シモーヌ・ヴェイユ
シモーヌ・ヴェイユについてはじめて体系的な書をあらわしたミクロス・ヴェトー曰く
彼女[シモーヌ・ヴェイユ]の思弁的神秘主義は、キリスト教的プラトニズムの偉大さと、それが現代において欠如していることとを、ただひとり孤高に証言しているのである
1937『服従と自由についての省察』
死後に友人ギュスターヴ・ティボンによって編集された箴言集
1947『重力と恩寵』
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重力のもたらす自己拡大のダイナミクス
たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。
存在は重力によって神からひき剥がされ、自らを律する。そうした重力があまねく存在の原理にある。「ものごとは重力にあい応じて起こってくる」のだ。それは人と人の関係にも現れ、他者を自らのうちに位置づけようと試みる。
重力─一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。/ (...)わたしは、頭痛の折りふしに、発作がひどくなると、ほかの人のひたいのちょうど同じ部分をなぐりつけて、痛い目にあわせてやりたいとつよく思ったものだ。このことを忘れないこと。これに似た思いは、人間において、じつにしばしば起こるものだ。そんな状態のとき、わたしはなぐりはしなかったものの、人を傷つけるような言葉を口にするという誘惑に負けてしまったことが何度もある。重力に屈してしまったこと。最大の罪。(...) / 人間の構造。だれでも苦しんでいる人は、自分の苦しみを知らせたいとつとめる──他人につらく当たったり、同情をそそったりすることによって、──それは、苦しみを減らすためであり、事実、そうすることによって、苦しみは減らせる。ずっと低いところにいる人、だれもあわれんでくれず、だれにもつらく当たる権限をもたない人の場合(子どもがないとか、愛してくれる人がいないとかして)、その苦しみは、自分の中に残って、自分を毒する。 それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。
自らの苦痛を減らすべく「自分の外へと悪をまきひろげる傾向」。これこそ重力がもたらす自己拡大のダイナミクスである。しかし、それは負債がその宿主をかえる無限の悲劇を生成し続けることだろう。
他人に害を加えることは、他人から何かを受けとろうとすることだ。何をか。害を加えたときに、何を得たのか(それは、あとでお返しをしなければならないものではないのか)。自分が大きくなったのだ。自分が広くなったのだ。他人の中に真空をつくり出すことによって、自分の中の真空を満たしたのだ。他人に害を加えて罰せられずにすむこと──たとえば、目下の者に当たり散らしておいて、黙っていろとおさえつけるなど──は、自分にとってはエネルギーの消耗をせずにすませることになる。その分だけ、他人が消耗しなければならない。なにかの欲望を不当に満足させようとする場合も、同じだ。こんなふうにしてためこまれたエネルギーは、ただちに堕落する。
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解題 シモーヌの友人、ギュスターヴ・ティボンより
まずは本テキストを語る前に引用しなければならない文章がある。
彼女の用いた語彙は、神秘家のものであって、思弁的な神学者のものではない。諸本質の永遠の秩序を表現しようと目ざすものではなく、神を求めるひとつのたましいの具体的な歩みを表現しようとするものである。霊的な作家というものは、すべてそうしたものである。キリストがシエナの聖カタリナに語りかけたとき、『対話』の中には「わたしは存在する者であり、あなたは存在しない者である」と言ったと記されているが、被造者を無にひとしいものとみるこういった定義は、存在論的認識の次元では理解しがたいものである。(...)シモーヌ・ヴェイユは、神秘家として語っているので、哲学者として語っているのではないことを、わたしはくりかえし言っておこう。
ヴェイユの生
その人生にはあわれみと悲劇に充ち満ちていた。
