マルセル・デュシャン
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芸術の消費化
一〇〇年前に、数人の画家、数人の画商、数人のコレクターがいて、それで芸術制作とは、一種秘教的活動になっていました。こうした人々、こうした数人の人たちは、一般の人たちには分からない彼らだけの言語を話してましたし、こうした言語を彼らは、こう言ってよければ、宗教的言語とか、あるいはたとえば法律用語として受けとめていました。それぞれの言葉は、秘教伝授された者にしか意味がなかったからです。この一〇〇年来、すべてが大衆の領域になりました。みんなが絵画について話すようになりましたから。絵画を描く人、それを売る人、それを買う人だけでなく、一般の人々までもが絵画について話しているのですよ。
では如何にして芸術の大衆化が為されたのか。それは資本主義の価値相対化ネットワークにとりこまれることに起因する。
この秘教主義は、秘教主義でも一般向きの教えになったのです。今日あなた方が絵画について話したり、今日一般に芸術について話せば、一般大票は発言を許されますし、それを言いますよ。さらに加えて、一般大票はお金を持ってきたし、芸術での商業主義が秘教主義の問題をその一般向きの教えにしてしまいましたよ。そうなると、芸術はインゲン豆と変わらない商品です。スパゲッティを買うように芸術を買うというわけです。
即ち、芸術とはマルクスのいう反照規定の諸関係の網にとりこまれたのであり、それは芸術の商業化を意味する。 秘教主義とは言っても、やはり、ひじょうにはっきりと言い表わすとなるとひじょうに難しいものです。どんな秘教主義にでも、等価なものとしての言葉をもたない一種の神秘があります。あなた方にはこれらのことを言い表わすことはできません。つまりですね、あなた方は秘教主義的実践をいくつかしているわけですが、それは一種の隠蔽操作なのですよ、それなのにこの隠蔽は今日では、完全に見失われています。タブローがその大きさと値段とで価値づけられるためです。そしてある男性が他のタブローより一〇フランでも高く売れば、そのタブローは、語の「芸術」という意味で他のタブローよりはよいということになるためです。そうなるとそれはかなり奇妙な価格早見表ということですね。
芸術のマスターベーション
私から見れば、一人の芸術家にあっては、一種のマスターベーションなのです。もっとも、ひじょうに自然ではありますが。あえて言えば、嗅覚的マスターベーションです。つまり、毎朝、目が覚めると画家は朝食とは別に、小量のテレピンの臭いが必要なのです。それで画家はアトリエに行きます。こうしたテレピンの臭いが必要だからですよ。テレピンでなくとも、油絵の具ですね、どちらにしても、明らかに嗅覚にかかわるものです。それが一日をまた始めるのに必要なこと、つまり一種の唯一大きな喜び、ほとんどオナニックな[自慰的な]喜びなわけです。お分かりですね。それは抑圧すべきではまったくありませんが、まあ行われていることなのです。それは、芸術家のほとんど役人的なあの側面でして、毎日政府のために働く代わりに自分のために働くというものです。お分かりになりますか。
芸術家という実存を構成する微粒子にテレビンの匂いが存する。
芸術家の無志向性
言い換えれば、ものを制作する芸術家は自分が何を制作するのか何も分からないし、自分が何を制作するか何ひとつ理解していないのです。そして、こんなふうだからそれがおもしろいのかもしれませんが。芸術家は自分が何をつくるか分からないときは、そうです。芸術家は一番最後になって、自分がつくるものを判断できるのです。ですから、あなたがすべての芸術家にそれを尋ねたら、彼らはこう言うでしょう、私はばかです、私は何も分かりませんと。
芸術家は自分が何をつくるのか分からないのですから、いわば、自分のつくるものに対して決して責任はありません。しかし、芸術家はそれへと駆り立てられるものですから、表面よりももっと深いところにあるような言うべき何かをほんとうに持っているならば、それをつくるものです。そして、だからこそ、「で、だれが決定するのか」と言えることがおもしろいわけです。だれが決定するのか、それはひじょうに単純です。後世がそれを引き受けるからです。後世は正しいのかまちがっているのか。それはまた別の問題です。ともかく、決定するのは芸術家ではありません。どんな芸術家でも自分には才能があると世間に言いふらすものですよ。それは、個々の芸術家の大げさなエゴイスムに属しますが、芸術家はこうした自信が必要なのです、さもなければ決して何もつくらないでしょう。それでも芸術家がそんなことをじるのはまちがっているとはいえ、同時に、この芸術家の制作行為にとってはよいことだと思わざるをえません。芸術家に何か言うべきことがあれば、少なくともそれは存在することになるわけですから。そして後世が決定することを引き受けるでしょう。しかし、芸術家がこうした側面を持たないときは、何かを制作することで一種個人的満足感だけに浸り切らざるをえません。そうだからこそ、芸術家が自分を偉大な才能の持ち主だと幻覚さえして抱くようなこうした制作することの歓喜は、ほんとうに、大目に見ることができるのです。芸術家のだれでもがこうした幻覚を持つものです。この幻覚はすばらしい幻覚なのです。自分の人生が大きな喜びだからです。絶え間なく、ね。
一九一三年に私は自転車の車輪を台所用腰掛(スツール)に取りつけてそれが回転するのを眺めるという名案を得た。〜ちょうどその頃、この種の表示形式を指し示すために、「レディ・メイド」という語を思いついた。私はどうしても明確にしておきたいのだが、「レディ・メイド」の選択は美的楽しみ(esthetic delectation)によって指図されることはけっしてなかった。この選択は視覚的無関心(visualindiference) 基づいていた、つまり、良い趣味にせよ悪い趣味にせよ趣味の完全な欠如に、要するに完璧な無感覚状態(a complete anesthesia)に基づいていた。