先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか
from 系統的知識の守破離は、能のそれと何かが違う
先生が「答えを教える」授業はダメな授業なのか
(......)授業という場所はどんなに資料(コマシラバスを含めて)を「詳細」化してもメタ情報 ─ それ「について」語るというように ─ が絶えず発生する場所である。詳細化の度合いは、そのメタ情報の質をどんどん高めてくれる。詳細に書き出した内容(の水準)を踏まえてメタ化が発生するからである。
詳細化すればするほどメタ情報は高度化する。書物、教科書、文献、教材資料、あるいは実習設備など、それらがどんなに教場を満たしてもそれら「について」語る教員のメタトークは存在する。たとえ「答えを教えて」もそれについてのメタトークは存在する。「答え」は終わりを意味するわけではない。教場はもともとがメタトークの場所なのだから(註41)。
鈴木有紀の『教えない授業』がダメなところは、最初に答えを教えたら終わりだと思っているところである。しかし、問いかけも再度湧き上がる疑問も終わりの質が決めている。そして終わり(答え)の質を評価できるのは、教員だけなのだ。(......)
(註41)
(......)クリプキ=ウィトゲンシュタインの対偶(言わばヒュームの経験主義の論理的表現)は、伝わったときにこそ「あとから」見えてくる〈規則〉や〈意味〉の存在を暗示している。「関係(relation)」も「関数(function)」も、伝わった「あとから」見えてくるものに過ぎない。初期ハイデガーさえ、カッシーラの関数概念は「形式化された実体概念」に過ぎないと言っていた(『存在と時間』第一八節)。もちろんこの「あとから」は〈存在論〉に対する〈認識論〉の先行というような時間の先後でもない。それは人間関係で言えば、レヴィナス的な「対面(face-à-face)」の実践性なのだ(レヴィナスの「対面(face-à-face)」の〈顔〉の他者性については『全体性と無限』(国文社、1989年)を参照のこと)。(...)
(......)コマシラバスとは、こういった〝伝わる〟ことの矛盾を抱え込んだ、学生たちへの恋文のようなものなのだ。