ブルーマー
結論部において,彼は以下のように述べている。
労使関係の分野においては,大規模で複雑な形式で観察を行わなければならない,というのは,困難なことであるが,現実にそくすためには致し方ないことである。労使関係における観察の意義と近代的な戦争における偵察の意義には相通じるものがある。自らの偵察地点にいる兵士には,その兵士の能力がどれほど優れていようとも,戦場全体で何が起きているのかを知ることは出来ない。社会学者が,ある工場で観察を行う場合にも,間違いなく 同じ限界を感じることになるだろう。適切な観察を行うためには,観察者は,そのフィールドで起きていることを感じとり,さまざまな役割を取得し,さまざまな状況を判断し,そうすることを通じて,そうしたさまざまな事柄を,ある統一された形式にまとめあげるという,困難な作業を行わなければならない。われわれがそれを好むと好まざるとに関わらず,こうした観察が的確なものであるためには,高度な創造力を伴った研究者の判断が必要とされるのである
この論文を通して,ブルーマーがとりわけ強調して止まないのは,工場における労使関係(労働者と経営者との関係)を研究するに際しては,研究者は,その関係が,「対等な個人と個人との関係」としてではなく,まず何よりも「企業と組合という二つの組織同士の関係」として存在している,ということに留意しなければならないということ,研究者は,そうした組織間の相互作用(=シンボリックな相互作用)という観点から,両者(労使)の相互作用を捉えなければならないということ,この2点である。
すなわち,労使の相互作用を,個人と個人との相互作用という 観点からではなく,それぞれの所属する組織と組織との相互作用という 観点から捉え分析しなければならない。これが,ブルーマーのこの論文の枢要点となっている。
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第一前提
1) 人間は、ある事柄(thing)が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて、その事柄に対して行為する。
ここで「事柄」には、人間が自らの世界において気にとめるであろうあらゆるものが含まれている。木や椅子といった物的な物、母親や店員といった他者たち,友人や敵といった人間に関する各種カテゴリー、学校や政府といった諸々の機関、個人の独立とか誠実さといった指導的理念、命令・要求といった他者たちの活動、その他、日常生活において個人が直面するであろう種々のものごとが含まれている。
こうした「事柄」が、それに対処する個人に捉えられる(見られる)、その「捉えられ方(見られ方)」、それが「意味」である。人間がある「」に対して行う行為のやり方ないしその様式は、その事象がその人にとって持つ「意味」によって定められる。こうした意味での"「事柄」と「意味」のセット"が、シンボリック相互作用論における「対象」(object)を構成することとなる。また,そうした対象がある人間に対して持つ「特性」(nature)とは,その対象がその人間にとって持つ意味によって定められる。
対象の特性(nature of anobject)は、それを自らにとっての対象としている人間に対して、その対象が持っている意味から構成されている。意味によって、人が対象を見るやり方、それに対して行為しようとするやり方,それについて話すやり方が定められる"。
この「対象」は大別して3つに分けられる。すなわち,(a)物的対象(ブルーマーの挙げる例で言えば,椅子,木や自転車など),(b)社会的対象(学生,僧侶,大統領,母親,友人など),(c)抽象的対象(道徳的な原理,哲学学説,もしくは正義,搾取,同情などといった観念)がそれである。
人間を取り巻く「環境」とは,こうした「対象」から"のみ"構成されており,それ故,対象の特性(意味)の如何によって,その環境が人間にとって持つ特性(意味)が定められることとなる。人間にとっての「世界」(world)とは,この意味での「環境」から"のみ"構成されている。
第二前提
2)そうした事柄の意味は、人間がその相手とともに参与する社会的相互作用から導出される。あるいはそこから発生する。
ブルーマーは,「意味の源泉」に関するふたつの伝統的な立場を次のように説明している。
まず第1の立場においては,事象の意味とは,その事象に内在的に備わっているもの,ないしは下記と捉えられている。
その事象の客観的な構成として,その事象に生来的に備わっている一部分
したがって,この立場においては,「椅子はそれ自体明らかに椅子であり,牛は牛,雲は雲,反乱は反乱などなど」それを取り扱う人間の如何に関わらず,その意味は,その事象に生来的ないしは内在的に備わっているものと捉えられることとなる。こうした立場に立つものが,哲学における伝統的な「実在論」(realism)である。
次に第2の立場においては,事象の意味とは下記と捉えられいる。
その事象がその人にとってその意味を持つことになる〔ある特定の〕人間によって,その事象に対して心的な付加物として与えられたもの」
ここで「心的な付加物」(psychical accretion)とは,その人間の心や精神,ないしは心理的な組成を構成する諸要素が,外部へと表出されたものと捉えられている。ここで諸要素には,感覚(sensation),感情(feeling),観念(idea),記憶(memory),動機(motive),態度(attitude)などが含まれている。この立場に立つものとして,「古典的心理学」(classical psychology)や「現代の心理学」(contemporary psychology)などが挙げられる。
第3の立場としてブルーマーが挙げるのが,シンボリック相互作用論に他ならない。ブルーマーによれば,事象の意味とは,その事象に生来的に内在するものでも,人間個人によって主観的ないしは心的に付加されるものでもない。それは,まず何よりも,人々の間の社会的相互作用の過程"から生じるものである。
ブルーマーによると,シンボリック相互作用論においては,意味とは,人々の間の相互作用の過程から生じるものと考えられている。すなわち,ある人間にとってのある事象の意味とは,他の人々がその事象との関連においてその人に働きかける,そのやり方から生じてくるものと考えられている。他者の行為がその人にとっての事象を定義するように作用するのである。
