta 的な觀點で書かれる。
我々の目的は世界創作する事と、その世界での物語の創作である。本論文ではそれ等目的の內我々の特徴であると考へる、世界創作すると云ふ事に就いて詳しく述べ、現狀で體系化されたその方法を述べる。
世界設定との違ひ
物語を作る上でその物語が展開する世界を設定する事はよく行はれる。我々の世界創作は現實世界と同等な世界、少なくとも物語にとっては同等な世界を作る事を旨とする。世界を創作する行爲は普通「世界設定」と呼ぶ。世界設定に於いても世界に現實感を持たせる爲に時代考證や自然・人文科學に基づいた考證が行はれる事は普通である。そこで我々の世界創作は世界設定の內で考證の面を強調したものに過ぎず、よく言ったとしても考證の面を徹底させたものに過ぎないと見られるであらう。我々はその見解が閒違ひである事を示す積もりである。
世界設定を物語創作に奉仕するものであると言ふ事は適當ではない。世界を設定する事自體が目的と成る事も有るが、その場合だけに就いて適當ではないと謂ふのではない。世界設定自體が目的と成る場合、旣存の樣々な世界設定に憧れて初めから世界丈を設定してゆく事も有り、また初めは物語を作ってゐたのに軈て世界設定の深みに嵌ってゆく事も有る。このどちらも我々は經驗した。この場合に世界設定は物語に奉仕するものとは最早謂へない。どうしてもさう謂ひたい者から見ても輕重はもう逆轉してゐる。しかし物語に世界設定が奉仕してゐると謂へる樣な物語創作行爲に於いても、物語への奉仕に依って世界設定を特徴附けるのは、世界設定から世界創作を區別したい我々にとって事を有利に歪める事に成らう。何故なら我々は、世界創作は範疇としては世界設定範疇の部分である事を認めるが、世界創作行爲は世界設定行爲のどの部分にも顯はれない、少なくとも感じられる程には顯はれない事を主張するからである。世界創作は世界設定行爲からは偶然か理に依ってしか到達しない。物語を創作し乍ら物語の樣々な點に根據を與へる爲に世界を設定する事を考へる。物事は何故その樣に起こるのか。人は何故その樣に登場し感情・思考し行ひを成すのか。何故行ひの結果はその樣に成るのか。物事は何故そこにその樣に在るのか。或いは範型と成る世界が在りそこに物語を有らしめる爲に世界は物語にどの樣な制約を與へるのか。世界は物語から必要に應じて起こされる丈でなく、世界自體が作られ物語に影響もする。物語への從屬から離れ自存し、物語へ反照する樣に成った世界設定の部分は、物語が物語外に觀念の道筋を持つ足場と成る。物語外の價値は物語自體の價値には不要だったのであるから、世界設定のこの部分は最早物語に奉仕するものとは謂へない。
ここで我々は「世界創作」を一單語の術語として用ゐる。「世界設定」や「世界の設定」等の語は常識的に用ゐ常識を分析するし、「創作」も同じく術語ではない。我々は世界創作を範疇としては世界設定範疇の一部に位置附ける。世界創作を行ふのであればその時世界設定も行ってゐるのである。部分であるが、恰も證明の難しい數學の定理の如く、自然な手附きでは發見し辛い部分であると謂ひたい。世界創作とは「現實世界を創作する事」だと述べられる。この記述は、記述自體を理解するのは容易い。數論の初等的に定式された問題は、問題文自體は容易く讀めるが、眞僞を證明するには、詰まり何が問題と成ってゐるかを明らかにするには可成り高度な技法で再定式化しなければならない事が往々にして有る。定義文を讀める事と定義された事を實現できる事とは異なるだけでなく、卽ち「實際に定義されてゐる事」と云ふ觀念に依って見出される所の定義文から自然に想像される事と、實際に定義されてゐる事との違ひと云ふだけでなく、定義文とは定式であり定式化されたものであり想念が或る配置に成った瞬閒の煌きの痕跡なのであって、この配置の持つ記憶の中で實現できる事とできない事が有るのである。世界創作を認識するには世界設定範疇とは異なる定式化を見附けなければならない。
