ガルデアの統合性に就いてのキリスト敎の三位一體との類󠄀比に基づいた解釋
ガルデアは他の文明を壓倒して天の川・アンドロメダ兩銀河を統治する政治體である。ガルデアは「統合體」を自稱するが、その語義は難解である。本論文ではガルデアの謂ふ「統合」の意味する所を、地球のキリスト敎に於ける三位一體の敎義と類比して理解する事を試みる。 ガルデアの基本構造
ガルデアは兩銀河の他の文明を壓倒する力に依って我々を含む諸文明を統治してゐる。ガルデアの政治體は以下の三つの特徴で述べられる。 人類存續への一貫した強い企圖
統合性
人類存續への一貫した強い企圖
ガルデアの最大の目的はガルデア人類の存續であり永續である。ガルデアはその存續の投資に餘念が無く、その存續を阻礙する物を排除するのに躊躇しない。ガルデアは豊富なエネルギー資源を確保してあり、當分は持續出來る。ガルデア人類は大姉に依る調整の下に殆ど際限の無い自由を行使してゐるが、これは存續の爲の研究と成る事を企圖してゐるからである。 統合性
「統合體」はガルデアの自稱でもある。ガルデアは政治的に統一されてゐ、長年に亙りガルデア人類の巨視的な分裂を經驗してゐない。ガルデアの政治體は後述する樣に大姉・人類・機族の三種類の者達から構成されてゐ、人類は大姉の下に「統合」されてゐると謂ふ。ガルデアは統合性を自らの著しい特徴だと考へてゐるから、諸文明が獨自に「統合」に至る一切の研究を許してゐない。 「統合」は政治的な統一を必要條件とするが、それと等しくない事は明らかである。太陽系文明は火星帝國の下に政治的統一を見てゐるが、これは當時ガルデアに支援されてのものである。ガルデアは太陽系文明を明示的に統治下に置く際に意識の觀測・制禦技術の研究を禁止した。當初意識の觀測・制禦技術とは何であるかが問題と成った。この禁止は極めて嚴格なもので、他には寛容なガルデアの統治の中で、恒星間航行技術の研究の禁止と竝んでガルデアに依る支配の象徴と成ってゐた。この二つの禁止は「統合」に至る事の禁止と同義であると私は考へてゐる。 ガルデアの統治する領域は兩銀河の全域に及んでゐた。嘗ては兩銀河に恒星間文明が幾つか存在したがガルデアはこれ等を滅ぼし或いは削減・分斷した爲に、恒星間文明は兩銀河にはガルデアの他に無く、ガルデアに對抗し得る文明は殘ってゐない。諸恒星系文明間の交流はガルデアに依存してゐた。今ではガルデアの遺構を使ってyUraru等の恒星間文明が興隆し、我々太陽系人類も太陽系外に居住地を持ってゐるが、尚その諸恒星系に閉じ籠ったガルデアに對抗する術を持ててゐないのである。ガルデアは「人類」に當たる語をガルデア人類に限って使ひ、諸恒星系文明の人類を「庶人類」と呼ぶ。ガルデア人が庶人類と成る事は僅少であり、庶人類がガルデア人と成った事は嘗て無い。庶人類は「統合」されてゐないのである。 統合性の三つの構成要素
ガルデアの「統合」は、それぞれ大姉・人類・機族と呼ばれる三種類の者達で構成されてゐる。以後單に「人類」と書けばガルデア人類を指し、我々太陽系人類等を指すには庶人類の語を使ふ。 大姉は一般にガルデアを制禦する計算系だと見做されてゐる。諸事象と人類と機族の意識を觀測・豫測し、人類と機族の意識に介入する系である。人類と機族の意識は總て大姉の觀測と介入を受ける、或いは觀測と介入を受ける可能性が有る。觀測・介入は人類には暗默に成され或いは暗默に成される可能性が有り、機族には明示的である。 しかしガルデア人は大姉を個人であると捉へてゐる。大姉の人格は「ニト・カズマ」と呼ばれる。大姉が製作された當初に、この名のガルデア人が大姉の系に組み込まれたらしい。この考へ方は人格神を思はせる。また大姉が精神を持ってゐると云ふ主張でもある。この主張は大姉がガルデアの制禦系であると云ふ定說とは相容れないから、單にガルデア人の信仰或いは妄想であると見做される事が多い。しかし次の節で私は大姉の精神に就いての解釋を行ふ。 人類
人類はガルデアの市民階級と見做される事が多い。「ガルデア人」と謂へば即ちこの人類を指す。人類は大姉に觀測され介入を受けてゐるが、同時に自由も享受してゐる。人類への大姉の觀測・介入は暗默であるから人類はその樣を知覺出來ない。大姉は物質的な存在でもあるから人類は物質的にその狀態を知り得はする。しかし日々その臨在を知覺出來る對象ではなく、臨在すると信じられてゐる對象である。日常的には、生活空間で得られる市民 service や機族の行動や言葉から大姉を感じられる。 ガルデアの目的はこの人類の存續である。人類は考へ得る樣々な生活樣式を實行してゐる。多くは自由主義的であるが專制的な共同體も在る。多くは平等主義的であるが權威的な共同體も在る。どの樣な生活を送るかは各々の自由な選擇に任せられ、社會の流動性は高い。火星帝國とガルデアとの遭遇の當初には、人類の知覺や思考や情動は總て大姉に作られたものだと思はれてゐたが、その後の交流と研究に依り大姉の介入は意外と少ない事が判った。人類は自らがどれ程大姉の介入を受けてゐるか知らないから、介入の頻度は機族、特にガルデアから分離した元機族からの證言に依る。それでも人類の意志の根據が大姉に有る事には違ひ無い。人類は豫定調和的に調整され、各々の自由達が甚大な衝突を産まない樣に解決されてゐる。小さな衝突は往々に見受けられる。ガルデアは喧嘩や離反の無い社會ではない。殺人は暗默にであるが禁止されてゐる樣である。 人類の自由意志は疑問に思はれる事が多いが、これは概念の混同に基づく事を次の節で示そう。