彼女は、一九〇九年にパリに生まれ、アランのむかしの生徒のひとりであったが、非常に若くして高等師範学校へはいり、哲学教授資格試験にりっぱな成績で合格した。次いで、あちこちの高等中学校の教師となったが、ずっとはやくから政治活動に熱心に参加していた。(...)彼女は、極左派の戦列に加わって闘争をしていたが、決してどんな政治組織にも加入したことはなく、党派や人種がなんであれ、ただ弱い者、抑圧されている者を守ることに終始した。貧しい人々の境遇を底の底までともに味わいたいとねがって、休暇をとり、ルノーの工場に雇われて、だれにも自分の身分をあかさずに、一年間フライス工として働いた。働者街にひとつの部屋を借りていて、ただ、労働者としてのわずかな収入だけで生活した。(...)彼女のメッセージの永遠で超越的な内容を政治の現実にねじまげて解釈したり、党派争いにまきこんだりするのは、彼女の思い出をそこなう(...)。いかなる党派、いかなる社会的イデオロギーも、彼女を自分たちの味方といいはる権利をもたない。彼女は、民衆を愛し、いっさいの抑圧を憎んだ(...)。
肋膜炎となりヴェイユの工場での体験は中断されるが、渡米後も執拗に自らを低い位置へと、貧しきものへと貶めた。
たえず執拗に、フランスへ派遣してほしいと要求したが、彼女の人種的特徴は、あまりにも容易に人目につくために、その望みはかなえられなかった。当時、フランス人の上に重くかぶさっていた危険に自分もとびこむことはゆるされなかったため、彼女はせめて、その窮乏だけでもともに味わいたいとねがい、厳密に自分の食事制限をしてフランス国内において配給切符で支給されていた量の食べ物だけしか口にしないようにした。このような食事制限のために、すでにゆらぎ出していた彼女の健康はやがてくずれ落ちた。飢えと結核にからだをむしばまれ、病院へはいらねばならなかった。病院でも、彼女のために特別に何かと看護の手が加えられることにひどく苦しんだ。わたしは、いちはやく、わたしの家にいたときに、彼女のこういう性格上の特徴は見てとっていた。つまり彼女は、自分が特権的な地位に据えられることに恐怖を感じていて、一般の水準より以上に彼女を引き上げようとの心尽くしの手がさしのべられると、荒々しくそこから身をもぎ離すのがつねであった。社会的階層の最底辺におかれ、貧者、この世の失格者の大群とまじり合っていないかぎり、くつろいだ気持になれないのだった。
こうした徹底的な民衆への寄り添いがティボンとヴェイユをひきあわせる。ティボンは「一九四一年六月に、当時マルセイユに住んでいた友人のひとりで、ドミニコ会に属するペラン神父から、一通の手紙を受けとった」。それは哲学の教授資格を捨て「農家の下働きとなって、田舎で働きたい」といったヴェイユ、未完のプロジェクトにあった。
それから数日たって、シモーヌ・ヴェイユは、わたしの家に到着した。(...)わたしの家で数週間をすごしたあと、彼女は、自分があまりにもいたわられすぎていると見てとり、ほかの農家へ行って働こうと決心した。それは、無名の人々の中で自分もまた無名の者となって、真の農民労働者の条件を分かちあいたいと思ったからであった。わたしは、となり村の大地主の家にぶどう摘み作業班のひとりとして、彼女を雇い入れてもらった。そこで彼女は一カ月以上、英雄的ながんばりようで働きぬいた。弱いからだで、仕事にも慣れていないのに、まわりの屈強な農夫たちよりも就労時間を少なくされるのは、いつも拒みつづけた。持病の頭痛がひどくなって、悪夢の中で働いているような感じがすることもあった。こんなことを、わたしにうちあけてくれたものだ。「ある日、わたしは、自分で気がつかないうちに、死んでしまって、地獄へ落ちたのではないか、地獄とは、永遠にぶどう摘みをするところではないかなんて思ったことがありますの……」。
そうした彼女の教条的な態度を「彼女は、全精神をうちこんでキリスト教に心をひらいてきた。しみひとつない純な神秘の光が彼女から発してくるようだった。わたしは、ひとりの人間が、宗教の奥義とこんなにまで親しくなじんでいるさまをこれまで決してみたことがなかった。彼女と出会うまでは〈超自然〉という言葉が、これほど実在感に溢れいているものと思ったことは、一度もなかった」、とする。彼女のあわれみの源泉はそうしたキリストに端を発する。
わたしがさいごに彼女と会ったのは、一九四二年五月の初めだった。駅まで送りに出ていたわたしに、書類でふくらんだ一個の折りかばんを手渡し、それを読んでくれるように、彼女の亡命中、あずかっておいてくれるようにと頼んだ。別れぎわに、わたしは、わざと冗談めかして、自分の心の動揺を外にあらわすまいとして、「また会おうね、この世か、でなけりゃあの世でね」といった。彼女はとたんに真顔になって、「あの世ではもう会えないのですよ」とこたえた。この世で各自の〈経験的な自我〉を形作っている境界は、永遠の生命の中でひとつとされるとき、消えてしまうという意味だったのだろう。わたしはしばらく、彼女が通りを向こうへ去って行くのを眺めていた。わたしたちはその後、二度とは会わないはずである。時間の中では、永遠なるものとの触れあいは、おそろしいほどはかなく、過ぎ去ってしまうものである。
