ポランニー
1944『大転換』
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第II部
自己調整的市場による進歩の荒地
『ミルトン』の序詩の第二節にある、"And was Jerusalem builded here / Among these dark Satanic Mills?"でウィリアム・ブレイクは、産業革命という技術の発展過程がもつ文化に対する破壊性を、ロゴスの力で生命を粉々にする「悪魔のひき臼」に例えている。ポランニーはそれを引用し、十八世紀のコインの表裏を表現する。
十八世紀における産業革命の核心には、生産用具のほとんど奇跡的ともいうべき進歩があった。しかしそれは同時に、一般民衆の生活の破局的な混乱をともなっていた。この混乱は、今からおよそ一世紀前、イギリスにおいてその最悪のかたちをとって出現することになったが、われわれは以下の諸章で、この混乱のさまざまな様相を決定づけた要因の絡まりを解きほぐしてみようと思う。どのような「悪魔のひき臼」が、人間を浮浪する群集へとひき砕いたのか。どれほどのことが、この新しい物質的な条件によって引き起こされたのか。どれほどのことが、新しい条件のもとで現われた経済的依存関係によって生じたのか。そして、古くからの社会的な紐帯を破壊し、そのうえで人間と自然を新たなかたちで統合しようとしたにもかかわらず、結局みじめな失敗に終わったメカニズムとは、一体どのようなものであったのか。
自由主義哲学の欠陥の中で、変化の問題に関する理解ほどその誤りが明白なものはほかにないだろう。自然成長性に対する炎のように熱い忠誠心のために、変化に対する良識ある態度は打ち捨てられ、どんなものであろうと経済的進歩の社会的帰結を進んで受け入れようとする不可思議な態度がそれにとって代わったのである。政治学と国政術の基本的な真理がまず信用を失い、そして忘れ去られた。そのスピードが速すぎると思われるような無統制な変化は、社会の安寧を守るために、もしも可能であるなら、その速度を緩やかにすべきであるということについては、何ら詳細な説明は必要なかろう。伝統的国政術が教えるこのような自明の真理は、多くの場合、古くから受け継がれた社会哲学の教えをただそのまま表現したものではあったが、一九世紀においては、無意識的な成長がもっているとされる自己治癒力なるものへの無条件の信頼と結合した粗雑な功利主義哲学の浸食作用によって、そうした真理が教養ある人々の思考の中から消え去ってしまったのである。
伝統的諸社会と自己調整的市場社会の経済との決定的利害は、後者のように経済領域が政治や社会的諸関係から切り離されて自立的な領域になっているか、それとも前者のようにそれらが一体化しているかにある。なぜなら「経済的自由主義は産業革命の歴史を誤って解釈した。というのは、この思想は、社会的な事象を経済的観点から判断すべきであると主張しているからである」からであり、ポランニーは伝統的諸社会における「互酬」「再分配」「家政」の原理を「生産性の低い、野蛮で、時代遅れの非合理的な経済のもとに置かれた前近代的農業社会」であるとする通俗的な唯物論的進歩史観から脱却し、それら原理を自己調整的な市場「交換」原理とともに、人間社会の経済の土台を構成するものとして複眼的に検討したのである。まさにそれは「経済に埋め込まれた社会」といった誤認を解き「社会に埋め込まれた経済」に回帰させたのだ。それゆえドラッカーはこれを「真に総合的な経済理論」と評するのである。
資本主義の誕生について-四つの経済原理論(互酬、再分配、家政、交換)
一九世紀的誤謬と、真理への道
第一に論じなければならないことは、経済は人類に普遍なことである。
当然のことながら、いかなる社会も、何らかの種類の経済をもっていなければ、一瞬たりとも持続していくことはできないだろう。