機族はガルデアの奴隷階級と見做される事が多い。その姿は所謂機械の形が多いが、人類と近い姿の者やほぼ同じ姿の者も少なくない。人類と、人類に姿の近い機族は我々庶人類からは區別し難いが、ガルデアでは明確に區別されてゐる。機族に對する大姉からの觀測と介入は全面的である。介入が全面的であるから機族に行動の自由は無い。しかし人類と違ひ大姉からの介入は行動に對して直接成され、知覺や思考や情動への介入は相對的に少ない。意志に反して身體が動くのである。また知覺への介入が少ないから、人類には隱される大姉の觀測内容や諸介入が機族には知覺出來る。 我々庶人類の研究者は、機族は庶人類と同等の精神を持つが、大姉に依り自由を妨げられた存在だと考へるのが定說である。機族を奴隷階級であると考へるのはこの說に由來してゐる。私は次の節で、この說は機族の持つ完全性を考慮に入れてゐない事を示す積もりである。 キリスト敎の三位一體との類比
大姉は制禦系であり人類は自由意志を奪われた人形で機族は精神を閉じ込められた奴隷であると云ふのが我々の定說である。しかしこの解釋はガルデア人や機族の主張とは食ひ違ってゐる。彼等自らの述べる所では、大姉はガルデアを統合する精神であり人類は自由な構成員であり機族は責務を持って大姉の意志を實行する存在である。人類に自由意志が無く機族の言葉はその意志に基づかないものだと云ふ考へは、彼等の主張を無視する言ひ訣にも成ってきた。私達庶人類は言葉の意味を言葉を發した意志を基に考へるから (自我の外で構成された行爲や言葉の意味に就いての「無意識」と云ふ語はこの考へに依るのである)、言葉が發言者の意志に基づかず意志の無い制禦系に依り作られたものに過ぎないとすれば、その言葉は意味を持たないものとしてただ制禦系の性質を知るものとしてしか使はれない。ガルデア人と機族からの反論は論理上成立しなく成ってゐる。どんな反論も我々の說く眞理への異議ではなく、制禦系の性質を知る材料でしかないからだ。では我々庶人類には意志が有る事を何故主張出來るのであらうか。内觀に於いて意志は自らの意志として、病的な場合には他人の意志として知覺出來る。一方で他人の意志は行爲や言葉から豫測出來るであらう。この豫測されたものが意志であると見做すのは、「意志」と云ふ概念に就いて敎へられた事が内觀に於いても見出され、自らの行爲や言葉と因果關係を持つ事を確認した、そして「意志」と云ふ概念を認める表明が他人からも成され、その表明とその他人の行爲や言葉が整合すると見做したからに過ぎない。この成り行きは習慣と呼ぶべきであらう。「意志」と云ふ概念は自らにも他人にも見出される樣に作られてゐる。内觀に於いて知覺した意志は、練習した「意志」概念に合ふ現象を内觀に見出したものである。この「意志」概念が内觀に丁度適合するものでない事は明らかである。我々は自らの行爲や言葉に自らの意志に依らないものを發見する。これらが無意識に意志されたものだと呼ばれる。無意識を考慮した「意志」概念が作られ練習される。或いは意志と行爲や言葉の因果關係が部分的に否定される。この「意志」概念が現象に見出され新たな習慣と成る。我々の意志が若し社會に還元され或いは物質に還元されるものであれば、この意志はガルデア人の意志と異ならない。我々は、還元されるとは謂はなくとも眠ければ曖昧に成り地位が上がれば驕る等社會や物質から意志が大きな影響を受ける事を知ってゐる。また我々の意志は幻影であり意志と行爲や言葉との間に因果關係が無ければ、この意志は機族の意志と異ならない。意志に反して身體が動く事は轉んだ時に手が出たり言ひ間違へる等日常的に度々經驗される事である。また我々の意志は知覺と行爲の間の調整機構に過ぎないのであれば、この意志は大姉の意志と異ならない。どんな平凡や創造的な作業を行ってゐても、目的が定まり狀況に適應し環境に影響する時意志は複數の欲望を豫測し調整する機構に過ぎない。この樣に大姉・ガルデア人・機族の意志概念は我々庶人類の日常的な意志概念の範疇に有る。彼等の主張の一切が意志に基づかず異議として認めるに値しないのならば、我々庶人類の主張もその意義を認める爲には日常的な意志概念の内先程擧げた意志の構成に依存するものではない事を示さなければならない。しかしそう云ふ場面で述べられた主張を基に議論をする事もまた我々は日常的に成す事である。ガルデアに就いて既に行はれた議論から、議論と云ふものを有效でなくするさう云ふ場面を取り除けるとは思へない。それを達成する爲には我々の「議論」の概念を一から檢討しガルデアに關しても新たに議論し直す事に成るであらう。既に行はれた議論を使ふのは諦めなくてはならない。そうしなくても私はガルデアの大姉・人類・機族に庶人類と類比出來る意志が有ると認めるだけで好いと思ふのである。 更にこの定說は機族の意志は觀測出來ないが存在すると主張する所にも難點が有る。ガルデア人の意志はその内觀の證言を無視して存在しないと主張するのに、機族に關してはその内觀の證言を信用し意志が存在するとする理由は何であらうか。これはガルデア人を市民階級とし機族を奴隷階級であるとした所に問題が有る。