現實そのものの世界を世界創作すると云ふ宣言は單なる語義矛盾とも謂へる。創作したものは現實ではない。我々は現實が創作されたものだと言ふ積もりは無いし、世界創作は創作したものの來歷を忘れ現實と錯覺する事だと言ふ積もりも無い。現實が創作されたものだとしてもそれは現實である。現實とは虛構と假象の二つに對立する槪念だ。虛構と對立するものとしての現實は、想定される他の現實から選ばれた現實である。假象と對立するものとしての現實は、或る認識が閒違ってゐて本當はかうであったと正す現實である。この二つは混同され易く、虛構は假象されたもので或いは假象は虛構されたものだと言はれる。しかし虛構は可能性の中から現實を選ぶ自由意志に應ずる槪念であり、假象は聯關から整合する物事を選ぶ決定論に應ずる槪念である。さうすれば、我々が以前「ガルデアの統合性に就いてのキリスト敎の三位一體との類󠄀比に基づいた解釋」で行った論證から、現實と對立する三つ目の槪念が有ると推測できよう。解明に際して細部を個々別々に選ぶ透明性に應ずる乖離の槪念である。虛構を許すなら、現實の一部をああであるかもしれない、かうであるかもしれないと云ふ可能性の中で勝手に決めてよく、可能性からどれを選ぶかは現實の側からは決められない事に成る。假象を許すなら、現實の因果には缺落が有り全體を整合する事ができない、聯關はどこかで途切れ、因果は全ての可能性を同時に歩むのだが突如一つの可能性以外は消滅し、どう聯關を辿ってもその先を決める事ができなく成る。乖離を許すなら、現實は知り得ない現實の外の超越に依って魔術的に決められてゐる事に成る。現實であるならば、つまりもし完全な現實或いは不々完全な現實と云ふものが有るならば、虛構も假象も乖離も拒むだらう。實際には三つの槪念を全て拒むには人は瞬閒の知覺だけに留まらねばならない。二つの觀念が偶然出會ふ記號は存在しない事にしなければならないし、二つの行ひが偶然出會ふ事件も起らない事にしなければならない。例外が必然性を犯す事の無い完全な現實或いは不々完全な現實に憧れるのは良い。それは神或いは空と呼ばれる。そこに辿り着くには信仰或いは歸謬に依らなければならないだらう。我々は世界創作に就いて、この論文で創作に就いて考へるに當って、生きて遭遇しない完全な現實或いは不々完全な現實ではなく、現に出會ってゐる現實を考へようと思ふ。詰まり虛構と假象と乖離の三つの全てを拒む現實の槪念は存在しない。ならば虛構と假象と乖離で描いた三角形の中で燃え盡きる理念としての現實が顯れる。瞬閒の知覺に存在しない物事を現實だと敍述する爲には虛構か假象か乖離のどれか一つを許せば良い。假象でなく乖離でなければ現實は虛構である。虛構でなく乖離でなければ現實は假象である。虛構でなく假象でなければ現實は乖離である。しかし現實であれば虛構や假象や乖離をただ許す訣にはいかない。現實が綻んで虛構をただ許し或いは假象をただ許し或いは乖離をただ許して單に可能なものに成った時にそれを創作と呼ぶのである。創作では虛構や假象や乖離を自在に使って興味深い記號の因果や事件の因果を實現する。小說の中では、虛構は作者として、假象は讀者として、乖離は登場人物として現れる。現實に就いての敍述の中にもこれらは現れる。しかし現實に就いての敍述を稱するならば、虛構や假象や乖離を許した事を覆ひ隱さなければならない。敍述の飛躍が、その敍述が創作である證據を覆ひ隱す。飛躍の無い現實に就いての好い敍述は不可能であり、巧い飛躍を最後に受け持つ分野は哲學と呼ばれるだらう。巧い飛躍は敍述に許した創作の手附きとは異なる手附きで行はれる。