シャトーブリアン
Les Pensées de Pascal(1930)
過ぎ去った諸革命の松明を手に、私たちは未来の諸革命の闇の中に勇敢に入って行こう。仮装して姿を偽った昔の人間のことを見抜き、そして、[ポセイドンの従者、予言と変身に長けている]プロテウスに、来るべき未来の人間にかぶせられたヴェールを取らせよう。ここには、広大な視野が開かれている。ここで、僭越ながら、私は、まだ全く人の手が入っていない哲学の道に、読者を導いていけると考えている。私は読者に、人類についての発見の数々と新たな展望とをお約束する。
「社会の原初の約束(convention)について
君主政だったと考えられる原初の政府から、どうやって人類は自然の自由とは別の様相をした自由を着想するに至ったのであろうか。あるいは、原初の政体(constitution primitive)が共和政であったと言いたいのなら、人間の精神は、数世紀にわたる観察をした後で、また、どんな政府でも災禍が生じてきたのを見た後で、こうしたどれくらいの段階を経て、かくも長い間忘却の淵に追いやっていた自然の政体(constitution naturelle)を思い出したというのだろう。
Génie du christianisme
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世紀病〔=ロマン主義的メランコリー〕の発見
大洪水のときと同じように、人々は芸術と文明の残骸を携えて山の頂に逃げ込んだ。孤独の地は、椰子の葉を身にまとい、天の怒りを鎮めるために終わりのない苦行に身を捧げる穴居人で埋め尽くされた。世俗に惑わされた不幸な人々が引きこもる修道院や、無残に裏切られる危険を冒すくらいなら、人生のある感情を無視することを好む魂たちが、あちこちに生まれた。メランコリーは情念の曖昧さによって生じるものであり、情念が目的もなく孤独な心の中で自らを消耗させるからである。
既に指摘したように、そもそも「ルネ」という小説は『キリスト教精随』第二部第三巻「時と人間との関係の関係-感情-」 の第九章「漠然たる感情について」に続いて、その具体例として挿入されるべきはずのものであった。シャトーブリアンによれば、この漠然たる感情とは、我々の諸能力が閉じこめられることなく活発に活動していながらそのための目的や対象を欠いている時に生じるものであり、こうした感情は古代人には殆ど知られてはおらず、文明が進歩するにつれてますます増大してゆく-「文明化が進めば進むほど、情念の空漠の状態は増大する」。それは以下のようなシャトーブリアンの近代観に現れている。 これに対して古代人は、この世界に倦み疲れるということはなかったという。
偉大な政治制度、体育場や練兵場での運動、議会や公共の場所への参加、こういったものが彼らの一瞬一瞬を満たし、魂に怠を覚えさせる余地など残さなかった。
このように漢然たる感情がすぐれて近代特有のものである所以は、古代と近代の分水瀬に位置するキリスト教の世界観、すなわちこの現実的世界の貶価と超越的世界の設定に求められる。
しかしながら、世界そのものがキリスト教的色彩に彩られていた時代は遠く去り、すべてが世俗的な価値によって測られる時代を迎えてはじめて、本来のキリスト教の本質をなしていたはずの漠然たる感情は、より失鋭な姿をもって人々の前に現れ、時代に反抗するその持ち主は一層充実の目で見られることになろう。ここにロマン主義者特有の世紀病が生まれてくるのである。 まとめると、文明化に連れて我々はあまねく領域にて豊かさを享受したが、それは同時に、-キリスト的現世貶価に下支えられた-空虚で無味乾燥な現世での目的消失を意味した。そうして往き場がない情念は、耐えがたい倦怠へと終着する。こうした実存的不安こそ、シャトーブリアンが「情念の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼ぶロマン主義の「メランコリー」、即ち世紀病である。そしてそれはキリスト的な来世夢想、救済の希望を抱いた者達においては強烈な絶望として現れたのである。
人々がゴシック教会に足を踏み入れて、一種の慄き、そして神のたる感情を感じないことなどはありえなかった。
このような人間学は、彼が18世紀の子として引き継いだ、廃墟への好みに大いに好都合だ。原罪以後の人間の偉大と悲惨というパスカル的なモチーフを、彼は次のようにして廃墟のイメージによって形象化する。
彼は崩壊して、その瓦礫をもって手建された一つの宮殿である。そこには崇高な部分とおぞましい部分を、どこにも続かない壮麗な回廊を、高い柱廊と崩れ落ちた天蓋を、強い光と深い闇とを見て取ることができる。ひとことで言えば、いたるところでの混乱と無秩序、とりわけ聖域において。
パスカル的人間学
ストロウスキー曰く「パスカルのうちに世紀病を見出した」シャトーブリアンは、その人間観において「神なき人間の悲惨」を色濃く継承する。それはヘブライ語由来の「人間」という語の称揚に現れている。 ヴォルテールは『パンセ』の悲観的な世界観を批判し、社会的有用性としての道徳に関心を示さないばかりでなく、世界全体を苦しみの相の下で捉えようとする病人として、パスカルを非難していた。それに対し、シャトーブリアンはパスカルを、健康な人物として捉え返すのではない。むしろ病人だからこそ評価するのである。原罪以後の人間を本質的に病んだ存在と見なす『キリスト教精髄』において、パスカルはそのような病人の英雄としての地位を与えられている。
無垢なるアダムであれば魅惑の道を通ってそこへと至ったことだろう。しかし罪人アダムは、断崖をよじ登ってしかたどり着けない。原初の父の過失以来、自然は変わってしまったのだ。
近代批判
万物が安住していた調和的状態から人間のみが追放されるという間を受けねばならなかったそもそも原因は、何だったのか。それは、人間が知恵の木の実を食べた結果、知性のみを伸長させるという罪を犯したからである。即ち、近代啓蒙の失敗はアダムに通ずる。
私は憂感を抱えているが、それは肉体的悲しみ、真の病である。