フィロソファーならなんでも書いていい場所
「なんでも書くって意外と難しい」に関連して、コミュニティにおける自由と秩序の両立という、極めて普遍的な課題について考え始めた人も少なくないのではないかと思うhiro.icon
実はこれ、20年近く前に私が考え抜いて一つの結論を導いていた問題でもある
当時の私は、デルンやデライトのような輪郭法応用技術の開発・保守・普及活動を担う「知識機関」を構想していた
それはある意味、新しい世界秩序を構想するということでもあった
その知識機関の有力名称案として「自由館」があった
しかしすぐに「自由」という理念が現代においては無力化していることに気付く
かつて「自由」が意味を持っていたのは、全体主義などの「分かりやすい不自由」が強大な力を持っていたからだ
現代における自由の問題とは、「それぞれの自由の対立」という問題なのだ
我々は、何によって自由を得て、どう守っていくのか、そこまで踏み込まなければ意味がない
人種の違い、文化の違い、背景や考え方が様々に異なる全ての人々が、平和的に共存共栄するために共有でき、なおかつ共有しなければならない理念があるとすればそれは何か
それはもう、よりよい知を希求すること、すなわち(ソクラテスがいうところの)フィロソフィーしかない
誰でも賢哲になれるわけではないが、いわゆる無知の知をもてれば、誰でもフィロソファーになることは出来る
知には相互理解を深め、感情の暴走を抑制し、悪の愚かさを自覚させ徳に導き(知徳合一)、ITを中心とした知識産業時代には最大の富の源泉ともなる力がある
2007年、22歳の頃、私はその知識機関に「希哲館」と名付けて希哲館事業を発足させた
そして、フィロソフィーの理念を共有する民主主義を「希哲民主主義」(philosophic democracy)と呼び、それを日本から世界中に広めることを希哲館の究極の使命と考えるようになる
この先見性の凄まじさは、今現在の世界情勢をよく観察している人には言うまでもあるまい
ここでいう「フィロソフィー」や「フィロソファー」を「哲学」や「哲学者」と訳してしまうと、高度な教育を受けた人や知識人のそれという印象を与えてしまうhiro.icon
知識体系としてのフィロソフィーではなく、精神としてのフィロソフィーを表現できる日本語が必要だった
そこで、「哲学」の由来となった西周の翻訳語「希哲学」から前の方を取って「希哲」とした
これが見かけ以上に様々な考察と工夫を要した翻訳語で、希哲館訳語の原点でもあった
デライトは「フィロソファーならなんでも書いていい場所」になっているhiro.icon
ドメイン名 dlt.kitetu.com にも実はこだわりがある
あくまでも希哲民主主義を志向する希哲館事業の一部としての位置付けを常に明確にしておきたい
だからこそ、井戸端でもデライトを鍵にしてここまで話題を広げることが出来ている面もある
理念を無視する人や反発する人がいてもいい
そういう人が混ざってきただけで崩壊するような強度ではそもそも成り立たない事業
理念がまだよく分かっていない人はこれから啓蒙していけばいい
理念を共有しているコア層がしっかりいれば、理解が広まっていくのは時間の問題だろう
理念に反発して荒らしに来る人は利用すればいい
デライトのタイムラインは荒らしようがないことを悟るまで広告を見てもらって、帰らせる設計になっている
いずれにせよ希哲館事業を世に広めるための材料になる
「フィロソファーなら」という理念が一つあるかどうかで、コミュニティの行方は大きく変わってくると考えている
実証結果とするにはデライトはまだ規模が小さすぎるが、それを差し引いてもユーザーのリテラシーが異常に高く、規約もルールも無いに等しいにもかかわらず治安の良さには定評がある
デライト自体が、希哲民主主義の小さな社会実験場になっている
「希哲井戸端主義」のすすめhiro.icon
私がもし、自由と秩序の両立に悩む井戸端の管理者なら、こうした経験を踏まえて、「井戸端」ページの「本当に何を書いても大丈夫です」の前に「フィロソファーなら」という言葉を付け加えるだろう