例へば虛構を許したならば虛構を覆ひ隱す飛躍は、虛構を許した時には拒んでゐた假象か乖離で行はれる。現實を敍述し飛躍を覆ひ隱す手附きは、物語を創作をする時にも模倣できるだらうか。現實に就いて敍述する時には、その敍述は現實の物事や他の敍述により鐵槌を下される故に、身を硬くして創作としての姿を露はにするか、繼ぎを當てられ、或いは打ち捨てられる。しかし創作が現實に就いての敍述を模倣するならば、人を唆して創作させ、虛構や假象や乖離を嫌って飛躍を強ひ、また覆ひ隱す飛躍を暴く、何かが要る。美が人を唆し、創作しなかった事が飛躍を強い、現實の飜譯としての世界が飛躍を暴く。創作に鐵槌を下すものとして、創作されてゐない物事達の世界を世界創作しようと言ふのである。だから現實そのものの創作には世界創作が、現實そのものの世界創作が必要だらうと思ふ。世界創作に現實の大部分をその儘使へば現實そのものの社會小說や現實そのものの科幻小說に、世界を丸ごと世界創作すれば現實そのものの幻想小說に成るだらう。我々は現實の未來と他の星の文明を兩河世界として世界創作しようとしてゐる。 現實の下す鐵槌は先驗性と名附けられてゐる。先驗性を創作するのは矛盾だとも謂へる。創作は人が書いたものであり、現實に就いての敍述も人が書いたものである。現實が敍述に對して先驗的であると云ふのは、敍述を書く者が經驗してゐなくても現實は存在し、敍述を讀む者が經驗してゐなくても現實は存在し、敍述自身が關らない部分へも現實が存在する事を謂ふ。書く者はその敍述を無視して現實に就いての他の敍述を書いても良い。現實とは書く者にとって、たとへ同等であるとしても或いは殆ど同等であるとしても新たな敍述を書く權利である。讀む者は敍述の綻びを見附け現實の名に於いて敍述の閒違ひを言ひ立てても良い。讀む者にとって現實とは、敍述の襞を押し広げる光學的裝置である。敍述の內から見ると、現實は敍述の內で不可解な實現を遂げる。關係しないと思はれた物事は敍述の內で結び合はされ、混濁した物事は整列される。敍述自身にとって現實とは、自身を異なる形で實現しようとする原理であり、完結した敍述に例外を挾まうとする臨在である。しかし現實に就いての好い敍述であれば、他の敍述を拒む程に完備であり、如何なるほつれも見附けられない程に完璧であり、餘計な點の無い全圓として現實をその內に實現するであらう。創作に對して、他の立場から異論を立て外から光を當てまた客觀的におびやかす、と云ふ身振りをする事は先驗性を模倣する事と似ても似つかない。創作の外から創作を弄ぶこの身振り自體は現實から試されず、創作が詰まらなく見えて來る事に依ってしかおびやかされない。創作が陳腐に見えて來る事こそ世界設定範疇で考へられた世界設定が陷る危機である。現實に就いての好い敍述は何故現實に就いての好い敍述だと言へるのだらうか。現實の物事には、確かめてゐない他の面が有り、他の知らない物事との聯關が有り、分け入った先の見逃してゐた細部が有る。より好い敍述が發見され、敍述の誤りが明らかに成り、敍述の及ばない物事が登場する。しかしその事に依って現實に就いての好い敍述が現實に就いての好くない敍述に成り果てはしない。自然に就いての古い好い理論は古い時代に於ける實驗的制限の下での自然の好い描像を與へる。人閒精神に就いての古い好い敍述は適用に制限を受けるとしても現在の人閒精神に就いての好い警句である。現實に就いての好い敍述は現實そのものの缺片を含んでゐる。好い敍述に表れた現實の徴は、括弧に圍まれた明らかな引用として、或いは仄めかされた暗默の言及として、敍述の歷史に繰り返し顯れる。現實そのものの缺片は構成できるものではなく、突如として敍述に襲い掛かり、或いはいつの閒にか敍述に居座って、敍述を現實に就いての好い敍述とする。この缺片は求めても無駄である。