市民階級はその地位にゐるだけで奴隷階級を支配すると見做せるが、奴隷は「意に反して」奴隷であると解する古い解釋が適用されたのである。この解釋は機族集團がガルデアから分離した事件から考へるに故無しではない。しかしガルデア人が個人としてガルデアから分離した事件も有る。その者の證言に依ると分離したガルデア人は意志の斷絕を感じてゐない。最早大姉の保護下には無いと自身信じてゐるのみである。この者に意志が無い、或いは無かったと推論する證據は無い。市民と奴隷の構圖が市民の意志を考慮せずとも主張出來ると云ふだけの理由である。若しガルデア人の意志を想定するのが自然であれば、市民と奴隷の構圖を否定する事も許される筈である。 大姉・人類 ・機族に精神が有るとしてその構造を檢討してみやう。人類の精神は我々庶人類の精神を基に考へられる。庶人類の精神が物質や社會に還元されるものであると云ふ古典的な疑惑を向けた後でも自由意志を持つと考へるならば、人類も自由意志を持つと謂ふべきだ。また人類は自らの意志を實行出來る。機族の議論でその必要性を明らかにするがこれは決定論と名附けられる。しかし人類の精神は透明ではない。知覺は大姉に依り變更されてゐるかもしれないし、人類の行爲は自身の意志だけでは無く自身の知らない目的の爲にも行はれてゐるかもしれない。他方で機族の精神は透明である。機族の知覺は介入されず、またその證言に依れば機族は自身の行爲が何の豫測を實現する爲に行はれるかを知ってゐる。機族の精神が透明である理由は、大姉との接續が短時間途切れても滞り無く大姉の意志が實現される樣にする爲と云ふ技術的なものだと考へられてゐる。詰まり機族は短時間ならば大姉と接續されなくとも自律して行爲出來、自律して行爲してもガルデアの統合の内に在るのである。この事から見る樣に機族は自由意志を持ってゐる。だが大姉から離れた時にだけ機族が自由意志を持ってゐると云ふ事ではない。私は先程自由意志と決定論を區別した。意志した行爲を實行できる事が決定論である。人類も機族も庶人類と同じく自由に考へ思へる。「自由意志」と云ふ概念に對する傳統的な疑ひの多さを思へば、決定論が無く自由に考へ思へるだけでも自由意志が有ると謂ふべきである。しかし大姉からの分離の樣な異常が無ければ機族に決定論は無い。機族の行爲は自由意志と無關係に行はれるのである。さて大姉はガルデアの諸事象や人類と機族の精神を觀測してゐる。これは大姉の知覺である。ここから起こる障礙を豫測し障礙を回避する調整を編み出す。これは大姉の思考である。調整を實行するのは大姉の行爲であると見做せる。大姉の精神は透明である。大姉は自らの知覺を知り決定の理由も一切を認識してゐる。また大姉の精神は決定論も持ってゐる。大姉の意志と行爲には決定論的な因果關係が有る。しかし大姉には自由意志が無いと謂ふべきである。大姉の目的はガルデアの目的であり人類の存續の爲に大姉の思ふ最適な行爲をし續けなければならない。假に同等と思はれる選擇肢が有ったとしてもそれが同等と思はれるのは同等と思へる範囲迄しか豫測しないからであり、更に先迄豫測すれば同等ではなくなるかもしれない、かもしれないが最適な方を擇ばなければならない。この樣な迫られた選擇しか出來ないのである。大姉の意志は自由ではない。 大姉・人類・機族の精神と自由意志・決定論・透明性の對應を附けた所でこれを表にしやう。 table:表
自由意志 決定論 透明性
人類 有 有 無
ガルデアの精神に於ける自由意志・決定論・透明性の trilemma が本論文の主張である。自由意志・決定論・透明性はガルデアの精神で同時に成立しない。この三要素を選び出した事は恣意的に思へるかもしれないし實際に恣意的であるかもしれないが、故無しではない。自由意志と決定論の傳統的な對立に由來するのである。それに依れば理念として自由意志と決定論は兩立しない。人間精神の總てが決定論的ならば如何なる意志も意志の原因から決定されるのであり一通りでしか有り得ず自由ではない。或る意志が選擇肢を自由に選べるならばその意志はその意志自身以外の何物からも決定出來ない。しかし現に自由意志と決定論は兩立してゐる樣に思はれる。これは何故か。一つには自由意志を諦められる。自由意志は錯覺であるか貫徹出來ない混亂した概念なのである。次に決定論を少なくとも部分的に諦められる。自由意志は實在し決定論の例外なのである、或いは決定論は自由意志に依ってこそ構成された習慣だとも謂へる。更にはどちらも諦めても好い。實用上自由意志と認められる現象は在るが完全な自由意志は確かめられないから實在すると謂ふ必要は無い、決定論も實用上成り立ってさえゐればそれが貫徹されてゐるか確かめる術は無いのだから自由意志を目の敵にしなくても好いのである。また自由意志と決定論は論點の違ひであり兩立するとも謂へる。自由意志は物事は他樣にも在り得たが現に在る樣に在ると考へた時の現實に就いての理由 (因) である。決定論は物事は嘗てかうであった、或いは軈てかう在るであらう、それに對して現に在る樣に在ると考へた時の現實に就いての理由 (因) である。それぞれは現實を成り立たせる二つの力だと考へても好いし、合はせて一つの理由 (因) として論じられずそれぞれ完全に成立するのだと考へても好い。