これは当然であるが、同時に誤解されやすい。封建主義から資本主義の移行は、経済の誕生を予感させるが決してその意味ではない。古来より、人間は何らかの経済システムをもって生存していたのであり、それがなければ社会とは持続されない。社会にとって政治が不可分であるように、経済も同様に普遍的で不可分であるのだ。しかし、ここに誤謬は発生する。結論を先取りすると、ポランニーは本書で経済を「互酬」、「再分配」、「家政」、「交換」という四つの経済原理にモデル化した。そしてその一つを占める「新石器時代以降かなり普遍的な制度」であり、かつ我々に最も身近である経済原理は「交換」であるがしかし、その実、「交換」とは一九世紀において優勢になった原理であり、近代以前「その役割は経済にとって付随的なものにすぎなかった」のだ。
しかしわれわれの時代になるまで、経済が、その大枠においてさえ市場によって支配されつつ存在したことは一度たりともなかった。一九世紀において、学問の世界であのように繰り返し聞かれた呪文の合唱にもかかわらず、交換に際して得られる利得と利潤が人間の経済において重要な役割を果たしたことは、かつてなかった。市場という制度は、新石器時代以降かなり普遍的な制度となってはいたが、その役割は経済にとって付随的なものにすぎなかった。
こうした偏見は、ポランニーいわくアダム・スミスに求められるという。彼は前述した四つの経済原理のなかで、とりわけ「あるものを別のものと取引し、交易し、交換しようとする性向」、すなわち「交換」を重視した。ポランニーからしてみれば、これは「過去の誤読」に他ない。しかし同時に、「過去の誤読」として分析された「交換」の原理は、スミスの意図と異なるにせよ、見事に近代の経済システムを予言したのである。そして、こうした過去の誤読は、スペンサー、ミーゼス、リップマンがさらに確定的なものとしてしまい、ついには経済の「公理」と呼べる位置にまで到達したという。しかし、我々はこの誤謬をとりさらわなければならない。アダム・スミスより始まった経済学史と呼ばれるものを、経済学の聖書に相当する『国富論』のプレリュードをいまこそ脱ぎすてなければならない。そうポランニーは強く訴えた。
われわれは、この点について特に強調して述べておく必要があるだろう。ほかならぬアダム・スミスのような思想家が、社会における分業は市場の存在に依存するものであると主張した。あるいはスミスの筆法に従えば、分業は人間のもっている「あるものを別のものと取引し、交易し、交換しようとする性向」によるものであった。この表現は、後年「経済人( Economic Man)」という概念を生むこととなった。振り返ってみると、この過去の誤読ほど、未来を正しく予言したことはなかったということができる。というのは、 アダム・スミスの時代よりも前の時代においては、いかなる社会生活を観察したとしてもこの性向が顕著に示された例はなく、せいぜいのところ経済の副次的な特徴にとどまっていたにもかかわらず、その一〇〇年後には、地球という惑星の主要な場所で産業システムが最高潮に達したからである。(...)一九世紀の後半において、ハーバート・スペンサーは、分業の原理を取引や交換と同一視し、さらに五〇年後には、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとウォルター・リップマンが同じ誤りを繰り返した。そのときになると、すでに議論の必要がなくなっていた。政治経済学、社会史、政治哲学、そして一般社会学の分野における多数の学者が、スミスのひそみに倣って、交換する未開人という彼のパラダイムをそれぞれの分野の学問における公理として確立した。まず最初にわれわれは、アダム・スミスの仮説、すなわち未開人でさえ利益のあがる仕事を好むという仮説の前提をなしている、若干の一九世紀的偏見を捨て去ることから始めねばならない。(...)さまざまな古代社会あるいは過去一万年を、おおよそのところ一七七六年における『国富論』の出版から始まったわれわれの文明の真の歴史の単なるプレリュードとして見るという習慣は、控えめにいっても時代遅れというほかはない。このような挿話は、今日という時代においてはすでにその役割を終えたのであり、われわれが未来の選択肢を判断しようとするにあたっては、われわれの父祖の性癖に倣うという生来の傾向を抑えなければならないのである。