この例として「野球のバット」を挙げてみよう。それが,アメリカのティーンエージャーにとって意味しているものと,野球の試合というものを一度も見たことがないアフリカのピグミー族の人にとって意味するものとは当然異なる。また,歌に必要な楽器「モリモ」が,ピグミー族の人々にとって持つ意味と,アメリカ人にとって持つ意味も当然異なり得る。自分が属する文化圏に含まれる他の人々との社会的相互作用を通じて,人は誰でもさまざまな道具を,例えばスポーツのため,あるいは宗教的祭儀のためというように,様々な使い方を通じて楽しむことを学ぶ。野球のバットガピグミー族の人々にとって「謎めいたもの」に見えるように,モリモもまた,モリモが中心的な役割を持つ聖なる祭りを経験したことのないアメリカ人にとっては,「謎めいたもの」に見えるに違いない。バットもモリモも重要な文化的道具であり,両者の意味は社会に暮らす他の人間との相互作用の過程から生まれてくるのである。
ある人間にとっての事象の意味とは,その事象との関連において,その人間と相互作用を行っている他者(たち)が,その人間に対して行為する,その行為のやり方ないしは様式から生じるものと捉えられる。この言明は,先に挙げた3つの「対象」のそれぞれに当てはまる。アメリカ人にとって「バット」という対象(ここでは物的対象)が、まさしく「野球のボールを打つための道具」としての意味を持つのは,そうしたアメリカ人の日々の暮らしの中で,その人と相互作用を行っている他者たちが、その人の面前で(その人に対して)そうした道具として,そのバットを扱ってきたからであり,そのバットという対象に,あらかじめそうした意味が内在化れているわけではない。ピグミー族の人々にとっては,それは「謎めいたもの」としての意味しか持ち得ないことからも,そのことは明らかであろう。
ブルーマーにおいては,事象の意味とは,こうした意味で「社会的所産」(social product)である。たとえば,「言語」という対象は「抽象的対象」に相当する。「言語」という対象の意味は,生来的にその対象に内在化されているものでもなく,また,一個人によって主観的にその対象に付与されたものでもない。ある個人にとっての「言語」という対象の意味もまた,それを,その個人と相互作用を行っている他者たちが,その個人の面前で,"どのように用いるか"によって定められるものと捉えられる(ex.モールス信号の意味)。
第三前提
3)このような事柄の意味は、人間が、自らが出くわす事柄に対処する際に用いる解釈過程において扱われ、それを通じて修正される。
対象(となる事象の意味)とは,社会的相互作用の文脈において形成され,人々によってそこから引き出されるものである。また人間は,そうして形成された意味に基づいて,その対象(となる事象)に対して行為を行う。換言するならば,そうして形成された対象の意味が,その人間のその対象(より正確にはその対象となる事象)に対する行為の様式を定めることとなる。
ブルーマーが,シンボリック相互作用論の3つの前提のなかでも,とりわけ重視し強調するのが,この第3の前提である。すなわち,他者によってもたらされた,その人間にとっての事象の意味は,その人間によってそのまま自動的に適用されるものではなく,それは必ず人間の「自己相互作用」(self-interaction)を通じて,操作されたり修正されたりするものと捉えられなければならない。 「自己相互作用」とは,先にも述べたように,「自分自身との相互作用」 を意味する。それは言うなれば,他者(たち)との社会的相互作用が,個人の内に内在化された,「自分自身との社会的相互作用」に他ならない。ブルーマーによると,この過程にはふたつの別個の段階がある。
まず第1に,行為者は,自らがそれに対して行為している事象を,自分自身に「表示」(indication)しなければならない。すなわち,行為者は意味を持つ事象を自分自身に「指し示す」(point out)という営みをまず行わなければならない。
第2に,その後行為者は,「解釈」の問題に直面する。「解釈」(interpretation)とは「意味の操作」(handling of meanings)を意味する。行為者は,自分がおかれている状況や自分の行為の方向に照らして,その意味を選択したり,検討したり,保留ないしは未決定にしたり,再分類したり,変容させたりするのである。
すなわち,自己相互作用には,「表示」と「解釈」というふたつの段階があるのである。前者の段階において,行為者は,先行する社会的相互作用の過程を通じて形成された「対象」を自分自身に指し示し,後者の段階において,その「対象」(となる事象の意味)を,自らがおかれている状況とそれに対する自らの行為の如何という観点から再検討することになる"。こうした過程を経て確定されたその行為者にとっての「対象」が,その行為者にとっての「自らの行為を方向付け形成するための道具(instrument)」として,その行為者のその後の行為を導いて行くこととなる。つまり下記引用も自己相互作用である。
(互いに相互作用し合っている)個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(stand-pointoftheother)からみなくてはならない。相手を1人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向づけている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならない。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる。
自己相互作用
ミードの踏襲
ミードのみた行為者としての人間像は、現在の心理学と社会科学において支配的な人間についての認識とは、 ひどく違ったものである。彼は人間を、自己を持った生命体としてとらえた。自己を所有することで、人間は、 特別な種類の行為者となり、自分と世界との関係を変化させ、自分の行為に固有の性質を与える。人間は自己を持つという主張でミードがいいたかったのは~人間は自分自身にとっての対象となるのだということである。人間は自分自身を知覚し、自分自身についての認識を持ち、自分自身とコミュニケートし、 そして自分自身に向けて行為することができる。 ミードが自己を、ひとつの構造としてでなく、ひとつの過程としてとらえたということを強調しておきたい。この点においてミードは、自己を何らかの種類の組織または構造と同一視することで、人間に自己を与えようとした無数の学者たちとは、はっきり訣別しているのである。われわれは誰でも、この種の研究をよく知っている。 あらゆる書物にそうした研究があふれているからだ。自己をいわゆる「自我」と同一視したり、欲求や動機の組織体とみなしたり、態度の組織化されたものと考えたり、内在化された規範と価値とからなる構造としてあつか ったりする学者のことをわれわれは知っている。こういった、自己を一定の構造の内部に位置づけようとする図式は、無意味なものである。というのも、そこでは、それによってのみよく自己が生み出され、また構成される、 内省の過程が見失われているからである。~自我はそれ自体では自己ではない。自我は、内省的になることによってのみ、自己となる。すなわち、自分自身に向けて、または自分自身に対して作用するという場合にのみ、自己となる。~ここでいう内省作用は、自己構造の状態と性質とをともに変化させるのであり、自己との相互作用の過程にきわめて重要な位置を与えるのである。
