ジャン・スタロビンスキー
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廃墟の美学
画家はいかに不在・ノスタルジーを表現するか。その手立てとしてスタロビンスキーは「廃墟の美学」を紹介する。
詩をのぞいて、(現前性の芸術たる)視覚芸術に不在を表現する手だてはあるだろうか。画家は哀歌詩人たりうるだろうか。牧歌に、古典的美の無時間的照明ではなく、失われたものの哀切感をあたえることができるだろうか。去にしものの境地を感じさせることは絵画には危なっかしい企てだ...。ひとつ方法が残されている。それは、現存そのものがわれわれに消え去った時代について語りかけるような対象に目をむけることだ。廃墟はまさにそうしたものである。
なぜスタバロンスキーはそれを確信するか。それはジンメルの考える「人間と自然の和解」としての廃墟という美学に依拠するものである。 こうして、この無意志的な活動においては、かつての芸術の垂直をめざく努力が、落下と惰性という自然力によって解体される。ひとつの均衡がなりたち、そこにおいては人間の努力の跡が解体して野性が失地回復する瞬間に、自然と文化の対立する勢力が人間の歩みの背後で和解する。ひとつの時代の偉大さの証しである物質的な形態は、永劫不変の混沌に完全に屈したわけではない。偉大な企ての痕跡は生きながらえている。だがもっとも確実に生きのびたもの、それは苔や生いしげる茨によってそれと知られるものだ。人間の意図であったものが消滅したところでの延命、忘却という延命。廃墟の詩学とはつねに忘却の侵攻をまえにした夢想である...。(...)廃墟の詩情とは、不在に沈んでいながらも部分的に生きながらえているもののもつ詩情である。
そこで廃墟絵画の代表的人物を並べ、その歴史的変遷を概略する。第一に廃墟を「要素」として活用したマニャスコである。 https://scrapbox.io/files/66a9dd0079c8ee001d41adc3.jpg《廃墟の兵士と浮浪者たち》 ただそうした技法としての「廃墟」は次第に姿を消し、イシューとなる。そこでスタロビンスキーが第一に挙げるはパッニーニである。彼の場合、上記で論じたような「不在」性ではなく、「記録」の面が全面化する。 https://scrapbox.io/files/66aafbcbefc537001ce3d6cb.jpeg《廃墟》 いまや廃墟が前面に出て、第一主題となる。廃墟はそれ自体の理由で、すなわち廃墟を魂も意志もそなえた主人公と化す抵抗力としぶとさのゆえに凝視されるのである。なるほどパッニーニなどでは記録としての側面が勝っている。奇蹟的な建築の高度な達成を、誇りもまじえて回想するのが目的である。注文主を満足させるためにカンバスにはあちこちに散在する名跡が積み重ねられる。さながら美術館のおもむきがそこから生じる。
他方、パッニーニ以外の廃墟画家は先ほど論じたような不在へのノスタルジーを感じさせる絵画となっているとロベールの絵画とディドロのテクスト援用しながら論ずる。 https://scrapbox.io/files/66aafc315bf5f3001db01e20.jpeg《ローマ寺院の廃墟》
両義的生
子供時代のことを語りながらルソーは、自分には生まれつきの病があったと打ち明けている。「生まれたときから私はひ弱で、病にかかっていた。母は私を生んだために亡くなった。生まれたこと、それが私の最初の不幸であった。」そしてこの痛手から(あるいは、痛手があると思い込みそれを語ることから、と言ってもよいが)癒されよう、救われようとして、彼はあらゆる手段を試みることになるのだが、しかし自分の誕生そのものを原因とする病なのだから、生きているあいだはどこまでも癒される保証はない。 誕生そのものを起源とする病とは「その出だしでいきなり自分の生を、最初の病の支配下に置いてしまう」のであり、その病は「生を根本から規定しつづけることになる」のだ。ゆえにルソーの生には病とその治療の両義的性格が、終幕まで纏うことが運命づけられた。
文明の病
この考え方の射程は大きい。治療薬は毒性植物にとなりあわせて(〈別な所ではあるが近くに〉)ありうるのだし、さらには、危険な動物の内部(〈組織の内部〉)にさえありうる。第一の例では、病が解毒剤をおのれのかたわらへとひきつけて attirer おり、第二の例においては解毒剤は、病のごく近くにある。そのほかに、治療薬を病そのものから〈引き出す tirer〉ことのできる治療者がいなければならぬわけだが、ここではそれはルイ14世だ。ルソーも明言しているように、まさに神に倣って、「無数の混乱の源たる学問と芸術のただなかから、この偉大な君主は(...)これら有名な学会をつくりだし tirer 、それに人間の知識という危険な預かりものと良俗という聖なる預かりものとの両方を、委ねた」のである。(...)つまり治療とは、知識という曖昧な特権を少数の人間に委ねることであって、彼らは知識を保存し、増加させさえし、しかもその普及を制限するのである。これはまさに、閉じた共同体というルソーの理想そのものだ。ルソーの理想は時として都市国家の広がりを持ちうるが、また、幾人かの高邁な人物だけからなる小さく限られた「エリートの社会」としてもありうるのだから。 『学問芸術論』後の長い論争のあいだじゅう、ルソーは治療薬の隠喩を用いつづける。それも、ヴァリエーションを試すかのように、あらゆる可能なかたちをとって。ある論考では「もう治療薬は望めない」と言うが、それですべてを終わらせるわけではなく、答えは他の人々にあずけられる。「私は病の存在に気づき、その原因を見いだそうとした。私より大胆な、あるいは無分別な人たちが、治療薬を探すことができるだろう。」