では如何にすれば経済を動かす原理を導出できるのか。それこそがまさに「さまざまな古代社会あるいは過去一万年」の相から経済を分析することに他ならない。ポランニーにしてみれば「人間の生まれながらの資質は、時代と場所を問わずあらゆる社会において、明確な一定性をもって何度でも出現する。そして人間社会の存続のために必要とされる前提条件は、常に同一であるように思われる」とする。いわば人類学的諸研究とは、人間本性論の研究に他ならず、それは絶えず同一であり、如何なる部分が強く現れ、弱く現れるかの強弱の問題でしかないのである。したがって、前述したように、以降、ポランニーは経済原理を歴史的に「互酬」、「再分配」、「家政」、「交換」に種別する。そしてその強弱が如何なるバランスで現れたかによって、ある時点での経済システムを分析しようと試みるのである。
マックス・ウェーバーは、文明社会の動因や機能の問題に対して役に立たないという理由で未開経済を無視することに対して異を唱えた、現代における最初の経済史家であった。社会人類学におけるその後の成果によって、彼がまったく正しかったことが明らかとなった。というのは、もしも古代社会に関する最近の研究において、何にもまして明らかな一つの結論があるとすれば、それは社会的存在としての人間の不変性であるからだ。人間の生まれながらの資質は、時代と場所を問わずあらゆる社会において、明確な一定性をもって何度でも出現する。そして人間社会の存続のために必要とされる前提条件は、常に同一であるように思われるのである。
互酬、再分配、家政-十八世紀以前の社会システム
こうした前提でもって以降、経済人類学的な研究がなされるわけであるが、第一に未開社会に現代的な定式を当てはめても正当な分析はなされない。そこでまず問題とされるのは「経済的動機」である。たとえばウェーバーの論じたプロテスタント解釈であれば、その「動機」は二重予定説であり、彼らは神に救われるために勤勉に励む。また経済人であれば−後述されるように、その「動機」は利得であり、それを獲得するために「最小の努力」で労働を試みるであろう。そしてその「動機」は単なる個人的なものに留まらず、制度的な次元へと昇華される。経済人であれば、制度的問題は時間や給与へと向けられ、雇い主はその操作によって計画と生産を管理する。その一方で、勤勉なプロテスタントの制度的問題は、給与には向かわないだろう。制度とは各自の「動機」に順応する形で変容するのであり、何よりもまず分析には「動機」なのだ。では未開人においてはそれは何なのか。これが第一の問題に他ならない。
いわゆる経済的動機がいかにして社会生活の文脈から生じるかという、その道筋を示そうとしたのである。そうしたのは、現代の民族学者の見解が一致するのは、否定形で述べられるこの一つの命題、すなわち利得という動機が欠如しているという点にあるからである。すなわちそこには、報酬を目的として労働するという原理が存在せず、最小の努力を払うという原理がなく、そして特に、経済的動機にのみ基づくいかなる特別の制度も欠如しているのである。しかしそれなら、生産と分配における秩序はどのように保障されるのだろうか。
そこで以下未開人の「動機」が分析されるわけだが、それは現代社会と異なり、危機に瀕したときの「共同体における互助の精神」に向けられる。
部族社会の場合を考えてみよう。そのような社会では、個人の経済的利害が何にもまして重要なものとされることはまれである。というのは、大災害に遭遇する場合はともかくとして、共同体自体が、すべての成員を飢えから守ってくれるものだからである。かりに大災害に襲われるとしても、それによって脅かされるのは、やはり個々の成員の利益ではなくて共同体全体の利益である。他方、社会的紐帯を維持することは決定的に重要である。なぜなら、第一に、広く認められた名誉あるいは寛容の規範を無視すれば、個人は共同体との結びつきから切り離され、村八分となるからである。