警句を意圖して引用した敍述は、引用した警句を擦り減らし陳腐なものに變へてしまふ。瞬閒の內に顯れた現實そのものの缺片の痕跡が過去の敍述と結び附き、古い敍述を新しい敍述の中で實現するのである。世界創作は現實そのものの缺片を創作の中に顯さうとする。創作に顯れた現實そのものの缺片の痕跡は創作の現實性と呼ばれるが、現實性の有る創作が現實そのものであると云ふ錯覺は作者や讀者や登場人物に依る追究を呼び起こし、軈て創作が創作である事を露にする。創作である事の暴かれた時が、古き缺片が亡きものと成り新たな現實そのものの缺片を發見した瞬閒なのだ。世界創作は現實に謎が有る限りその謎を共有する。共有し追究する。現實で捕まへた缺片の痕跡は必ず世界創作の世界で同じ、或いは異なる姿で模倣される。現實で物事の蒐集の中から偶然飛び出た現實そのものの缺片は、世界創作でも物事の蒐集の隙閒から顯れるだらう。現實の物事と世界創作での物事の混ぜ合はされた堆積の中から煌く光が、現實に就いての敍述にとっての先驗性であり、世界創作にとっての先驗性である。
以下では、我々が現在兩河世界の爲に確立した世界創作の方法を述べる。 蒐集と配置
物事や物事達から讀み取る內容は人に依って、また同じ人でも時に依って異なる。同じ物事から讀み取る內容が人や時に依って相對的である事は、經驗や想像力、或いは讀む能力と呼ばれる。別の見方もできる。物事が讀む者に見せるのは物事の一面であり、異なる者や異なる時に對して二度と同じ面を見せる事は無い。しかし敍述が異なる面を見せ得るだらうか。敍述は言葉であって、言葉は誰にとっても同じ音韻或いは同じ文字である、少なくとも誰にとっても同じ音韻或いは同じ文字だと信じられてゐるから言葉は言葉である。例へば文字であれば、「声」と「聲」とが同じ文字であるかは曖昧だが、「聲」と「聲」とは同じ文字であるか、少なくとも同じ文字であると信じられる。音韻や文字が誰にとっても同じ音韻や文字でなければ、少なくとも同じ音韻や文字であると信じられないならば、言葉が傳達されるとも信じられないだらう。音韻「た」が音韻「だ」と成り文字「太」が文字「大」と成るのは言ひ閒違へや聞き閒違へ、或いは書き閒違へや讀み閒違へと呼ぶのである。だが知らない外國語の音聲からは音韻らしきものしか聞き分けられず、使はれなく成った文字達に依る文書からは文字らしきものしか讀み取れない。嘗て讀んだ筈の敍述に或る時歸って來ると、今正に知りたかった事が魔法の樣に書かれてある事に氣附く。現實に就いての敍述であれ單なる創作であれ、敍述を書いてゐる文字は目に見える一つ一つの文字ではなく、敍述が附き從へる現實が書き込んだ、今では使はれなく成った文字達なのだ。この死せる文字達を讀み明かしてゆくのが讀む者の能力なのである。
或る現實の物事に就いての敍述は、その物事の別の面や、敍述で取り上げなかった物事との關係や、その物事にどこかから顯れる不可解な暗號に依って阻まれる。この事から或る現實の物事を完全に敍述する爲には先に完全な現實の全體を知らなければいけないし、完全な現實の全體を知る爲には一つ一つの物事を完全に知る事に依ってしか成し得ない、と言はれる。全體を記した一つの敍述は、統一的な敍述でもある。場合に依っては全體性か統一性のどちらかを諦めても良い。現實の全體に就いてとは限らないが統一された完全な敍述が有れば、統一された完全性に照らされた個々の物事は統一された完全な敍述を影として殘す。異なる統一から照らされれば異なる敍述が生まれるが、二つの光源を統一する新たな完全性を見附けて再び統一された敍述を產み出す事ができる。無限な敍述の中に現實の全體が完全に書かれてゐれば、この敍述を統一的に讀む事はできないが、敍述の全體が在る事を信じて個々の物事を敍述できる。