ティボンはそうして託された作品の数々をうけ、「もう一度、シモーヌ・ヴェイユに手紙を書いて、これらのノートの中身がどんなにわたしを感動させたかを知らせる機会があった」。以下全文は、そうした経緯のもとに、別れのあと、ティボンから送られた手紙から紡がれたヴェイユの意志である。
なつかしいお友だち、今こそ、お互いに永遠の〈さようなら〉を言わなければならないときが来たように思われます。もうこれからは、たびたびお便りをいただくこともむずかしくなるでしょうし……三人の愛しあっているかたがたが暮していらっしゃるあのサン・マルセルのお家が、むごい運命の手からまぬがれるようにと祈っております。そこには、何かしらとても大切なものがあります。人間の生存はあまりにも脆く、あまりにも危険にさらされているので、ふるえずにはそれを愛することができません。わたし以外のみんなの人々が、あらゆる不幸の可能性から完全には守られていないのだということを、真底から仕方がないのだと思うような気持には、これまで一度もなれませんでした。これでは、神さまの御心に従う義務にはひどくそむいていることになりますが…… あなたは、わたしのノートの中には、思ったよりも多くのものがあって、思ってもいなかったものまでが見つかった、でもそれはひそかに期待していたものだったといってくださいます。とすれば、それらはあなたの所有にしてくださっていいのです。それらが、あなたの内部で変質をとげて、いつか、あなたの著作のどれかの中にあらわれてきてくれたらうれしいのにと思っております。なぜなら、どんな思想でも、わたしと運命をともにするよりも、あなたと運命をひとつにする方がずっといいに決まっていますもの。この世で、わたしはきっとよい運命をもつことができないだろうという気がしています(あの世でなら、もっとよい運命になるはずと当てにしているからではありません。そんなことは、信じられないことです)。わたしは、ほかの人と運命をともにするのが適しているような人間ではありません。人間というものは、多少の差はあれ、だれでもそういうことは予感できるものなのですね。けれど、わたしにもどうしてなのかはわからないのですが、ふしぎにも、わたしの思想には分別が欠けていたように思われるのです。こうしてわたしのところにまでやってきてくれた思想に対しては、どうかよい落ち着き場所を与えてやれればいいと、わたしはそれだけしかなにも望んでおりません。それらの思想が、あなたのペンの下に宿るところを見つけ、形をかえてあなたという方の姿を反映するようになれば、どんなにうれしいことでしょうか。そうなればわたしもいくらか責任感や心の負担が軽くなるというものです。真理は、とても考え及ばないほど、あわれみを存分にふりそそいで、わたしにその姿をときとして見せてくれようとしているふうですのに、このわたしは、自分のかずかずの欠点のゆえに、見えてくるままの真理に仕えることもできずにいるのです。そう思いますと、重いものが心にのしかかってくる感じがいたします。どうか、このすべてを受けとってくださいますように。わたしも飾り気なしに申し上げているのですから、どうか何もおっしゃらずに。真理を愛する人にとっては、実際にものを書くにあたって、ペンをもつ手も、その手と切り離せない肉体もたましいも、その社会的な外被をもすべて含めて、その重要性なんて、無限に小さいものにすぎません。等級などつけられないぐらいに無限に小さいものです。ですから、実際にだれが書いたかということなどは、それがわたしであろうと、またあなたであろうと、わたしの尊敬する作家のだれかれであろうと、せいぜいこの程度の重要性しか、わたしは認めることができません。わたしが多少とも軽蔑している作家についてだけ、だれが書いたかということが問題になります。 これらのノートについて、あなたがもし聞かせてやりたいと思われる方がありましたら、よいとお考えになる一節を読んでくださっても結構ですが、一冊であろうとだれの手にも渡らないようにしてくださいますようにということはもう申し上げたでしょうか……三、四年のあいだ、わたしのうわさを聞かれることもなければ、完全にあなたのものになったのだとお考えになってください。 