また第二に、長期的に見ればあらゆる社会的な義務は互恵的なものであり、それを遵守することはまた成員相互のギヴ・アンド・テイクの関係に基づく利益にもっとも役立つからである。このような状況は、個人に対して、自分自身の意識から経済的な利己心を取り除くよう絶えざる圧力となって作用するにちがいない。その結果個々人は、多くの場合(けっしてすべての場合とはいえないが)、みずからの行為の意味をこのような利害の観点から理解することさえ不可能になるのである。こうした態度は、協力して手に入れた食料を分かち合ったり、部族による危険な遠征の成果を共有したりするような、成員による頻繁な共同活動によっていっそう強められる。寛容に対する報奨は、社会的威信の増大という観点から見て非常に大きく、純粋に献身的な行為以外のいかなる行動をも、まったく割に合わないものとしてしまうほどである。この問題については、個人的な性格はほとんど関係しない。人間は、どのような価値体系のもとにあっても、善良にもなれるし邪悪にもなれる。また社会性に富んだり自己中心的になったり、嫉妬深くもなれば寛大にもなりうるものである。誰に対しても嫉妬を起こさせるようなものであってはならないというのは、実際のところ儀礼上の分配に関して広く認められた原則であり、また公の場で与えられる賞賛は、勤勉な、熟達した、あるいは優れた畑作りに対する当然の栄誉である(栄誉を受ける者が、あまりに優れていてはならない。もしもそうだとしたら、その者は当然の報いとして黒魔術の犠牲者となるという妄想によって衰弱死してしまうことになるかもしれない)。それがよいものであろうと悪いものであろうと、人間の情熱は非経済的な目的に対して向けられるだけである。収穫物を儀式的に陳列することは、競争心をこのうえもなく搔き立て、共同労働の習慣は作業の質量をともに最高度にまで引き上げる。無償の贈与というかたちをとって行われる交換行為は、必ずしも常に同一人物同士の間で行われるとは限らないとしても、互恵的であることが期待される。この手順は、交換を周知させるための手の込んだ方法、呪術的な儀式、各集団を相互の義務によって結びつける「双対性」の確立によって、微細な点にいたるまで明確に決定され、完全に遵守される。そしてこのような交換それ自体が、利得という観念が欠如していることを、さらには伝統的に社会的威信を強めるとされる物資を別とすれば、富というものの観念さえ欠如していることを示すものである。
したがって、未開人の経済の多くに支配的な原理とは「交換」ではない。個人が絶えず自律的に生きて互いの利得に照らしあわせた交換をする必要はなく、寧ろ、責任を共同体全体で分有し、持つ者が持たざる者へ分け与え、贈与し、それを適当な時間のうちで返礼する互助こそが求めれるのだ。そして、こうした互助の精神こそが、人間をある経済システムへと導く。それこそが「互酬」と「再分配」である。そこでこうした未開人の「動機」、そして経済原理の典型として西メラネシア人を紹介する。
その答えの大部分は、本来的に経済とは無縁の二つの行動原理によって与えられる。すなわち、互酬(reciprocity)と再分配(redistribution)である。西メラネシアのトロブリアンド諸島島民の生活は、このようなタイプの経済の好例である。そこでは、互酬は主として社会の血縁的な組織、すなわち家族と親族において作用するのに対し、再分配は主として共通の首長をいただくすべての人々に対して効果的であり、したがって地縁的な性格をもっている。これらの二つの原理を、個別に検討してみよう。 家族、すなわち女性と子どもの扶養は、母方の親族の義務である。男性は、自分の女姉妹とその家族に対し収穫物のうちの最良の部分を提供して彼らを養うが、それによって彼が得るのは、その立派な行いに対する賞賛であって、引き換えに直接的な物質的利益を得るということはほとんどないだろう。もしも彼が怠慢であれば、何にもまして第一に傷つくのは彼の名声であろう。互酬原理が働くのは、男性の妻と子どもに対してであり、それによって彼は、共同体の成員としての徳目の実行に対して経済的な補償を得ることになるだろう。