従来の諸科学は「生理的刺激、生体の動因、欲求、感情、無意識の動機、意識された動機、情動、観念、態度、規範、価値、役割要件、地位欲求、文化的規定、制度的圧力、社会システムの要件」などといった「各種の要員の結果産物」として人間の行為をみていた。「この公式の下では、人間とは、行動を生み出す諸要因が作用するための、単なる媒体ないし場所」である。これとはミードは異なり「これらのものごとに対して反応する、といった受容的な立場ではない」として、「個人はそうしたものごとに直面し、それらをあつかわなくてはならないのである。どのようにそれらをあつかうかという見地に立って。自分の行動の方向を組織し、それを切り出して来なくてはならない」とする、とブルーマーは述べる。
彼によれば、人間は、そこに作用する決定要因がはたらくための単なる媒体ではない。人間はそれ自身で活動的な生命体であり、自分が指示する対象に直面し、それをあつかい、そしてそれに対して行為するものとみなされるのである。古典的な人間の行為に関する公式では、人間が一個の自己であるということが、認識されていないといってよいであろう。ミードの図式はこれと対称的な認識に立脚したものである。
そして「ミードによれば、自分自身に対して指示を行うことには、きわめて重大な〜二つの点」にあるとして下記のように述べる
第一に、あるものごとを指示するということは、そのものごとを周囲から取り出して別個に保持し、それに意味をあたえて、ミードの言葉で言えば、それを対象にするということである。対象は、いわば個人が自分自身に対して指示するすべてのものごとであるが、これは刺激とはちがう。刺激のように、個人に作用する内在的な性質を持っていたり、その個人とは別個に特定化できたりするのではなく、対象の性格や意味は、その個人によって、その対象に付与されるものである。対象は、行為を触発する先行刺激ではない。個人が持っている行為しようとする傾向の産物である。個人はすでに存在している対象からなりたつ環境に取り巻かれており、これらの対象がその人に働きかけて行動させる、というのは不適切な図式である。反対に、個人が、自分がおこなっている活動を基礎として自分の対象を構成する、というのが適切な構図なのである。いかなる行為においても、つまり服を着るというような些細なものから、自分の職歴を作っていくというような大がかりなものまで、どんな行為においても、個人は、自分自身に対していろいろな対象を指示し、それに意味を付与し、自分の活動にとってのその適合度を判定し、その判断にのっとって決定を下す。解釈、つまりシンボルを基礎とする行為ということで意味されているのは、こういうことなのである。 そして第二の点を下記とする。
人間は自分自身に対して指示をおこなう。このことの重要な第二の含意は、人間の行為とは構成され作り上げられたものであって、単に解放されるものではないということだ。どんな行為にたずさわっていようと、個人は、行為の行程において考慮するべきいろいろなものごとを、自分自身に対して指示することで、その行為を進めていく。自分が何をしたいのか、どうやってそれをするべきかを、自分自身に指示しなくてはならない。その行為を達成する手段として有効な条件と、それを妨げる条件とを、自分に対して示さなくてはならない。自分が行為している状況の中で生じる要求や期待、禁止命令や脅かしを考えに入れなくてはならない。こうして、その個人の行為は、自己指示の過程を通して、一歩一歩構成されてゆく。人間の個人は、さまざまなものごとを考慮し、また、自分が行うだろう行為に対するそうしたものごとの意味を解釈することで、自分の行為を組みたて、また方向づける。このことが当てはまらないような意識された行為は存在しない。
ブルーマーの論述
自己相互作用とは、「文字どおり、個人が自分自身と相互作用をおこなっている過程」、個人が自分自身と相互作用を行っている過程である。社会的状況においては,その個人は,他者(たち)と社会的相互作用を行っているのと同じように,自分自身とも相互作用を行っている。
個人にとっての「世界」(world)が.「対象」(object)から"のみ"構成されているものであるとするならば,個人が社会的相互作用を行っている相手である「他者(たち)」という存在もまた,その個人にとって「対象」(社会的対象)の1つとして存在している,ということになる。
であるならば,同様に,個人が自己相互作用を行って ている相手である「自分自身」という存在もまた,その個人にとっては「対象」(社会的対象)の1つとして存在していなければならないことになる。
すなわち,個人は,自己相互作用を行うに先立って,まず「自分自身」という「対象」を有していなければならないことになる。ブルーマーによれば,人間は,「自分自身」という「対象」を有することによってのみ。「自己相互作用」を行うことが出来るようになる。人間が自己相互作用を行うためには,それに先だって人間は,まず自分自身(という対象)を有していなければならないのである。
このことが意味しているのは。人間は自らの行為にとってのひとつの対象となり得る,ということに過ぎない
では,如何にして人間は,自分自身を自らの行為にとっての「対象」とし得るのであろうか。そのことについて,プルーマーは次のように逃べている。
ひとつの対象としての自分自身という考え方は,対象に関するこれまでの議論とも適合する。すなわち他のあらゆる対象と同様に,ある人間にとっての自分自身という対象もまた。そこにおいて能者たちが,その人間をその人自身に対して定義している社会的相互作用の過程から生じてくるものである。
すなわち,人間は.自己相互作用を行うに先立って,「自分自身」という「対象」を形成しなければならないが.その自分自身という対象は,他の対象と同様に,その人間が社会的相互作用を行っている相手である他者たちが。「その事象〔その人間にとっての「自分自身」,すなわちその人自身〕との関進においてその人に働きかける,そのやり方から生じてくるもの」と考えられる。
以上本節における議論を踏まえるならば,「「自我(=自己相互作用)」の"他者・定義・依存性"が、ここに指摘され得る。ブルーマーのシンボリック相互作用論を踏まえるならば,こうした意味で「自我(=自己相互作用)」とは「社会性」を有した存在である,と言える。
ブルーマーは、「社会」というものを「それ自体の原理にしたがって作動」する「一種の自己作動的な実体」ないしは、「一つのシステムとしての性質を有する」ものとして認識する立場を、「重大な誤りである」として痛烈に批判し、下記であるとする。