あなたに、こういうことを何もかも申し上げるのは、心の屈託を少しでもなくして出発したいからです。ただひとつ、まだわたしの中に残っていて、十分成長しきっていないものまでを全部、あなたにおゆだねすることができないのは、残念です。けれど、ありがたいことに、わたしの中にあるものは、どうせ価値がないものか、でなければ、完全な形では、わたしの外側の、清らかな場所に宿っているもので、そこにあれば、どんな損傷を受けることもありませんし、いつでもまた下へおりてくることもできます。こうしてみますと、わたしに関することなんぞ、なにひとつどんな重要性もないといっていいわけです。 それにまた、わたしはこう思っていたいのです。お別れはいくらかショックでしょうが、今後は何ごとがわたしに起ころうとも、そんなことであなたが決して悲しんだりなさらないだろうと。また、ときにわたしのことを思い出してくださることがありましても、子どものころに読んだ本の思い出と同じようにみなしてくださることだろうと。わたしは、自分の愛する人々に、どんな苦しみをも決して与えはしないと確信していたいので、どの人の心の中にも、あくまでもどんな小さな場所をも占めていたくないのです。 あたたかい慰めになるお言葉のかずかずをわたしに語りかけ、また書きよこしてくださったあなたの広いお心を、わたしは忘れません。もっとも、今は、このわたしがそうなのですが、そういうお言葉ですら信じられない状況にあります。それでもやはり、こういうお言葉が支えであることにかわりはありません。おそらく、十分すぎるほどにそうなのでしょう。これから先もずっとお互いに手紙のやりとりをすることができるものかはわかりません。でもそんなことはそうたいしたことではないのだと考えなければならないのでしょう…… もしわたしが聖人でしたら、あのお手紙の中に述べられていたお申し出を承知することもできたでしょう。わたしがとてもさもしい人間である場合にも同じく承知することができたでしょう。なぜなら、先の場合には、わたし自身の我意なんてとるに足らないわけですし、後の場合にはそれだけが何よりたいせつになるからです。でも、わたしはこのどちらでもないので、問題にはならなかったのです……
しかしこれを最後にかれらの文通は途絶え、「一九四四年十一月、彼女のフランスへの帰国を待っていたわたしは、共通の友人たちを通じて、すでに一年前彼女がロンドンで死んだことを知らされた」。
彼女の最期については、わたしはくわしいことは全然知らない。「死の苦悶は、さいごにくぐる暗い夜であり、完全を得た人たちでさえも、絶対的な純粋さにいたるためにはそれを必要とする。そのためには、苦しみがつらくきびしい方がいい」と彼女は述べていた。彼女の生涯はそれだけでもう十分に辛く苦しいものだったのだから、安らかな死が彼女には恩恵として与えられただろうと、わたしはあえてそう考えたいのである。
ヴェイユの性
彼女は毎日、福音書から日ごとの糧を得ていたのだが、そのほかにも、インドや中国の道教のすぐれた経典、ホメロス、ギリシアの悲劇作家、とくにプラトンを深く熱愛し、プラトンをきわめてキリスト教的な方向で解釈したりした。反対に、アリストテレスを嫌っていたが、それは、偉大な神秘的伝統をまず最初に死に追いやった人間をかれの中に見ていたからである。宗教的な作家としては、十字架の聖ヨハネ、文学者としては、シェイクスピア、英国の何人かの神秘主義的詩人、ラシーヌが同程度に彼女の精神に影響をとどめている。同時代の人としては、ポール・ヴァレリーと『スペインの遺書』のケストラーのほかには、まず見あたらない。ケストラーのこの本についてわたしに話してくれたとき、彼女はすっかり感心しているふうであった。(...)彼女は、真の意味で天才的な作品には、高度の精神性が要求されること、きびしい内面の純化を経てこないかぎり、完全な表現には達しえないことをかたく信じていた。このように、純粋さや内なる真実への心くばりがあったために、彼女は、ほんのわずかでも効果をねらう意図を見てとったり、不誠実さや誇張の要素をほんの少しでもかぎつけたりした作家に対しては、だれに対しても容赦のない態度を示した。たとえば、コルネイユ、ユゴー、ニーチェなどに対してである。ただ、余分なものをいっさい捨て去った文体こそ、虚飾のないたましいの姿を〈翻訳〉するものとして何より重んじた。彼女は、こんなことを手紙に書いてきたことがあった。「表現の努力というものは、ただ形式だけに向けられるものではなくて、思考に、人間の内面性全体に向けられるべきものです。飾り気のない表現にまで達していないかぎりは、思考もまた、真の偉大さには触れていないのですし、そこへ近づいてもいないのです……文章の正しい書き方は、翻訳するときのように書くことです。外国語で書かれたひとつの文章を翻訳するときには、そこには何かをつけ加えようとしないものです。むしろ逆に何もつけ加えまいと、慎重の上にも慎重になるものです。書かれた文章でない場合にも、その翻訳をこころみるときには、そうあるべきです。」