男性は、自分の畑およびその食料を受け取る人の倉庫の前で食料を儀式的に陳列するが、それによってすべての成員が彼の畑作りの質の高さを確実に知ることになろう。ここでは、畑と家政の経済が、よき農耕と共同体成員としての優れた行動に基づく社会的関係の一部を構成しているのは明白である。広範な互酬の原理が、生産の確保および家族の扶養の保障の双方に役立っているのである。再分配の原理も、それに劣らず効果的である。島のすべての生産物のうちのかなりの部分が、村長たちによって彼らを束ねる首長に引き渡され、首長はそれを貯蔵庫で保管する。しかし共同体の活動のすべてが、島民ばかりか他の近隣の島民をももてなし合うような祝祭、踊り、あるいはその他の催しを中心に組み立てられており(そこでは、遠隔地交易の成果が手渡され、礼儀作法のルールに基づいて贈り物が相互に交換され、首長が全員に対して慣例となっている祝儀を配る)、したがって貯蔵システムの圧倒的な重要性が明白になる。経済的に見れば、それは分業、対外交易、公的目的のための課税、安全保障の提供といった既存システムの不可欠の一部をなしている。しかしながら、経済システムそれ自体の機能は、全体としての社会システムという枠組みの中で演じられる一つ一つの行為に対してありあまるほどの非経済的な動機づけを与えるような、きわめて生き生きとした経験の中に完全に吸収されているのである。
このように両者は非経済的動機づけによって支えられ、非経済的所与と共存する形式でもって安定的な経済システムが織りなされているのだ。それは交換に重きが置かれ、他がおざなりになった現代からみてみれば奇跡のような所業であるだろう。ここで互酬を対称性という原理に基づいて、再分配を中心性という原理に基づいて分析する。それは個人の枠組みを超え、多くの集団を結び合わせる原理となりうるのだ。
しかしこれらの行動原理は、既存の制度的パターンがそれらの原理の適用を許すようなものでないかぎり、効果的なものとなることはできない。互酬と再分配は、文字による記録や手の込んだ管理の助けを借りることなく、経済システムの運行を確保することができる。それはただ、当の社会組織が、対称性(symmetry)や中心性(centricity)といったパターンの手助けによって、このような問題解決のために必要とされる条件を満たしているからにほかならない。互酬の機能は、無文字民族にしばしば見られる社会組織上の特徴である対称性という制度パターンによって、大いに助けられている。われわれが部族社会の下部集団において見出す顕著な「双対性」は、個人的関係を一対の関係とすることによって、永続的な記録が欠如している状況において財とサーヴィスに関するギヴ・アンド・テイクの関係の形成を助けている。それぞれの下部集団がその「片割れ」をつくりだそうとするような未開社会に見られる呼応性は、システムが依拠する互酬行為の形成を助けるとともに、逆に互酬行為の結果として生じたものでもあった。「双対性」の起源についてはほとんど知られていない。しかしトロブリアンド諸島の海に面した村は、それぞれ内陸にパートナーとなる村をもっているようであり、その結果、互酬的な贈り物のやりとりというかたちを装いながら、またたしかに時間的にずれてはいるものの、パンノキ☆7 と魚の交換という重要な行為が円滑に組織されるのである。クラ交易☆8 においても、各個人は別の島に自分のパートナーをもち、それによって互酬の関係を著しく個人化しているのである。たしかに、部族の下部集団相互で、あるいは居住地域内において、さらには部族間の関係において、対称性のパターンがこれほど頻繁に見られるのでなければ、長期にわたって個別的に行われるギヴ・アンド・テイクの行為に依拠する広範な互酬を展開することなど、不可能となるであろう。中心性という制度的パターンは、程度の差はあれあらゆる人間集団において見られるものであるが、これもまた、財とサーヴィスの徴収、貯蔵、そして再分配の途を提供するものである。狩猟部族の成員は、通常は再分配のためにまず獲物を首長に引き渡す。獲物の量が一定しないということは、それが集団的な労働投入の結果であるということと並んで、狩猟というものの本質をなすものである。このような条件のもとでは、かりに集団がそれぞれの狩猟のたびごとに解散するのでなければ、分配に関するこれ以外の方法は現実的ではない。だがいかに集団が大人数になろうと、あらゆる種類の経済においてこれと同様の必要性が存在する。そして、領域が拡大し生産物が多様となるにつれて、再分配はよりいっそう効果的な分業をもたらすだろう。というのは再分配が、地理的に多様な生産者の集団を結びつける助けとなるに相違ないからである。