現實に就いての無限な敍述を新たに讀み進めれば個々の物事に就いての敍述は修正されるだらうが、個々の物事に就いての敍述も無限な長さの完全な全體を持つのである。全體性か統一性のどちらかを諦めて完全な明晰性を得る事もできよう。全體が記されてゐず或いは統一的な觀點に遡れずとも、完全に明晰な現實に就いての敍述が有れば、個々の物事に就いての敍述は、明晰でないものが有る事か或いは明晰さを享受する觀點が無い事に惱むだらうが、明晰に敍述できると信じられよう。實際の敍述は全體か統一か明晰のどれかを諦めなければならない。全體を諦める方法は現象學、明晰を諦める方法は解釋學、統一を諦める方法は博物學と呼ばれる。博物學に於いて諦められた統一は、軈て夢想として復活するだらう。
博物學者の仕事は自然を一册の圖鑑に收める事だ。世界の全ての物事を拾ひ集め、幾頁もの紙の上にそれらの物事を竝べ直す。顯微鏡に翳してやっと見附けた同じ模樣を持つ物事を同じ頁に竝べる。一見似て見えた物事達は異なる頁に配置され、似つかぬ物事達に思はぬ同じ模樣が發見されるだらう。重要な模樣と些末な模樣が區別される。頁の中で物事は番號を振られる。一つの物事は樣々な頁に現れ、突き合はされた模樣達の圖形を描く。模樣達の圖形の中で、重要だった模樣は些末な模樣に轉落し、些末だった模樣が突如として中央に浮かび上がる。模樣達の圖形は分類體系と呼ばれる。分類體系を人の手に渡した所で博物學者の仕事は終はり、博物學者は再び物事を組み替へる仕事へ戾ってゆく。我々は現實世界を知らない。現實世界を知らないが、現實そのものの世界を世界創作しようとする。現實の物事を矯めつ眇めつ眺め遍歷しても我々は無知に留まるだらう。現實は現實そのものだから、現實そのものの世界を世界創作できるならば、現實世界そのものも世界創作できるだらう。現實世界を知らないのに何故現實世界が世界創作できるだらうか。何も知らない事と知らない事が有ると云ふ事とを區別するべきである。我々は現實に就いて無知であっても、我々は現に存在し現實の物事も現に存在する。現實に就いての敍述も現に存在する。これは現實に就いての知である。我々は、現實に就いて統一で全體で明晰であると云ふ意味での完全な知を諦めれば足る。博物學者はいつ終はるとも知れぬ本に、一冊の本に成る事を夢見乍ら現實の全體を集め切る、集まった物事が全體である。物事は明晰に描き止められる。しかし圖鑑は統一されず雜然と目次立てられても好い。世界創作に於いて我々は博物學者として現實に就いての全ての敍述を集めてゆき、敍述から細片を取り出し箱に收める。細片を取り出しては槪念の上に竝べ、細片を取り除きまた加へ、槪念を取り替へ、細片が作り上げる模樣を探り出す。この模樣達の竝びが蒐集と配置で得るものだ。
夢想と審美
自らにとって幸福であると云ふどんな事も、自らが幸福に成ると云ふ事を含意してゐる。他人が幸福に成ってゐると豫想される狀態を望むのは、他人の幸福或いは幸福感を豫想する自らを幸福にする爲だ。幸福と幸福感とを區別するならば、自らの幸福は自らの不幸であり得る。人は自らの好みを追ひ求めて純粹な苦しみへ體を投げ打ってゆく。人が幸福を追ひ求めて不幸な結末に至るのは遠い未來を豫想し閒違へるからではない。幸福に成るべく努力したが不運にも自らの知る筈も無い因果に依って不幸に成ってしまふ事も、かうすれば幸福に成れると思ひ込んで損をする事も有る。しかし人が病に陷らずにゐられるのは不幸感を幸福として享受できるからだ。人が幸福を望むだけではなく不幸をも望まなかったならば、不幸を溫存する爲の祭式や文明は發展しなかったであらう。若し人が自動的に幸福感を求めるならば、苦しみを求め遂には幸福感すら快樂であるとして拒む者はゐ得ないか、殆ど全ての人が不幸を求めるのだとしてもそれは正常ではないと言はなければならない。意識して求めるのであればそれがどんなに苦しく辛いものであらうと思はれても幸福感を求めてゐるのだとされる。人が不幸へ自動的に傾斜してゆく行ひを無意識と呼べば、夢想は無意識の求める不幸を統一された、甘やかな或いは慘憺たる幸福感へ恢復する。