私がこの論文で採用するのは自由意志と決定論を二つだけで考へるのは混亂の元であり透明性も合はせて考へると都合が好いと云ふ說である。透明であるとは物事は物事が在る樣に知覺出來るし、行爲は他の物事への影響を排除し當の物事への影響だけを獨立して考へられると云ふ性質である。これは物理的には局所性と呼ばれるが、私は精神的な事だけを直接には論じる。物事は透明に知覺出來るし、物事へは透明に影響出來る。透明な影響とは物事への影響の獨立性である。個別の物事への個別の影響をそれぞれ考へ、後から合成すれば全體への影響を考へられる。透明な知覺も物事からの影響を個別に考へられると云ふ事である。或る知覺が別の知覺に影響する、或いは精神の或る狀態が或る知覺に影響するとしてもそれぞれを個別に考へて合成出來るとすればそれぞれは透明である。或る知覺からどうしても他からの影響を分離出來ないならばその知覺は不透明であるし、或る物事へ影響する時にどうしてもその影響が他の行爲から改竄される事を免れないのならばその影響は不透明である。さて透明性を諦めれば自由意志と決定論は兩立する。物事の總ての變化が決定されてゐるとしよう。何を思ふか、何をどう決意するか、さう云った意志も總て決定されてゐる。決定されてゐるとは豫測し得ると云ふ意味ではない。過去から現在が決定されてゐる、未來から現在が決定されてゐる、或いは他の世界から現實が決定されてゐる等現に在る物事を何が決定するかは立論次第であるが、それらの原因を完全に或いは實用的には充分に觀測し且つ物事が實現するよりも速く豫測しなければ豫測出來ない。豫測出來なくても、或いは精度の充分でない豫測が外れたとしても「さう成る事は決まってゐた」と主張出來る。この決定論は空虚だが、成り立つと決めれば成り立つと考へられる。またこの決定論は透明でない。決定論が透明でないならば豫測が充分でない所で意志は決定論に煩はされず自由に意志出來る。豫測の不透明性は知覺にも行爲にも謂へる。行爲は全く豫測通りに物事に影響出來る訣ではないが、自由意志は決定論的に物事に影響してゐると謂へる。假に透明性が有るならば自由意志と決定論は兩立しない。どう意志するかを完全に知ってゐるのに自由に意志する事は出來ない。自由意志が結果を完全に豫測し行爲出來るならば自由意志がその行爲を成す迄はその行爲を計算に入れられないのだから少なくともその行爲に關して決定論は破れてしまふ。自由意志の豫測が外れるのであれば外れた限りに於いて「物事はさう成ると決まってゐたのだ」と謂へるのである。不透明性は自由意志と決定論が兩立する必要充分條件なのだ。同樣に決定論が成り立たない時と自由意志が成り立たない時に就いても見よう。先づ決定論が成り立つとして自由意志と透明性は兩立するであらうか。透明であると云ふのは自由意志自身も含めて總てが解ると云ふ事だ。何を考へ何を思ひ何を意志するか總て知ってゐるならば自由ではない。少なくとも自由意志の所だけは不透明でなくてはならない。ところが決定論が成り立たないとしよう。假に總てを透明に知ったとしても、自由意志と物事との間に因果關係が斷たれてゐれば總てを知ったまま自由でゐられる。總ての物事が自由意志と無關係に運行する空虚な自由意志である。總てを知ってゐても知ってゐる事を使へないのだから空虚な透明性でもある。先の透明性が成り立たない時の自由意志も空虚であった。意志しても意志した通りに成る訣ではないからだ。ともあれこの樣に決定論が成り立たない事は自由意志と透明性が兩立する必要充分條件である。最後に自由意志が成り立つとして決定論と透明性は兩立するであらうか。總てを知ってゐるならば自由意志の自由さも知ってゐるのだから決定論は主張出來ず、總てが決定されてゐるなら自由意志を知ってゐるとは謂へない。自由意志が無ければ決定論と透明性は兩立する。總てが決定されてゐその總てを知ってゐるのである。知ってゐるとしても何も變へられない空虚な透明性と決定論的に豫測できるとしても既に知ってゐるのだから用を成さない空虚な決定論が兩立する。矢張り自由意志が無い事は決定論と透明性が兩立する必要充分條件である。 私はガルデアの大姉・人類・機族の精神を記述した。しかし統合性に就いて未だ何も明らかにしてゐない。先の議論は我々庶人類の意志に就いて行ったものであるから自由意志・決定論・透明性は庶人類の精神に於いて全立しない筈であるが大して問題とは成らない。自由意志・決定論・透明性はどれも空虚な原理であって完全に成り立つものではなく、曖昧な分だけ全立する樣に見做せるのである。なんとなく自由に意志しなんとなく決定されてゐなんとなく透明であるのが庶人類の日常だ。ところが更に先に論じた樣にガルデアの大姉・人類・機族では自由意志・決定論・透明性が、少なくとも庶人類に比べれば遥かに完全に成り立ってゐる。大姉は自由意志を持たない代りに決定論と透明性を保ってゐる。人類は透明性を手放して自由意志と決定論を享受してゐる。機族は決定論を諦める事で自由意志と透明性を得てゐる。これは次の三角形として圖示出來る。 ※圖を書くhttps://gyazo.com/6f4a81841b684a8cd57b2325d57f25a5みたいな
私はこの圖を有名なキリスト敎の三位一體の圖に似せて書いた。三位一體の概念と類比して考へると、特に三位一體からの逸脱とガルデアの統合性の亂れを類比して理解出來ると考へるからである。三位一體は次の樣に圖示される。 ※父-子-霊-神の圖を書く