ゆえにヴェイユの精神にはそうした純性が投影される。すなわち「シモーヌ・ヴェイユは、あまりにも純粋であったから、多くの秘密をかくし持っていることができなかった」のだ。
彼女にはひとつの大きい欠点があった(あるいは、見る立場をかえてみればめったにない長所といってもよかった)。それは、社会生活上の必要や礼儀に対してどんな譲歩もしないということであった。彼女はいつも、自分の考えていることを全部、どんな人に向かっても、どんな状況においても言ってのけた。こういう真率な態度は、何よりも人々の心に対する深い思いやりから出てきたのであろうが、それがかえってさまざまな災難を招くもととなった。災難といっても、多くは笑って見すごせるものであったが、すべての真理を大声あげて世間に言いふらしてもいいという時代ではなかったのだから、なかには悲劇的な結果をひき起こしかねないものもあった。
つまり彼女の「高い平等主義」は、ヴェイユをとりまく人々へ「知恵の種」すなわち禁断の果実へと育つ悲劇の起源をその精神へ植えつけてしまうのだ。ティボンいわく「ヴェイユの唯一の罪は、タバコをすうことと、無学な人々にいつも水準の高い平等感から精神的な糧を与えようとするところでした」。
村のある知恵おくれの少年に数学の初歩を教えこもうと、同じ熱心、同じ愛情を傾けていた。知恵の種をまこうとはやりたつあまりに、ときとしてこっけいな思い違いをしでかすこともあった。一種の高い平等主義によって、自分の立っている高みが全部の人の準拠すべき点であるように思いこんでいたのである。彼女がもっとも高度な内容の教育をするときそれを理解できないほどの無能力な精神なんてめったにないと判断していた。
こうした純性と存在への平等は彼女のエクリチュールにも当然立ち現れる。ティボン曰く「シモーヌ・ヴェイユの文章は、注釈などつけたりすれば、かえって品位をおとし、歪曲するだけになりかねないような、すぐれて偉大な作品の部類にはいるものである」。
これらの文章には、なんの飾り気もなく、単純そのものである。そこに表明された、内的な経験がそうであったように。実際に生きられたものと言葉とのあいだに、どんな余計な詰めものも押しこまれてはいない。精神と思考と表現とは、割れ目ひとつないひとつのかたまりをなしている。たとえ、わたしが個人的にシモーヌ・ヴェイユという人を知らなかったとしても、その文体を見ただけで、その証言の真実性を確信することができたであろう。彼女の思想において何よりも驚かされるのは、その適用可能な範囲が多岐にわたっているということである。それは単純であることによって、触れるものすべてを単純化する。わたしたちを存在の頂きへと連れて行き、そこに立つと、目は一望のもとに限りなく重なりあう地平線を見てとることができる。彼女はこう述べた。「すべての見解をむかえ入れなければならないが、それらを垂直に並べて、それぞれ適当なレベルへおき直さなければならない。」そしてまた、「重なりあったいくつもの解釈を容れることができるほどに実在的であるものはすべて、罪がないものか、よいものである。」こういう偉大さと純粋さのしるしは、彼女の作品の一ページごとに見出される。
これは『ちいさな生存の美学』の言葉をつかうなら還元を意味する。こうした存在の地平に立つことでヴェイユは自らの形而上学的宇宙を構築するのだ。
全から始まり、全へと還る
神は一であり全である。しかし今、現在「被造物と神とのあいだには、あらゆる段階のへだたりがある」。「自分の内部に、また自分の周囲に存在する何ものにもましてその実在性が感じられる」所与は如何にして、神から分離され自らを自らが存在証明するようになったのか。