創作されたものには作者の單純な好み以上の意識と無意識が反映されてゐる。創作したのは或る個人や或る集團や、歷史上その作品が渡り歩いた人々の手が加はってゐるかもしれず、更には自然の作用も作品を變へてゆく。作品が誰にも知られざる構想の儘であり無限の儘であれば作品が受けた影響と云ふものは考へなくてよかっただらう。構想が實際の作品として現出する爲には、作品は他の作品、作者の體調、文明や歷史、風化、知人の忠告、家族とのいざこざや慰めの閒を通ってゆく。影響は作者の中に折り重なり作品に痕跡を殘す。實現した作品が誰にも知覺されないのであれば、作品はまた無限へと戾ってゆく。しかし或る者が作品を知覺し幾分なりとも作品として理解するならば、理解者もまた作者として、理解者への影響を映し出し乍ら作品を理解された作品へ限定してゆく。或る作品の作者には、作品が未來に於いても享受され續けるならば過去から未來に亙る全ての影響が疊み込まれてゐる。痕跡の中には或る理解者にとってありありと見えるものも有れば、雜音に紛れ區別されなく成るものも有るだらう。雜音から痕跡を際立たせる鍵を見附けるのは讀者の役目だ。體を傾けると光の加減で見えてゐなかった傷が見える。これは鍵穴だらうか。なんとかその穴に合ひさうな鍵を見附けて來て差し込むが巧く入らない。差し込んで囘せてもそれは單なる龜裂で、作品はばらばらに碎け散ってしまふかもしれない。しかし鍵穴に適切な鍵を當てる事に成功したならば、作品は一變し新たな影響を呼び込むだらう。
これが解釋學者の仕事である。解釋學者は作品を切り分け消毒し標本棚に整然と納め報告書をしたためたりはしない。作品の呼ぶ聲が聽こえたら氣の所爲である振りをしてそっと覆ひを被せてやる。覆ひの御蔭で作品は物怖じせず饒舌になり、解釋學者はその御喋りを作品の中へ書き込んでゆく。解釋學者は作品の時を超えた全體を統一して理解する爲に、讀者であるだけでなく自らも作者と成る事を厭はない。理解が現實に就いての理解でなくて良いのなら解釋は明晰ですらあり得るだらう。しかし現實は解釋を逃れてゆく。解釋は作品の不可思議な箇所を何とか說明する爲に、作品を解釋するのではなく作品に操られ、作品に言はれるが儘に言葉を發してしまふ。解釋學者が現實の世界を作品として解釋するならば、解釋學者自身が世界の中にゐる事は障礙とは成らない。世界に漂ふ囁きは、自身も含めた何かとぶつかり物事として作り上げられる迄は無限である。囁きが解釋學者に出會ふと、解釋學者の中にさざなみを立て乍ら物事としての姿を映し出す。解釋學者自身も囁きとして解釋學者に出會ふ。世界の全體は統一された幸福な夢想として存在する。しかし多くの囁きが立てたさざなみに依って歪んだ水面は歪んだ像を映し出し、混亂した夢想は無限へ發散してしまふ。發散した夢想を引き戾すには波をできるだけ打ち消す波を立てれば良い。しかし現實の立てる波は完全には豫測できず、近似を選ばなければならない。適切な近似は現實だけに依って選ぶ事はできず、最後の決め手は美的な好みと成る。かうして像は美的な好みに依って復元され、夢想に一抹の不幸が紛れ込む。好みを權威として、審美として打ち立てられれば、好みの原因は審美が知ってゐると見做されて、夢想は免責され生き殘る。
再現と置換