〔ある社会の〕ネットワークや制度は、〔その社会が有する〕何らかの内的な原理やシステムの要件とかによって、自動的に機能するわけではない。それが機能するのは、さまざまな位置にいる人々が何らかのことをおこなうからなのである。そして、彼らが何をおこなうかは、彼らが自らの行為状況を〔自己相互作用を通じて〕如何に定義するか次第なのである
社会相互作用
ミードの踏襲
非シンボリックな相互作用では、人間は、お互いの身振や行為に対して直接に反応する。シンボリックな相互作用では、人間はお互いの身振りを解釈し、その解釈によって生み出された意味にのっとって行為する。~シンボリックな相互作用は、解釈と定義を含んでいる。解釈とは、他者の行為や言及の意味を確定することであり、定義とは、自分がどう行為しようとしているのかに関する指示を他者に対して伝達することである。人間の結びつきは、こういった解釈と定義の過程から成り立つものである。
そこで三つの観点からミードのシンボリックな相互作用を論ずる。まずシンボリックな相互作用は形成的である
第一にそれは、それ自体がひとつの形成的な過程である。~相互作用への参加者は、お互いの進行中の行為の方向をたえず解釈することによって、自分の以後の行為の方向を作り出していかねばならない。
次に共同体におけるシンボリックな相互作用の機能について述べる
第二の点は、~シンボリックな相互作用のゆえに、人間集団は、それがひとつの進行する過程である性質、つまり、たえず相互の行動を適合させていく作業であるという性質をもつ。行動の方向を適合させていくことは、定義と解釈の二重の過程を通して行われる。この二重過程は、既存の連携的な行為のパターンを維持するようにも作用すれば、それを変容するようにもはたらく
前者の「連携的な行為のパターンの維持」を下記のように述べる
同一の解釈図式がたえず使用され続けることによってのみ、存在し維持される~すでに成立している集団生活のパターンというものは、単にそれだけで持続しているのではなく、何度も繰り返されるその確認という定義づけによって、持続性を保証されている。
後者の「変容」することを下記のように述べる
集団生活の流れの中には、参加者がお互いの行為を再定義している無数の時点が存在するのである。こうした再定義は、敵対関係では、ごく一般的にみられるものだし、集団討議にもしばしば現れる。
最後にシンボリック相互作用論の汎用性を述べる
シンボリック相互作用論は、人間の相互作用において、おたがいの行為が解釈され定義されるという過程を中心にすえている。このためにそれは、人間の結びつきの全領域をあつかうことができるのである。
こういう図式は偏狭なものだ。多様な人間の相互作用に対して、たったひとつの相互作用形式の研究から引き出されたイメージを付与するという、大きな危険をおかしているのである。かくして、いろいろな専門家たちが、人間社会とは根本的に共通価値の共有であるとか、逆に権力闘争だとか、さらには合意の達成だなどとさまざまな発言を行うわけである。
シンボリックな
いうまでもなく、「シンボリック相互作用」という用語は、人間のあいだで生じる相互作用が持つ、独自ではっきりした性格をあらわしている。この独自性は、人間が、おたがいの行為に対して単純に反作用するのではなく、他者の行為を解釈または「定義」しているという事実によるものである。おたがいの行為に対する人間の 「反応」は、直接的にではなく、こういう行為に付与されている意味にもとづいて行われる。したがって人間の相互作用は媒介されたものである。シンボルの使用、解釈、または他者の行為の意味の推定によって、人間の相互作用は媒介されている。これは、人間の行動では、刺激と反応の間に解釈の過程をはさむことと同義である。
シンボリック相互作用論における社会化
ブルーマーにおいて個人の社会化とは,個人が「他者たちの集団」(groupsof others)より、「定義の諸図式」(schemesof definition)と「一般化された諸々の役割」(generalized roles)という2つの「パースペクティブ」(perspective)を獲得し,そうしたパースペクティブに,自らの解釈・定義を方向付けられること,と捉えられている。
こうした社会化を経た個人(個々人)は,「自己相互作用」(self-interaction)ないしは「自分自身との相互作用」(interaction with onesel)という営みを通じて,自らが対峙する世界(「現実の世界」(wordof reality))との間に,ある一定の関係を取り結ぶ。この「ある一定の関係を取り結ぶ」営みこそ,ブルーマーにおける「行為」(action)(「個別行為」(indiidual act))であった。個人は自己相互作用を通じて現実の世界を解釈し 定義する。そうした解釈・定義が,その個人と現実の世界との関係を設定する。
とはいえ,ブルーマーにおいて,その「関係」が,人間による現実の世界に対する一方的な解釈・定義によって決定されるものと捉えられているわけではない。なぜなら,解釈・定義されるその世界,すなわち現実の世界には,いつでもそうした解釈・定義に対して「語り返し」(talking back)してくる可能性が存在するものとされているからである。
上記の「行為」が,その個人と他者(ないしは他者たち)との間でとり行われている場合,それは「社会的相互作用」(socialinteraction)と呼ばれる。こうした社会的相互作用は,「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)に大別され,後者のシンボリックな相互作用を通じて形成されるのが,「社会」より正確には「人間の社会」(humansociety)であった。 社会生成のプロセス
ブルーマーにおいて「人間の社会」とは,「ジョイント・アクション」(joint act/joint action)(=「トランズアクション」(transaction))が折り重なったものと捉えられているが,そのジョイント・アクションとは,シンボリックな相互作用の「本来的形態」(realform)としての「有意味シンボルの使用」(use of significantsymbols)と等置される社会的相互作用のことを表していた"。 通時態的或いは共時態的な社会的相互作用(トランズアクション/ジョイントアクション)という基本的単位が折り重なることによって「人間の社会」ができている。つまりその基本的単位を研究すれば社会の性質を明らかにできるということ。 相互作用把握は演繹的に理論を構成してゆくその前提として自明視=絶対視されるべきものではなく、その妥当性を個々別々の経験的世界の個々別々の事例に照らして、そうした個々別々の事例が持つ、個々別々の独自性を引き出すという形で検証されなければならないもの。則、この経験的妥当性を検証するという点で↑社会的相互作用把握は「感受概念」の範疇に入るといえるだろう。