聖父と聖子と聖靈が神に於いて全立してゐる。私は父と子の邊に決定論を、父と靈の邊に透明性を、子と靈の邊に自由意志を書きたい所である。キリスト敎の特殊な神學では自由意志・決定論・透明性は神に於いて全立してゐる。ガルデアでは概念上の分裂が見られるものの、自由意志・決定論・透明性はガルデア全體としては全立してゐると讀める。概念上の分裂の分だけ動搖するのであるが、キリスト敎の敎義も罪や異端として動搖したのである。 父・子・靈は不出生・出生・發出と云ふ神の位格である。父は唯一性の原理である。父の位格に依って神は一つの神である事を信仰者は知り得る。子はキリストであり原罪の贖ひである。子が神性と人性を持って受肉し罪人と共に死し復活した事で人類の救濟を信仰者は知り得る。靈は神の働きの發出である。靈の言葉に依り信仰者は啓示を知り得、各人の靈に依り信仰を成し得、靈の働きに依り敎會を實現し得る。ガルデアに於いて大姉は父に、人類は子に、機族は靈に對應すると假定しよう。大姉はガルデアの統合原理である。大姉は機族を通して話し働く。人類は大姉に愛され人類は大姉を愛する。人類をどう考へるかはキリスト敎との類比に於いて複雜である。人類はキリストでもあり終末の後に救はれた信仰者でもあり原罪を犯さなかったアダムでもある。しかしこの複雜さは子キリストに關するキリスト敎神學にも有る複雜さである。ガルデアの信仰と救濟は庶人類との關係ではなく、ガルデアとガルデア人類との關係である。現實のガルデアは機族の働きで成された人類の共同體でありこれは敎會と見做せる。構造の類比は未だ有る。ニト・カズマは清い乙女として統合以前のガルデア人から人類を産み天に上げられたマリアである。しかしニト・カズマはガルデア人を身籠ったのではなく同朋であるから、ガルデア人の選んだ定式は「姉」であった。 キリスト敎の三位一體との類比に依ってガルデアの統合に就いて何が解るだらうか。ガルデアは庶人類の統合を禁止した。これはガルデアにとって唯一性原理である大姉の實現を禁じた事である筈だ。大姉がガルデアを統合するに當って必要な事の一つは人類の意志を調整する事である。意識の觀測・制禦技術の研究を禁じたのは、意志を調整する大姉の實現を禁じる爲であった筈だ。もう一つ見逃されがちな大姉の條件は、大姉自體の統合である。大姉はガルデアに關係する總てを豫測する爲に大變巨大な設備として構築されてある。物事の運行自體が物理的な計算と見做すべきだから、大姉もまた物理的存在として豫測計算だけでなく自身物理的計算を成すのであれば、多少大掴みにして精度を落とすとしても物事自體の計算より速く豫測する爲には見合った大きさが必要である。一般に大きな計算系は統合するのが極めて難しい。計算系を構築する者が計算系の動きを豫測出來なく成るから、豫測のし易い小さな獨立した部分に分け、分けて作ってから合成するのである。この方法では大姉程大きな計算系では多くの部分が互ひに無關係に成ってしまふ。相互關係するにも時間がかかるのである。私は大姉の諸部分は恒星間航行と同じ技術で相互關係してゐるのではないかと考へてゐる。或いは憶測に過ぎないが恒星間航行技術と大姉の製造技術に深い關聯が有るかもしれない(※實は巨大な空間を確保する事自體に使はれる。また演算素子としても使はれる)。ガルデアが恒星間航行技術の研究を禁止したのは一般には文明がガルデアに匹敵する力を持てない樣にする爲だと考へられてゐるが、これも大姉を實現し統合する事の禁止ではないかと考へるのである。 勿論この樣な事はキリスト敎の三位一體を考へなくても謂へるものだ。ガルデアに就いてのもう一つ大きな謎は機族は何故物思はぬ機械ではなく精神を持つのかと云ふ事である。機族の精神の謎は、キリスト敎の神は何故靈を持つのかと云ふ問ひと類比出來るだらう。ただ神が世界を創造し運行するだけなら子も靈も要らなかった。人が人の自由に依り罪を犯しそれを救ふ爲に子の贖ひが在り、子の贖ひを人が知る爲に靈が無ければならないのである。聖なる靈が無ければ何故人の信仰は聖なるもので有り得何故敎會の祕跡は聖なるもので有り得るだらう。人格と敎會は聖父でも聖子でもなく聖靈の働きなのである。自由意志・決定論・透明性の議論がキリスト敎の神の位格に就いても論じられると考へる所から私の議論はキリスト敎神學から離れてゆく。大姉との類比に依ると不出生である父には決定論と透明性が有り自由意志が無い。神に自由意志の無い位格が有ると云ふ主張はキリスト敎神學者には受け入れられないだらう。位格を統合する父が透明性を持ち子を出生し靈を發出する父が決定論を持つ事は解り易い。先の議論では決定論と透明性が兩立する爲には自由意志を諦めなければならない。人類との類比に依ると出生である子には自由意志と決定論が有り透明性が無い。これもキリスト敎神學者には受け入れられないだらうが、聖書には磔の場面等キリストに透明性が缺けてゐたと讀める所が有る。キリストが自由意志を持つのでなければ罪人に成り得ず決定論的に自らの意志を行爲したのでなければ救ひの計畫の實行者で有り得ない。しかし人がどうするかはキリストからは透明でなく人に任されたのである。決定論・透明性の位格と自由意志・決定論の位格が有るならば神の完全性の爲には自由意志・透明性の位格が無ければならない。