創造されたものは(...)みずからを統べている必要のゆえに、神の不在をもあらわしている。わたしたちは、神から出た者である、ということは、わたしたちはその痕跡をとどめている者だということを意味している。同時にまた、わたしたちは神から離れ去った者だということも意味している。〈存在するエグジステ〉という語の語源的意味(「外におかれている」)は、この点で非常に啓発的である。すなわちわたしたちは存在しており、わたしたちはここにいないのである。真の存在である神は、わたしたちが存在しうるために、いわばいくらか、自分を消し去ったのである。わたしたちが何ものかでありうるために、神はすべてであることを断念したのである。
神は一であり全である。神はわれわれを創造した地点において、あまねく被造物と完全に合一な存在であった。しかし、いつしか被造物から神はしりぞき、神の「外におかれている」状態を獲得した。すなわち「神は、わたしたちが何ものかでありうるために、愛によってもはや、自分がすべてではなくなることに同意した」のだ。そうした神から存在をひき剥がす力学をヴェイユは「重力」と呼ぶ。
神が創造の行為それ自体によってしりぞいて行ったあと、この世界にはたらく主要な法則は、重力の法則であり、それは、存在のどの段階においても類比するものが見出される。重力とは、何よりもとくに〈神から遠ざかる〉力である。重力は、被造物おのおのを押しやって、自己保存または自己拡大を可能とするすべてのものを求めさせようとする。トゥーキュディデースの言葉を用いるならば、自分にできるかぎりのあらゆる権力を行使させようとする。心理的には、あらゆる自己肯定、また自己回復の理由としてもちだされるもの、わたしたちが揺らぎだした自分の生を内側から固めるため、つまり、神の外側で神と対立したままでいようとして用いるあらゆるひそかな言いぬけ(自己欺瞞、夢への逃避、まやかしの理想、想像の中で過去や未来に踏み入ることなど)が、そのあらわれである。シモーヌ・ヴェイユは、次のような言葉で救いについての問いを放っている。「わたしたちのうちにあって、重力にも似たものから、どうしてまぬがれればよいのか。」ただ、恩寵によってである。神は、わたしたちのもとへ来ようとして、時間と空間の無限の厚みをのり越える。その恩寵によって、この世を動かしている必然と偶然との盲目のたわむれの中では何ひとつ変化するわけではない。恩寵は、水のしずくがその構造を変えることなしに地層の中へとしみこんで行くようにわたしたちのたましいの中へとはいりこむ。そして、そこで、わたしたちがふたたび神となることに同意するまで、黙って待つ。重力が創造の法則であるとすれば、恩寵の働きは、わたしたちを〈脱創造〉させることである。神は、わたしたちが何ものかでありうるために、愛によってもはや、自分がすべてではなくなることに同意した。こんどは、わたしたちが、神がふたたびすべてとなるように、愛によって自分たちが無となることに同意しなければならない。すなわち、それは、わたしたちの中の〈われ〉、「罪と誤りによって映し出され、神の光をはばむ影、わたしたちが存在ととりちがえる影」をうち砕くことである。このまったき謙遜、無となることへの無条件の同意を除いては、ありとあらゆる形の英雄的行為、自己犠牲は、あいかわらず重力と虚偽に従っているのである。「ささげもの。この〈わたし〉以外の何ものもささげることはできない。そして、世にささげものといわれているものはすべて、この〈わたし〉の代わりのものの上に貼りつけられたレッテル以外の何ものでもない。」 〈われ〉を死なしめるためには、人生のあらゆる災厄に、裸のまま、なんの防備もなしに立ち向かい、真空や狂気の不安を受け入れ、不幸に際して決してつぐないを求めず、何よりも自分の内部で想像力の働き出すのを止めなければならない。「恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、たえず働きかけている」想像力の働き出すのを止めなければならない。あらゆる罪は、真空をのがれようとする試みである。また、過去や未来を捨て去らなければならない。なぜなら、〈われ〉とは、つねに消えようとする現在のまわりに過去と未来とが凝結したものにほかならないからである。(...)現在のこの瞬間に忠実であることによって、人間はまさに無にまで小さくされ、永遠へといたる門もそこにひらかれる。