世界の或る部分が解ってゐると云ふ時、それを基に世界の他の部分を明らかにできるならば世界には整合性が有ると云ふ事に成る。或る物事が或る時だう云ふ狀態であったかが解り、その事からその物事の異なる時の狀態を導けるならばこの方法を力學の運動法則と呼べる。運動法則は、或る時點の狀態から次の時點の狀態への微分方程式として書けるし、或る時點の狀態から次とは限らない異なる時點の狀態に移る迄に滿たすべき制約である積分方程式としても書ける。幾ら現象を觀察し觀察を堆積し續けても現象の或る部分を選び出しまた捨てる創意が無ければ法則は知られない。未だ知られない法則に依って現象を說明する道行きは現象に埋め込まれた法則を言葉で模倣するものだ。現象から法則を見出すのが歸納だけに依るものではないやうに法則から現象を再現する手附きは演繹だけに依るものではない。觀察された現象達から、法則を媒介にして現象達を模倣し新しい現象が再現される。新しい現象が豫言され、旣に法則の知られた現象から新たな法則が見出される。現象の言葉に依る模倣としての法則は模倣だけでなく取捨する創意にも由來し、法則を媒介とした現象の模倣としての再現は模倣だけでなく媒介の角度を選ぶ創意にも由來する。法則と法則が、再現と再現が、法則と再現が齟齬を來したならば、法則は衰微し或いは打ち倒される事も有るが多くの場合には、無限へ發散する特異點を有限な値で置換する樣に、元の法則は溫存され齟齬は新たな法則で置換される。現象は未だ知られない法則から再現されたものとして觀察され、現象達に發見された奇妙な齟齬は再現同士の齟齬として置換され法則が取り出される。そこでこの方法を再現と置換と呼べるだらう。再現と置換に依る現實に就いての敍述は、模倣し創意する現象學者に依り統一され齟齬と置換の緊張に依り明晰だが、全體を諦める。現象は現實の一部しか再現せず、置換は脅威としての現實を覆ひ隱し、覆ひの向かうに在る現實を追ひ求める。
現實の現象や法則は現實そのものの世界創作に於いても現象や法則である。現實の法則が再現するのは現實の全體ではない。世界創作は現實の現象を模倣し新たな現象を再現する。世界創作した新たな現象はまた現實の現象を再現する筈だ。世界創作した法則が現實の法則と齟齬を來し抛棄される事は、現實に就いての理論家が思ひ附きを矛盾に氣附いて抛棄するが如く往々にして有るが、現實と世界創作のどちらの法則も述べてゐない事を新たな法則で置換すれば、世界創作した法則は置換した法則に媒介され先程迄とは微かに異なった現象を再現し始める。現象から現象へ、法則から法則へ、現象から法則へ、法則から現象へ再現する終はり無く續く行程は置換する操作の所で、折れ曲がるのではなく、折れ曲がり特異點を成した記憶を殘し、しかし世界創作する者へ、御前はここにゐるのだと示すべく戾って來る。現象學者はここで一歩退く。世界創作する者自身は法則や現象に媒介されず、再現もされず置換もされない謎として留まり、現實を法則や現象に依って決定する力を手放す。現實は中空に浮き、互ひに模倣し合ふ現象達の亂反射する眩い光に覆ひ隱される。現象學者はその光の中に飛び込んで自らの身が燒ける事も受け入れて現實を呼び求める。これが再現と置換をする者の姿である。
三つの方法同士の關係
世界創作の三つの方法は創作の方法としてもそれぞれ獨立して行使し得る。博物學者は世界の新しい姿を見せ、解釋學者は物事の關はりを殖やし、現象學者は法則を發明する。世界創作する者は三つの方法を次々に使ふ。各方法は互ひに許し合ふ。蒐集した物事は夢想と再現の糧と成り、夢想は蒐集に納められまた現象や法則へ再現され、再現した物事は蒐集され夢想の礎と成る。しかし各方法は互ひに拒み合ひもする。配置は審美に依り糾彈され置換に依り誤解だと札を貼られる。審美は配置に依り組み替へられ置換に依り根據を暴かれる。置換は配置に依り恣意を宣告され審美に依り拒絶される。三つの方法を三つ同時には使へないが組み合はせて次々に使へはする。一つの方法を使ふ時には他の方法が材料と成り或いは統制する。また三つの方法は螺旋狀を成す行程とも見做せる。