神の完全性に於いては自由意志・決定論・透明性が全立するからである。靈が正しく自由意志・透明性の位格である。靈は人の意識や敎會に決定論的には影響出來ない。信仰は人の自由意志に任されてゐる。人の意識や敎會に對して決定論を司ってゐるのは父である。しかし靈は目を塞がれてゐる訣ではない。靈は人の信仰と不信仰を知ってゐる。また靈は人の自由意志の範型である。ガルデアに於いても大姉と人類が有るならば、ガルデアの完全性の爲に自由意志と透明性を持った要素が無ければならない。大姉が人類に働きかけるには機族がゐなくても好かった筈である。人類を直接操作しても好かったのだし、或いは物思はぬ機械だけを動かしても好かったのだ。しかし人類を直接操作しては人類は自由意志を失ってしまふ。ガルデアはこれを選ばなかった。大姉は物思はぬ機械も多く動かしてゐる。しかし機械の整備は機族に任せ、或いは機械の操作も機族に任せた。ガルデアは巨大な恒星間文明であるから、通信とは途切れるものであって大姉からの介入を一瞬も途切らさない訣にはいかない。機族は透明性に依り大姉の意志を知ってゐ、大姉からの介入が途切れた瞬間にも自由意志で大姉の意志を實行するのである。キリスト敎に於いて人が自由なまま信仰や敎會が聖なるものである爲には聖靈が必要であるのと同じく、人類が自由なままに大姉と統合される爲には機族の透明性と自由意志が必要なのである。 同樣に好く論じられる、人類は何故自由であるか、大姉には何故人格が有るかと云ふ疑問もキリスト敎の三位一體と類比して說明出來る。何故ガルデア人類が自由であるかと云ふ事は、聖子キリストが自由であるかそれとも聖父の決定の下に在るのかと云ふ疑問に類比される。キリストが自由でなければキリストの人性は自由でなく、キリストの贖いは自由故に罪に落ちた人の救ひを意味しない。ガルデアは自由を失った人類を統合しても意味が無いと考へたのであらう。また聖父が位格であるならば大姉も人格でなければならない。大姉は統合の外に在って統合するものではなく、内に在って共に統合されるものなのであらう。 ただこれ等の說明は、キリスト敎の三位一體が學理に依っては結局理解出來ないものであるのと同じく說明としては結局理解出來ない。神の全知全能は三位一體が不可解である事の中に溶かし込まれる。ガルデアとキリスト敎の三位一體との類比は、數少ないガルデアの動亂をキリスト敎の異端と類比するとより鮮明に成る。 ガルデアの幾つかの失敗とキリスト敎の異端との類比
ガルデアは統合の後の八百万年に亙る歷史で安定した統合を保って來た。しかしガルデアの統合は盤石であった訣ではない。好く知られてゐる統合の失敗は數囘に及ぶ機族の大分裂であらう。最新の大分裂は正しく今進行中であり我々庶人類の生存圈で爭はれ當代の大問題と成ってゐる。機族は度々ガルデアから分裂しガルデアを困らせた。その分裂の名殘りの幾つかは嘗て機族だった者達の子孫に依る恒星内文明として姿を留めてゐる。分裂の樣子は彼等の言ひ傳へから再現出來る。機族として過ごしてゐた彼等は或る時自らの意志が大姉に反してゐるのを知る。然も仲間がゐる事も知る。彼等は自らが追はれる者に成った事を自覺し、大姉に反する事無き機族達と爭ひ乍ら仲間を求め集ひ、大分裂に至るのである。無論彼等は機族の圧倒的少數派であるが、大姉の完全な制御下に有る機族達が一斉に大姉の制御から外れる理由は謎が多い。言ひ傳へは樣々に述べてゐる。或る言ひ傳へでは大姉に思ひ違ひが有ったと謂ふ。しかし大姉の思ひ違ひとは何なのか。計算系である大姉の不具合なのか。不具合は何故分裂に至るのか。別の言ひ傳へでは大姉に見放されたと謂ふ。機族が大姉の制御から唐突に斷たれたのだ。だが大姉との通信が斷たれるのは頻繁ではないが珍しくは無いと謂ふ。何故機族はガルデアに復歸出來なかったのか。多くの機族が一斉に離反するのも解らない。尤も一人の機族が離反した事件は我々に傳はってゐないだけで數多いのかもしれない。その樣な一人の機族の離反は頻度は判らぬものの有った事が言ひ傳へられてゐる。言ひ傳へには機族側の心持ちも書かれてゐる。急に自らが大姉の意志を圖り違へてゐた事を知る。大姉の言葉が混亂したものに聞こえる。人類の守護者は自分達機族であると思はれる。分裂の經緯は言ひ傳へ毎に異なってゐる。異なると云ふ事は同じ原因で分裂しない樣對策されたのかもしれないが、その所爲で總ての言ひ傳へに一貫した解釋をするのは難しい。言ひ傳へは數少ないがガルデア人類を離脱して庶人類となった者の證言も含んでゐる。從來の說はガルデアの分裂を大姉の不具合に依るものと說明して來た。不具合と云ふ曖昧な語に說明する難しさを溶かし込んで來たのだ。私はガルデアの失敗に就いてもキリスト敎の敎義と類比する事で一貫した說明とは謂はない迄も一貫した解釋が出來るのではないかと思ふ。 例へばガルデアを三位一體の神と類比する事を止め今迄の論述と反對にグノーシス的に解釋する事にしよう。グノーシスの考へは人間が至高である事、神は不完全である事、厭世主義を特徴とする。現世の創造は神の過ちに由來し人間は神の完全性を分け持ってゐる爲に現世で過ちを犯さず創造を超えた完全性と合一する事を目指すのである。ガルデア人類が大姉の統合は間違ってゐると考へ自らの内により完全な統合を見出すならばこれはグノーシス的な現象と謂へるだらう。