「自分の生を内側から固め」、その存在を「自己肯定」する力学こそ「重力」であり、言い換えるならば「神の外側で神と対立したままでいよう」とするダイナミクスこそ「重力」なのだ。それゆえ神なき存立を成すことをさし、ティボンは「自己保存」と呼ぶのである。それはデカルト的語を用いるならば〈われ〉であり、神なき合理主義へ皮肉にも研磨されたデカルト的方法論は「重力」の象徴的存在である。では、自らを自らと定義する〈われ〉の死は如何にして叶うのか。そこでヴェイユが願うのが「無」であるのだ。「〈われ〉を死なしめるためには、人生のあらゆる災厄に、裸のまま、なんの防備もなしに立ち向かい、真空や狂気の不安を受け入れ、不幸に際して決してつぐないを求めず、何よりも自分の内部で想像力の働き出すのを止めなければならない。「恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、たえず働きかけている」想像力の働き出すのを止めなければならない」。
われわれは無になることで、自らの存在定立すなわち想像力のエネルギーが失脚し、恩寵を迎いれる箱となる。そのとき「恩寵は、水のしずくがその構造を変えることなしに地層の中へとしみこんで行くようにわたしたちのたましいの中へとはいりこむ」。それは失われた全体性への回帰であり、「こんどは、わたしたちが、神がふたたびすべてとなるように、愛によって自分たちが無となることに同意」することと換言できるだろう。よって「〈われ〉は、愛によって内側から死なしめられなければならない」のだ。
こうした象徴的例はナポレオンのような英雄的自己犠牲であるが、アリストテレスを嫌うヴェイユ曰く超自然的自己犠牲とそれは厳密に区別される。アリストテレスは「高貴さ」を育む勇気の価値を称揚し、軍人をその象徴として、英雄的自己犠牲の精神を最高善へのキーパーツであることを認めた―「勇気についての最大の証明は、最大の犠牲を払う覚悟、つまり自分の生命を犠牲にする覚悟であるゆえ、そして軍人という職業は、この犠牲を払う覚悟が絶えずできていなければならないゆえに、昔から軍人の勇気が、勇気の顕著な実例とみなされてきたのである」。またそれはトマス・アクィナスが継承したことで、英雄的自己犠牲の当意論は神学へと駒をすすめたわけだが、ヴェイユはこうした英雄的自己犠牲の転倒を試みる。
英雄は甲冑をまとっているが、聖人は、はだかである。(...)甲冑は、攻撃から守ってくれるものであると同時に、実在するものと直接に触れあうことをはばむ。(...)ものがわたしたちにとって現実に存在するものとなるためには、ものがわたしたちの中へはいってこなければならない。そこで、はだかにされるという必要が生じる。もし甲冑をまとっていて、そのおかげで傷を受けることから守られ、同時に、傷によってもたらされる深みへの道もとざされているとしたら、わたしたちの中へはいってくることができるものは何もない。
この〈脱創造〉の過程こそ、唯一の救いの道であり、それは恩寵のわざであって、意志のわざではない。人間は、むりやり自分の尻をたたいて天国へと上って行くのではない。(...)プラトンやマールブランシュのように、シモーヌ・ヴェイユも、この領域では意志よりも注意の方にはるかに大きい重要性を与えている。「善にも悪にも無関心でなくてはならない。それもほんとうに無関心でなくてはならない。すなわち、このどちらに対してもひとしく、注意の光を投げかけなくてはならない。そうすれば、おのずからな現象で善の方が勝つようになる。」まさに、こういう高度の無意識的動作をつくり出す必要があるのだ。(...)自分を消し去り、愛することによって、このような恩寵への完全に従順な状態に達する(...)。(...)わたしの〈よい〉行動が真に純粋なものとなるためには、このあわれなぐらつきを克服し、わたしが外側で果たす善がわたしの内側の必然を正確にあらわしだしたものとならなければならない。聖性とは、この点で、卑しさに似ている。非常に卑劣な人間は、情熱にかられるときには、女をわがものにすることも、それが利益になると思えば友人を裏切ることも膨置しないだろうが、それと同様に、聖人も、あくまで純潔でいること、また、忠実でいることを選ぶ必要はないのだ。これ以外のことはできないのである。蜜蜂が花にひかれるように、善の方へと向かうのである。(...)人間に〈脱創造〉をさせて、神へと戻させるこの苦しみの奥義は、受肉の奥義を核とする。もし神が肉のからだをとらなかったならば、苦しんで死んで行く人間は、ある意味では、神よりも偉大な者であるといってよいであろう。だが、神は、人となって、十字架の上で死んだ。「神が神を捨てた。神が自分をむなしくした。この言葉は、創造をも、受難を含む受肉をも、包みこむものである。わたしたちが〈存在せぬもの〉であると教えるために、神がみずから、〈存在せぬもの〉となった。」別な言葉で言うならば、わたしたちの中の被造物をうちこわすことを教えるために、神はみずからを被造物としたのである。