社会の再形成
こうした意味での「社会」は,その形成に参与する個々人が,各々,自己相互作用の1つの形態としての「考慮の考慮」(taking into ccofkoを行うことにより,互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」という2つの「観点」を適切に把握することにより可能になるものと,ブルーマーにおいては捉えられていた。
またそうした適切な把握を可能にするのが,先述の社会化の過程を通じて獲得された「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という2つのパースペクティブの使用であった。では,何故にこうした「社会」が再形成されるものと捉えられなければならないのか。
社会がある一定の形態を保ち続けるためには,そこで用いられている「共通の定義」(commondefinitions)が永続的に維持され続けなければならないが,共通の定義が維持され続けるためには,身振りを提示している人間は,その身振りが向けられている他者を,ある一定の見方でその身振りを見ている他者として解釈・定義し,かつそうした解釈・定義が妥当なものであり続けなければならない,という条件が必要となる。
とはいえ,それを不可能にする特性が「他者」という 存在にはあった。他者の「ブラック・ボックス」性(black boxness)がそれに他ならない。
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ブルーマーによれば,「経験科学」の一領域を構成するシンボリック相互作用論は,その方法論的なスタンスとして,まず何よりも「経験的世界」の特性を尊重しなければならない。ここで経験的世界とは,研究対象である行為者たちによって営まれている「人間の集団生活」ないしは,そうした行為者たちによる「集合的活動」(collective activity)のことを意味し,それは必然的に研究者の外部に位置する領域の事象を意味する。そして通常,研究者は,こうした世界を「よく知らない」ところから研究を始めることになる*。であるにも関わらず,研究者は通常下記に陥るブルーマーは述べる。
人間が一般的にそうであるように,自分自身が抱いている既存のイメージの虜である〜他者もまたある特定の対象を,自分すなわち研究者が見ているのと同じように見ている,と想定してしまう〜こうした傾向を防がなくてはならないし,自らが持つイメージを自覚的に検証するという作業を優先的に行わなくてはならない
この「自らが持つイメージを自覚的に検証する」ことにおいてブルーマーが提示しているのが,自然的探求法に他ならない。ブルーマーによれば,この手法は「探査」(exploration)と「精査」(inspection)という2 つのステップからなる。
探査
まず探査とは,研究者がこれまで馴染みのなかった研究対象の諸側面を,「身近に幅広く知る」段階を指す。ブルーマーによれば,本ステップの目的は下記にある。
探査的研究の目的は,条件が許す限り,研究領域についての包括的で正確な像を,十分に描き出す
精査
精査とは下記を意味する。
分析のために用いられるあらゆる分析の要素の経験的内容に関する,鋭く焦点を定めた検討であり,同様の検討を分析の諸要素間の関係についても行う
すなわち,この段階において,先の探査の段階において構築された社会像(研究対象となる社会についてのイメージ)の徹底した検証が行われることになる。
人間は,現実の世界を《ある一定のイメージ》(パースペクティブ)を通してしか捉えることは出来ない。このことは,科学者一般,そして社会の研究を行う研究者(社会科学者,社会学者)の場合も例外ではない。研究者もまた,研究対象となっている経験的世界をありのままに捉えることは出来ない。必ずある一定のパースペクティブ(社会像)を通してしか,それを捉えることは出来ない。だからといって,研究者は自らのパースペクティブを自明な公理のごとく捉えて良い,ということにはならない。まして,自らが抱いているパースペクティブに無自覚であることは,なおのこと許されない。研究者には,絶えずそのパースペクティブを,経験的世界の観察を通じて捉え返し続けていく,そうした姿勢が必要とされる。これがブルーマーの「自然的探求」論(「探査」と「精査」)の枢要点である。
感受概念の導入
科学者が用いるパースペクティブは,一般に「概念」(concept)と呼ばれている。科学(社会科学)の一領域を構成する社会学にも数多の概念が用意されているが*,ブルーマーは上記の自然的探求において用いる概念として,「感受概念」(sensitizngconcept)を推奨する。
感受概念とは「経験的事例にアプローチする際に,何を考慮すべきかとか,その事例に如何にアプローチするかについての大まかな感触を与え」研究対象である経験的事例に接近するための指針を,それを用いる研究者に与える,という役割を果たす概念を指す。
summary
さて,こうした2つのステップからなる自然的探求法が含意することは,ブルーマーによれば,下記である。
研究の指針となる概念と経験的観察との絶え間ない相互作用
換言するならば,自然的探求とは,経験的な観察を通じて,絶えず,研究者が研究対象について抱いているイメージないしは認識を,検証・改定してゆく営みを意味している。では,研究者は如何にして,そうした検証や改定を行うことが出来る,とブルーマーは捉えているのであろうか。換言すれば,研究者は如何にして,自らのイメージないしは認識が妥当なものであるか否かを知ることが出来るものと捉えられているのであろうか。
ブルーマーはそれを,研究対象である「経験的世界」から研究者のイメージや認識に対して向けられる「抵抗」(resisting)ないしは「語り返し」(talking back)を手がかりとしてなされ得る,としている。
以上のプロセスを通じて,「経験的世界」が「生来的にもっている進行中の性格」を捉えようとするのが,自然的探求の目的である。このようにブルーマーは考えている。以上が,自然的探求論の概要である。では,研究者が,シンボリック相互作用論のルート・イメージを分析枠組として用い(第1部の内容),その上で,上記の自然的探求を行うとすれば(第2部の内容),その研究者は如何なる方法論的な立場に立つことになるのか。それを説明しているのが,第3部の内容であるが,その第3部において,ブルーマーが提示するその「立場」が,周知の「行為者の観点」(standpoint of the actor)からのアプローチに他ならない。すなわち,ブルーマーによれば,上記の第1部と第2部の条件を踏まえるならば,研究者は,必然的に,その研究手法として,「行為者の観点」からのアプローチを採用しなければならないことになる*