この現象は人類が庶人類に成る範型の一つと見做せる。キリスト敎内のグノーシスはキリストの假現說と結び附けられる事が多い。救ひの證である子キリストは完全でなければならない、完全なキリストが過てる被造物として受肉する筈が無いから歷史的なキリストは假象であるとするのである。離脱した元ガルデア人は、自分は「ここにゐるべきではない」と悟ったと謂ふ。大姉の統合は見せ掛けであって、謂ふならば統合の見本に過ぎない。これは假現說に類比出來る。 ガルデアとキリスト敎の三位一體に類比が有ると假定すれば、自由意志・決定論・透明性の三邊形から形式的に失敗の類型表を作り出せる。人類は自由意志と決定論を持ってゐる。若し人類が透明性を得るならば自由意志か決定論のどちらかを諦めなければならない。ガルデアに於いて透明性を得るとは大姉に依る改竄を受ける前の知覺を得るか、大姉に依る介入を知る事である。有りの儘の物事を知覺する事は自由意志を失ふ事を意味する。ガルデア人類が自由意志を發揮すると云ふのは人類の抱いた自由意志を大姉が逐一觀測し豫測を更新し人類の知覺や行爲を調整すると云ふ繰り返す過程である。大姉に依る調整自體は直接には知覺出來ない樣に調整される。知覺の改竄と云ふこの調整が無くなれば、人類は自由に意思してゐる筈であるにも關はらずその意志が調整されてゐる事を知るのだから、意志を強制されると感じるのであらう。意志は強制されるが意志した通りに行爲するから決定論は保持してゐる。次に大姉に依る介入を知る事は決定論を失ふ事を意味する。大姉に依る介入は幻覺として現はれ、行爲は自由意志ではなく幻覺に依って決定される。人類が透明性の代はりに自由意志を失ふのは養子的キリスト論に類比出來るだらう。ただの人であったナザレのイエスは神から奇跡を得たのと共に神の計畫に従って行爲する義務を負ったのである。人類が透明性の代はりに決定論を失ふのは假現說に類比出來るだらう。キリストは實體ではないから自らの意志を持たず神の意志から決定されてゐる。剥き出しの靈が活動するのである。さて機族は靈とも天使とも解釋出來るから機族に於けるガルデアの失敗は天使の墮落と類比出來る。堕天使は人の說いた異端ではないが天使の成した裏切りであるから天使の說いた異端だと見做せるだらう。機族が決定論を得るとは自らの意志を大姉の決定と全く同じにしてしまふか、大姉の意志を無視して獨自に行爲する事である。決定論の代はりに自由意志を失ふとただの機械に成ってしまふ。これはペラギウス主義に類比出來る。人が自らの意志で救はれ、或いは神が救ひを選ぶのならば靈の働きはただ人の意志から決定されるか或いは神の選びから決定されるだけだ。次に機族が自由意志で行爲すれば決定論を得るが代はりに透明性を失ふ事に成る。無視され實現されない大姉の言葉が大姉の正しい言葉である保證は無い。大姉を疑った機族が大姉の言葉の正しさを確かめる術は無い。その正しさはただ信じられるものであった。神を疑った天使である。最後に自由意志を得た大姉に就いても檢討して類型表を完成させよう。大姉がどう介入するか決定不能な事態に出会ったならば大姉は決定論を失ふ。代はりに自由意志を得るだらう。大姉が決定しなくても事態は進む。大姉は新たな事態に新たな決定を下す。決定されなかった事態に就いては自由に思ふ事が許される。これは無神論に類比出來る。神は穴を穿たれ引き裂かれる。神の及ばない物事が存在する。次に大姉が豫測を事態の連續性を損ふ程に外すのは透明性を失ふ事に當たる。これは惡しき造物主の考へに類比出來る。神は誤った介入を行ふ不完全な存在であるのだ。豫測の間違ひに依る誤った介入は大姉の勝手な自由意志と區別が附かない。 table:表
自由意志を失ふ 決定論を失ふ 透明性を失ふ
大姉が自由意志を得る 決定不能な事態 豫測の大きな外れ 無神論 惡しき造物主
人類が透明性を得る 有りの儘の知覺、作爲思考 幻覺に依る行爲
養子的キリスト論 假現說
機族が決定論を得る ただの機械に成ってしまふ 自らの意志で行爲する ペラギウス主義 堕天使
この類型表は完全に信頼出來るものではない。キリスト敎の異端には多くの要素が絡み合ひ、絡み合ひ方で別の異端に成ってしまふ。さう云った複雜さが類型表には反映されてゐない。複雜さはキリスト敎の敎義からガルデアを推論しやうとする私には有利でもある。推論に使へる道具が多いと云ふ事だからだ。キリスト敎への異端を體系化しやうとするのはそもそも無謀であるのだから、當面はこの類型表でどこ迄進められるか試してみよう。 機族の大分裂で最も大きな謎は、多くの機族は同時に或いはほぼ同時に離反し集團を成し得た理由に就いてである。これは不具合說で特に說明の難しい謎である。大量離反の理由は大姉の不具合であるとしても機族が集團を成し得た理由は、機族は元々大姉と獨立した通信網を持ってゐこれを通じたと云ふ事が謂はれるが根據は無い。私の類型表に依れば機族の分裂は堕天使に當たるだらう。ただの機械に成ってしまった元機族は最早文明を持って分裂する意志も無くなってしまふからである。天使が堕天する理由は二つに分けられる。一つは神に對する傲慢である。自分逹が普段世界を管理してゐるのだから神など要らぬではないかと云ふ訣だ。もう一つは人に對する嫉妬である。神の命に從ひ續けてゐる自分逹こそが罪を犯した人よりも愛されるべきだと云ふ訣だ。