系統的知識の守破離は、能のそれと何かが違う
系統的知識の守破離は、能のそれと何かが違う気もするterang.icon 同じ点もあると思うけど。
身体感の有無あるいは多寡が違いそう
知識の方の「守」に、活動の部分と座学の部分があって、座学だけやって「守」をやってるつもりになることがあるんだと思うnishio.icon
それはもうインプットなのかアウトプットなのかの境目が曖昧で、どちらをも同時にやっている感覚
そもそも(おそらく)inやoutに〈置く/putする〉って言葉自体が、マシンのメタファなだけで、人にそのまま流用し難いように思う。
脱線だけど、OSとかプロトコルとかも、人あるいは人と人の間に起こることには留保なく流用し難い気がする。ネタだったんだろうけどいつの間にかネタでなくなってる感じ。
あー。ここまで書いて思ったが、ネタをネタとして捉えられなくなってるのは自分だけかも。という反省も生まれた。
フレームを疑うの大事inajob.icon
フレームの中で考えるのも大事
自由に切り替えて思考できるのが強そう(何が?)
ところで知識あるいは直前まで自己の認識外にあったものと対峙するときは、その記号に対してパーソンセンタードに接することで身体感が希薄なときも、文字通りの〈身に付ける〉に寄与する。…と言ってしまうと人間中心主義に過ぎるだろうか。。
客我も他者かもしれないけど、それはモノローグってことで例外
ノートに斜め書きの話も思い出したけどそれもなんかのヒントになりそう ハイパーリンクしない/されない順序は強い。その順序の作家authorの権威authorityがある。 その順序 order は、秩序 order で、しかも命令 order
順序というからには最初と最後があり、最初から最後まで自己をエポケーして対峙する契機になるんだと思う この対峙を、「パーソンセンタード接する」と呼んでみたのがさっき。
逆に、断片は順序を構成するけども、断片単体では「インプット」されない感覚(マシンには「インプット」される)。
a piece of information vs. body of knowlede(PMBOKのBOK) まあ、既存権威を解体する象徴にハイパーリンクがなった的なストーリーに意味が立ち現れる背景ではある