シンボリック相互作用論の立場に立つ者が,自らの分析枠組を経験的に検証する際に,研究手法ないしはその手続きの鉄則として遵守しなければならないのが,この「行為者の観点」からのアプローチである。すなわち,それは,研究者が,研究対象となる社会を,それを構成している個々の行為者の立場(position of the actor)から捉えなければならない,とする方法論的要請であった。この点について,ブルーマーは以下のように述べている。
方法論ないしは調査の観点から言うならば,行為の研究は,行為者の立場から行われなければならない。行為というものが,その行為者によって,その人が知覚したもの,解釈したもの,判断したものから構成されるものである以上,それを研究する者は,そこで起きている状況を,行為者がそれを見るように見,行為者がそれを知覚するように対象を知覚し,行為者にとってそれが持っている意味という観点から,その対象の意味を確定し,行為者が自らの行為を組織化するそのやり方にそくして,その一連の行為を跡づけなければならない。要するに,研究者は,行為者の役割を取得し,その行為者の観点(standpoint of the actor)から,その行為者の世界を把握しなければならない
以下では,この「行為者の観点」からのアプローチについて詳細な議論を展開してゆきたい。
行為者の観点
シンボリック相互作用論の立場からするならば,人間の社会とは、それを構成する個々人の行為(ジョイント・アクション)から成り立ち,そうした行為は,その個人が自己相互作用を通じて行う解釈・定義に基づいて形成されるもの,と捉えられる。それ故に,この立場から社会を研究しようとする者は,そうした個々人の自己相互作用の内奥に入り込まなければならない。換言するならば,社会の研究は,「行為者の観点」ないしは「立場」から行われなくてはならない。これが,ブルーマーの言う「行為者の観点」からのアプローチの枢要点であった。そのことについて,ブルーマーは以下のように説明している。
ところで,プルーマーにおいては,上記の引用文中に見られる「活動単位」(acting unit)という概念には、人間「個人」のみならず「集団」も含まれている。そのことについて、それは以下のブルーマーからの引用によっても裏付けられる。
人間の社会は,行為を行っている人から構成されているものと見なされ,そうした社会の生命は,彼らの行為から構成されているものと捉えられる。[そうした行為を行っている]活動単位(acting unit)には,個別の個々人や,その成員が共通の目的のために一緒に行為している集合体や,何らかの選挙区を代表して行為している組織などが含まれる。~人間の社会において,経験的に観察可能な活動は,すべて何らかの活動単位から生じたものである。~現実にそくした分析をしていると主張する,人間の社会に関するあらゆる図式は,ひとつの人間の社会が,諸々の活動単位から構成されている,という経験的な認識を尊重し,そうした認識に合致するものでなければならない
ブルーマーによれば,この活動単位に含まれているのが,人間個人であれ集団であれ,そうした活動単位の行為は,等しく,それらが行う解釈の過程の所産と捉えられなければならない。またそれ故に,上記の引用にも見るように,そこに含まれているのが人間個人であれ,集団であれ,研究者は,その「活動単位の役割を取得」するという 「行為者の観点」からのアブローチを実行しなければならない。これがブルーマーのシンボリック相互作用論の主たる方法論的な主張である
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第3前提批判
ブルーマーの前提に沿って考えてみよう。ある山が、ある集団にとっては人間がふみいってはならない聖地であり、他の集団にとっては採掘すべき鉱物のありかであると仮定する。また仮に、グローバリゼーションという言葉が、ある集団にとっては互恵的な分業の広がりによって世界が緊密に結びついてゆくことを意味するが、他の集団にとっては特定の力の支配力が世界大のものになった結果として地場産業や自文化を破壊されることを意味する「もの」としてみる。第1前提のいう通り、それぞれの集団のメンバーはこれらの意味に基づいて行為するであろう。また第2前提のいうとおり、その人びとはこうした意味世界の住人であるがゆえにそのような意味を当然視しているのであろう。しかしそうだとすれば、第3前提がいうようにこれらの意味が解釈しなおされることは、そう容易には起こらないことにならないか。その山を聖地と見なすことは当該集団の文化や伝統の中核であろうし、グローバリゼーションを主張する者は何らかの利害的立場を持つ集団の中で自我形成したと考えられるからである。それが自由に解釈できるのであれば、今度は第2前提が成り立たなくなり、意味は社会との接点を失って、社会学的な説明ができなくなるだろう
第3前提に基づく解釈の修正が、第2前提のように社会的相互作用から生まれるなら、ほぼ修正されない。だがこれが自由に解釈できるとしたらそれは社会的相互作用から生まれていないからパラドクスと言うこと。(即ち下記)
再読すべきはブルーマーの第3前提ではなく実は第2前提である 3つの前提と行為をつなぐ概念装置
とはいえ上記のブルーマーの行為に関する説明それ自体に既に「競合」が示唆されている。述べられているように相互作用とは,「主体」と「主体」との相互作用であり、その2人の「主体」の双方が意味付与を行う存在として描かれている。その双方が「相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別」しなければならないのは、互いに相手が異なる存在だからである。同質の存在であれば、そもそもそのような「識別」という営みを行う必要はない。そうした互いに異なる主体同士が行う意味付与は「異なる意味付与」という形式に必然的に帰結する。(引用) そしてその「付与」が「競合」という形をとる場面を「集合行動としての社会問題」と言う徳川の概念はヴィヴィッドに描き出している。(つまり下記)
従来の社会学の問題
第一の論難点:問題意識とソリューション
社会学者たちはこれまで、社会問題というものを種々の客観的状態として位置づけるという過ちをおかしてきた
従来の典型的な社会問題研究は「状態」として扱っていたという。そして彼は「逸脱」「逆機能」「構造的ストレーン」という当時のパラダイムを押し除け下記テーゼを重要視する。 社会問題を研究する者たちはある社会が社会問題を認識するようになるその過程を研究すべきである
社会を結果として分析するのではなく、その結果に至る生成過程も包摂した上で多面的に捉えていくということ?