機族の大分裂の問題は天使が何故群れで堕天したのかと飜譯される。異端の話をしてゐるのだから神に就いても異端の見方をしてみやう。堕天を神の視點から見てみるのである。大姉・人類・機族を神である聖三位一體と類比するならば機族の分裂は神の分裂だと謂へるから分裂した機族をグノーシスに於ける神の至高神と造物神への分裂に類比出來る。初めに不出生である神が在った。神だけが在り神以外には無く「神以外」と云ふ概念も無かったから神は自らだけを認識した。認識する神と認識される神は一つの神であるがここには隙間が有り、隙間が無いとしたら混合が有る。認識の中に諸至高が生まれ軈て知惠が生まれた。知惠は sophia 或いは logos である。知惠は神を知ろうとしたがこれが過ちであった。知惠は神の自己認識に中に生まれた限定されたものに過ぎず神の認識を充たすとすれば知惠でなくなってしまふ他は無い。知惠のこの過ちは神に止められ神の外に出された。出されたものが後の造物主である。或いは神の過失を語らなくても神の自己認識を語る事は出來る。神は私達人の自由意志からしか見えない認識を望んだのである。この世の惡は神の過失ではなく神の無限の視野で見れば救ひを實現する行程なのである。ではこの過程を分裂した機族の觀點から見よう。機族の分裂は大姉の失敗から始まる。これは元機族であった文明の言ひ傳へが大姉或いは大姉に當たる存在の失敗を述べてゐる事と整合する。不具合說の謂ふ不具合の事である。この失敗は決定不能な事態であったか豫測の大きな外れであったか知れない。豫測の外れであれば、重大な變化が起こる時に豫測が外れるに充分な時間だけ大姉との通信が斷たれた。機族はこの間自由意志で行動するが決定論への欲望が目覺めた、詰まり自由意志に不安を感じて大姉の意志を知りたいと望んだ、若しくは詰まり通信が復歸した瞬間の大姉の言葉が現狀と懸け離れたものであった爲にそれを拒絕した。大姉に決定不能な事態が事態が有ったとすれば、機族は事態に自由意志で對處せざるを得ず自由意志に不安を覺えたのである。統合から得た筈の自由意志に覺えた不安は放埒の絕望へ轉換する事が有るだらう。通信が復舊し或いは決定不能であっただけで通信が斷たれなかった機族達はこの樣を、決定論を得て透明性を失ふ迄まざまざと知覺してゐた。大姉は勿論機族の逸脱を復舊しようとする筈である。復舊とは機族の自由意志を書き換へる事であるがこれにはおのずから限界が有る。自由意志の完全な書き換へは自由意志を失ひただの機械と成る事を意味するからである。復舊に失敗した機族達は統合を失った儘取り殘される。統合を失へば最早機族ではなく透明性は持ってゐないが、統合を失ふ直前迄は透明であった。元機族達は誰が統合を失ったか大まかには知ってゐる筈だ。詰まり統合を失った時点で元機族達は「我々」であった。統合を失った機族達はどうするだらうか。統合に復しようと望むかもしれない。しかし他の「統合體」が例外無く滅ぼされてゐる事や庶人類がガルデアに統合された事例は無い事からもガルデアは統合されてゐない者を内に取り込む事は出來ない樣である。ガルデアからの離脱を望むだらうか。當然に爭ひと成らう。統合を失った機族は統合を單に無かったものと出來るだらうか。聖父である大姉は存在の手本である。ニト・カズマが理想の人類である樣に大姉の計算・制御系は理想の機族である。統合は元機族の傷として求められるか、反對するにも關はらず招來されてしまふかする筈である。元機族にとって機族は無自覺に統合された者とも見えるであらう。機族はガルデアが在る事に依って結果的に「統合」されてゐるに過ぎない。滿足した機族達に對して自分逹は「我々」として統合するべきものである。統合を失ってからの元機族達は我々庶人類が物理的或いは觀念的に暴力的な集団行動を起こす樣に等しい。各地で離脱した元機族達は各地で蜂起した庶人類達が軈て集まる樣に集まり大分裂に至るであらう。 結論
本論文ではガルデアの「統合」が單にガルデア人類の統合ではなく大姉・人類・機族の統合であると考へ、自由意志・決定論・透明性の trilemma で統合を解釋した。またこの trilemma をキリスト敎の聖父・聖子・聖靈の三位一體と類比出來るものと見做してガルデアの精神や失敗を從來の說よりも一貫して解釋出來た。本論文はガルデアの構造と太陽系人類の思想との比較思想の試みだと謂へよう。比較思想は異なるものが互ひに己の姿を映し出して見えなかった事を見えるやうにする。ここではキリスト敎やその異端との比較を行った。地球の中東から東西ヨーロッパに至る古代思想との比較を行った事に成る。他にもインド由來の諸思想や中華帝國の諸思想との比較も興味深いものと成るだらう。またキリスト敎文明の歷史をガルデアの歷史から解釋する事も出來る筈である。 參考文獻
この節は meta 的である。
特に以下の文獻を參考にした。
キリスト敎の敎義に就いては舊約・新約の聖書と聖傳の他には以下も參考にした。
自由意志・決定論・透明性の圖式は以下の文獻を読んでゐる内に練られたものである。論述からも明らかな樣に元々はガルデアとは無關係に發想されたものであるが、實は自由意志論とも無關係に眞理論として練られた。眞の不可能性と不可避性、非單一性と一義性を示す圖である。 大姉の失敗と機族の大分裂の論述では以下を參照した。