蒐集と配置から夢想と審美を經て再現と置換へ至る道は、情報を集め考察し決定する螺旋に見える。逆に再現と置換から夢想と審美を經て蒐集と配置へ至る道は、辿々しい模倣から空想を膨らませ體系を得る螺旋に見える。出發點を替へればそれぞれの螺旋は異なる姿を見せる。夢想と審美から再現と置換を經て蒐集と配置へ至る道は、思ひ附きが根據を見附け實現される螺旋に見える。同樣に續け、世界創作の方法は六つの螺旋の組み合はせとして記述される。再現と置換から蒐集と配置を經て夢想と審美へ至る道は、自明な繰り返しの思はぬ模樣を見附けて嗜好を作り上げる螺旋に見える。夢想と審美から蒐集と配置を經て再現と置換へ至る道は、作った箱庭を集めて癖を見出し敷衍する螺旋に見える。蒐集と配置から再現と置換を經て夢想と審美へ至る道は、集めたがらくたに法則を見出して理想を語る螺旋に見える。
本論文で登場した槪念は同じ三角形或いは三邊形に乘る。對應は次の表で示せる。
table:表
方法 創作 現實に就いての敍述 小說の人物 學
蒐集と配置 虛構を許す 統一を捨てる 作者を諦める 博物學
夢想と審美 乖離を許す 明晰を捨てる 登場人物を諦める 解釋學
再現と置換 假象を許す 全體を捨てる 讀者を諦める 現象學
結論
哲學者の使命は、流布された知識に手を貸したり因果への要求に應へる事ではなく、旣存の知識を知り乍ら知らずまた魅惑からの願ひを適へ乍ら適へずして、新たな說明すべき事を作り出し新たな說明を作り出す事だ。新たな說明に依って哲學は、現實に就いての敍述が現實に就いてのものである事の擔保を、旣存の知識や權威が斷定し押し附け合ひ先延ばしにした所で引き受ける。我々はこの論文で、兩河世界の創作にて行ってゐる方法を世界創作と名附け手順を述べ、現實に就いての敍述と對照しまた創作とも對照して世界創作に依り何が成されるかを示した。我々は虛構・假象・乖離の名で創作に就いても論じたが、現實に就いての敍述と現實そのものの世界創作と對照した限りでの創作に就いて述べたのであり、假に創作を主題として論ずるならば創作は創作自體に依って特徴附けられるべきである。 世界創作を我々は兩河世界の創作に固有の方法としてではなく、廣く使ひ得る創作の方法として述べた。この論文自體が世界創作の方法で書かれた應用例である。世界創作は現實そのものの世界創作であり現實と見紛ふ創作ではない。現實と見紛ふ創作に魅せられた者は或る時現實へ振り返り、創作が現實ではなかった事を思ひ出す。一方で現實は往々にして現實らしくないから、世界創作は現實を目指し現實らしさを目指さない。世界創作はまた、單に共有できる樣にした世界設定でもない。現實は共有できない斷絶に見舞はれる事を人類は經驗として知ってゐる。それでも現實は人類を襲って來る。兩河世界は兩河世界を世界創作する者に立ち現れ突き放しまた寄り添ふ現實そのものと成る。 參考文獻に依る謝辭
本論文の全體は次のものに影響を受けた。
ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」(同書所收)。前揭書所收の譯も參照した。
table:表
乖離を許す 透明性が無い 人類
虛構・假象・乖離の槪念はこれ迄時閒論として表現されて來た。
虛構を許すものには以下が有る。
假象を許すものには以下が有る。
乖離を許すものには以下が有る。
虛構を許す事と假象を許す事の爭ひは以下に見られる。
三種の時閒論を竝立したものは以下に見られる。
同「差異と反復〈下〉」2007 年
時閒論ではないもので、現實に就いての三種の敍述を竝立したものには以下が有る。
「蒐集と配置」の節は以下に影響を受けた。
「夢想と審美」の節は以下に影響を受けた。
同「精神分析の四基本概念(下)」2020 年
「再現と置換」の節は以下に影響を受けた。