第二の論難点:第一の視点の整備化
社会問題をある種の特定可能な客観的状態として捉える典型的な社会問題研究は
その問題との関わりにおいて行われる営為に何ら影響を与えないだろう。〜したがってその問題と現実的にはなんの関係も持たないだろう。
ある社会が自らの社会問題に目を向けそれを定義し取り扱うようになるその過程を研究しなければならない
社会問題に「生命」(life)を吹き込んでいるのは社会問題の研究者ではなく何よりも当該社会の人々である。社会問題が既存の社会的状態が有する客観的状態などではなく人々がその状態に対して社会内部で形成する定義によって構築されるものであると捉える
いわゆる社会問題の客観的存在ないし性質は実際には全く二次的なもの
これはすごいわかる、社会的事実によって用立てられる僕らの行動は三次的なものだからな。 第三の論難点
ある社会問題の客観的性質の研究から得られた諸知見は社会にその問題の改善処置のための確かで効果的な手段を提供する
上記の典型的な社会問題研究における基礎付け (前提)をブルーマーは甚だナンセンスだと唱える。それは社会は研究者の知見に従属すればいいという見解に陥り、人々の相互作用における生成過程を排他しているからである。
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社会問題の生成過程
社会問題過程(=集合的定義過程)の5段階説
1)社会問題の発生
2)社会問題の正当性
3)その問題に関する活動の動員
4)活動の公式計画の形成
5)公式計画の実行後に生じる計画の変更
第一段階
社会問題とは、ある社会に本来的に備わった何らかの機能不全の結果なのではなく、そこにおいて、既存の状態が1つの社会問題として選択され特定される「集合的な」定義の過程の結果である
すなわち、この発生の段階とは、ある社会内部において,既存の状態が「それは問題である」という成員の認識を獲得する段階である。
ブルーマーはつまりイデオロギー外の状況を重要視する。
社会問題の知覚は種々のイデオロギーや伝統的信条次第で決まる、といった社会学の決まり文句は、ある社会が何を当該社会の社会問題として選び出すのか、またそれがどのようなやり方で行われるに至るのか、このことについて実際には何も述べていない
彼によれば,この過程とは,そこにおいて,扇動や暴力,利害集団,権力を持った組織や企業,マスメディアが果たす役割,あるいは,自分たちが問題としている事柄に人びとの注意を向けさせる力を持たない無力な集団の存在や,公衆の感受性に衝撃を与える偶発的事件がもつ影響力など,未だく<従来>>の研究では対象とされてこなかった領域を含む過程である。
そしてこうした「発生の段階」からいえることは、社会問題は、誕生するまでに既に幾重もの徳川のいう主体間の「異なる意味付与の競合」に巻き込まれざるをえず、それをくぐり抜けなければ生まれることすらできない、ということである。 第二段階
主張されたその問題が、取るに足らないものとして、あるいは検討に値しないものとしてみなされることもあれば、一般に受け入れられている物事の条理の範囲内のものであるがゆえにみだりに乱してはならない,とみなされることもあるし、妥当性を判断する種々の基準に抵触するものとして、また、社会のいかがわしく破壊的な分子たちが騒ぎ立てているにすぎないものとしてみなされることもあるかもしれない
第三段階
社会内部における認識を獲得し,かつその社会から正当性をも認められた社会問題は,その進歴において新たな段階「活動の動員」に入る。すなわちここにおいてはじめて、種々の公認のアリーナの場でその問題が議論の対象となり、活発な議論がその問題をめぐって行われるのであり、それを下記と捉える。
社会問題に対する社会による活動の動員を構成する
この過程を,社会問題の命運を左右する重要な段階と位置づけている。この段階は,異なった利害を持つ人々の衝突によって特徴付けられる。そこでは,論議〔特定の見解の〕擁護、評価、歪曲,人々の注意をそらさせる策略,種々の提案の積極的な提示などの戦略的行為が頻繁にみられる。それはつまり,社会問題が多くの再定義の過程に開かれるときであり,自らの利害を守るため,また社会問題を存続させるため,権力や戦略が活発に用いられる"。
とはいえ、こうした相互作用はこの段階においてはじめて行われるものではない。より正確にいうならば、〈公の場において〉という形で行われるのは、この段階が初めてであるが,この形式の相互作用それ自体は,前段階において既に行われているものと理解されなければならない。例えば〈他者に語るという行為〉においても,例外なくこうした相互作用過程に巻き込まれており,その「既存の定義」は,常に再定義の可能性に開かれているといえよう。
第1段階および第2段階と,この第3段階とを区別しているものは,それがなされているのが公認のアリーナにおいてであるか否かの違いであり、相互作用それ自体の性質の違いではない。
ブルーマーによれば,この段階の過程について社会学者が持っている知識のうち,最良のものは世論の研究であるという。しかし,その議論には詳細な経験的分析が欠如しているために,やはり不十分なものである,とブルーマーは指摘している。だがブルーマーがこの段階への照準を強調していることはいうまでもない
第四段階
上記に述べた変化と同様の変化が,次の「活動の公式計画の形成」においても起こる。この段階の際立った特徴としては「当該社会問題に対する社会全体としてどのように対応するか」という公式方針の決定,すなわち「活動の公式計画」の形成がなされるということ,そしてそれと同時並行で,社会問題に対するさらなる再定義が他の段階と比べて集中的に行われる,ということが挙げられる。
こうした集合的定義が行われる公認のアリーナとしては,立法権をもった種々の委員会や議会,あるいは種々の執行委員会などが挙げられる。当該社会問題に対する社会の公式計画の形成過程と,その社会問題に関する集合的イメージの形成・修正・再形成の過程とは,切り離され独立に存在するものではない。
そしてまた,こうした相互作用の結果として生じる集合的イメージは下記性質を持つ
社会問題の進歴における以前の段階においてその問題がどのように捉えられていたか〔そのイメージ〕とは大きく異なりうる
このようなイメージの変化は主として,「公式計画」が,その問題に対する「公式の定義」と同義であることによってもたらされるものであろう。つまりこの段階は,受益者とそうでない者たちとの間に明確な線引きがなされる段階でもあるのだ。
異なる利害を持つ人々が行う折衝(提案,譲歩,取引,権力への反応,実行可能な活動の判断)は,何一つとして公式計画の形成と無関係なものではない。このような公式の計画もまた,とりもなおさず,「交渉の所産」(aproductofbarging)だからである。
ブルーマーは,以上のことは下記と締めくくる
定義の過程が〔社会〕問題の運命にとって明らかに重要な働きを持っていることを指摘している〜無論,社会問題に関する有効で適切な研究というものは,公式の活動をめぐる合意形成過程において,その社会問題に何が生じるのか,という事柄をも内包したものでなければならない
則、合意形成過程は交渉の所産によって行われ受益者と非受益者の差異が生まれる。
つまり,そうした定義過程に目を向けてこなかったく<従来>の研究者たちの研究は,甚だ不適切だということである。
第五段階
活動の公式計画が形成されると,基本的には,問題の状態をめぐる議論から問題をめぐる公式計画の如何に関わる議論へと,集合的定義の過程の焦点が移行する。ブルーマーは,形成された公式計画は,その通りの実行を保証するものではないという。公式計画が作られることとそれが実行されることとは同じことではない。成立した公式計画は,下記のようにさまざまな方向から質的量的な縮小拡大を余儀なくされうる。
実行に移されると,修正されたり,ねじ曲げられたり,再形成されたり,期せずしてその拡大が行われたり
しかし,これはブルーマーにしてみれば当然のことである。なぜなら,「その計画の実行は,また新たな集合的定義の過程への扉を開くことになる」つまり,この5)「公式計画の実行後に生じる計画の変更」の段階においては,今度は,形成された公式の計画をめぐって,計画に関わっている人々や当該社会問題に関与している人々が新たな(定義)活動を形成することになる。
この(定義)活動の内容としてブルーマーは,以下の一連の活動が生じうるとしている。
1). 公式計画によって利益を失いうる人々による,公式計画の制限やそれを新たな方向へ修正する試み,
2). その一方で行われる,受益者の受益機会拡大の試み,
3).両者によるそれまでに見出せなかった調和的な提案の可能性,
4).計画の執行部やその運用要員による代替的な政策の実行と企図した種々の攻防
上記の1)〜4)を再カテゴライズしたブルーマーの言葉が,「調和」(accommodations)・「閉塞」(blockages)ㆍ「予期せざる拡大」(unanticipatedaccretions)・「意図せざる変容」uninedednsformations)に他ならない。上記の相互作用過程において,公式計画に対する異議,不満の表出が生じることは当然のことだといっても過言ではない。
ブルーマーは,自らが<<便宜的に>>段階分けした最後の段階において,社会問題過程が完結する,とは述べていない。むしろ,公式計画の実行は下記であるとブルーマーは述べている。
「〔その計画の実行に関する〕新しいー連の活動が形成される段階を用意する」
ブルーマーにおいて社会問題過程とは,形を変え,動員するメンバーを変え,オープンエンドに存続するものとして捉えられているのである。こうしたブルーマーの社会問題観は,次の言説に明確に表れている。
私は、公式の対処計画の実行により発生する,社会問題の予期されざるのみならず,意図されざる再構造化の様相ほど,あまり理解されず研究もされていないがより重要な社会問題の一般的な領域の様相〔となっているもの〕を,1つとして知らない。社会問題の研究者たちが何故に,その研究と理論化の双方において,社会問題の生命の存続におけるこの決定的に重要な段階を無視することができるのか,私には理解できない
ブルーマーにとって,社会問題が再構造化されていく過程とは,「社会問題の一般的な領域の様相」(facet of the general area of socialproblems)の一部であり,かつ社会問題の生命の存続における「決定的に重要な段階」(crucial step in the life-being of social problems)である。
彼の社会問題観には,はじめから,社会問題が新たな様相を呈してその後も存続していく,という進歴が組み込まれていた。この第5段階は,社会問題が公式計画の実行後に存続していく,まさにその過渡的過程であり,かつ,その分岐点として描かれている。
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本書の主題
「産業化の因果的性格の誤」りについて、「社会変動の原因としての産業化の役割を批判的に分析すること」によって明らかにしようとするのが本書の目的である。そして肝心の分析対象は「「初期」産業化、すなわち、産業的に未発達な地域へ導入される産業化」であるとして、そうした「社会変動における初期産業化の役割を分析する」ことによって導出される解は「一般的に産業化に適用可能なはずである」とする。
新しいタイプの経済として出現することによって、産業化は、集団生活を農業に基盤を置いたものから「工業」に基盤を置いたものへと移行させてきた。この変化の過程で、大多数のひとびとは、生活状態を村落的なものから都市的なものへと変更し、古い生活様式から引き離され、新しい生活組織のなかへと導かれる。社会変動の膨大な増殖と果てしない連続性は、この変化から帰結されるものと一般に考えられている。労働組織の変動、生活集団の種類の変動、社会関係の変動、居住形態の変動、制度の変動、生活水準の変動、関心と目標の変動、価値と理想の変動、社会統制の問題の変動、西洋諸国のこれらの社会変動は、歴史的に見て大きく深いものであると思われる。
知的競技として〜高次元の国家的、国際的な政策の中に現れ、近代経済の内在的な自己発達の特徴となる。〜多くの点で、それは近代文明のイデオロギーである。
そうした「近代文明のイデオロギー」たる産業化は「集団生活の伝統的形式を侵食し、社会解体を引き起こし、制度と社会生活を新しい型へと押し込む強力な力と見なされている。集団生活のほとんどの局面がその影響を免れていない」と広範な影響度合いを示唆している。そしてこうした産業化の研究者誤った解釈の典型例をブルーマーは述べる(要約:従来の研究者によると「産業化は単一の特性をもったもの」、そして「他の現象を引き起こす因果的影響力をもつ」、最後に「特定の結果をもたらす」と考える)。
一つ目は、産業化を均一的な力として扱う方法である。その内容の描写がいかに複雑で、その形式がいかにさまざまであろうと、産業化は単一の特性をもったものとして扱われる。産業化を統一体として扱うこの傾向は、産業化が集団生活に特定の形で作用すると宣言している数多くの例において、はっきりと示されている。二つ目の特徴は、産業化が、他の現象を引き起こす因果的影響力をもつというものである。それは産出的な効果をもつと見なされる。第三の特徴は、 産業化が特定の結果をもたらすと思われていることである。右であげられた社会変動と出来事を列挙することは産業を特定の効果とみなそうとする、この傾向を示している。この傾向は、産業化が集団生活にどんな影響を与えるかという一般的な問いに関する研究者の著作に見受けられる産業化のイメージである。一時的に否認しても、また、因果連関的でない用語を一時的に用いても、実際にはこのイメージは変わるものではない。これらの見せかけの特徴づけを簡単に検討してみよう。
こうした立場を「著者の判断では、産業化の原因としての効力についてのこの種の見方は、批判的な検討の結果」或いは「注意深い細心の分析」ではなく「感覚的印象」であるという。