一部の進歩主義者はこうした制度を批判する。しかしポランニーは、こうした非交換的経済システムを単純で原始的で、スケーラビリティのない制度とすることを断固拒否する。ポランニーにしてみれば互酬と再分配は充分に緻密に洗練された複雑体であり、同時に大きな共同体にも通ずる設計なのである。
このような共同体においては、利潤という観念は締め出される。値切りのための交渉は非難され、気前よく施しをすることは美徳として称揚される。いうところの取引・交易・交換性向は姿を現わさない。詰まるところ経済システムは、社会組織の単なる一機能にすぎないのである。この種の社会経済的原理が機能するのは、原始的な行為や小規模な共同体に限られると推論してはならない。同様に、利得や市場の存在しない経済は必然的に単純なものであると結論づけてはならない。互酬の原理に基づく西メラネシアのクラ交易の環は、人類史上もっとも手の込んだ交易取引の一つである。また再分配は、ピラミッドをつくりだした文明において巨大な規模で出現したのである。トロブリアンド諸島は、おおよそ環状をなす群島に属しており、この群島の住民の大部分は、時間のかなりの部分をクラ交易という活動に費やす。クラ交易は、貨幣にしろ現物にしろいかなる利潤をともなうものではないけれども、やはりそれを交易と記述することにしよう。たしかにその交易においては、財貨はまったく蓄積されず、恒常的に所有されることさえない。受け取られた財貨は、無償で譲渡されることによって享受される。値切りの交渉も、バーター、取引、あるいは交換も一切登場しない。そしてすべての手順は、慣行的な作法と呪術によって完全に定められている。それでもなお、それは交易であって、時計回りの方向に点在する遠くの島に住む人々にある種の財宝を届けるために、環状に連なるこの群島の原住民によって、大規模な遠征が定期的に企てられる。他方、反時計回りの方向に連なる群島の人々に、別の財宝を運ぶためにもう一つの遠征が組織される。長い目で見ると、二組の財宝──伝統的なつくりの白い貝殻でできた腕輪と赤い貝殻でできたネックレス──は、それぞれ逆回りに群島を一巡りすることになろう。そしてその軌跡を完成するためには、一〇年の歳月を必要とするだろう。そのうえ、通常クラには、お互いにクラの贈り物を同様に価値のある腕輪とネックレス──できることならば、かつては高貴な人の持ち物であった財宝──と交換する個人的なパートナーが存在する。さて、このように長い距離を越えて運ばれる財宝の組織的で体系立ったギヴ・アンド・テイクは、まさしく交易と呼ばれるべきものであろう。しかし、この複雑な仕組みのすべては、もっぱら互酬という基本線に従って運行されるのである。数百マイルの距離と数十年の時間に及ぶ、厳密な意味で個別的な幾千という財貨によって多くの人々を結びつける一つの込み入った時間=空間=人間システムが、トロブリアンド諸島は、おおよそ環状をなす群島に属しており、この群島の住民の大部分は、時間のかなりの部分をクラ交易という活動に費やす。クラ交易は、貨幣にしろ現物にしろいかなる利潤をともなうものではないけれども、やはりそれを交易と記述することにしよう。たしかにその交易においては、財貨はまったく蓄積されず、恒常的に所有されることさえない。受け取られた財貨は、無償で譲渡されることによって享受される。値切りの交渉も、バーター、取引、あるいは交換も一切登場しない。そしてすべての手順は、慣行的な作法と呪術によって完全に定められている。それでもなお、それは交易であって、時計回りの方向に点在する遠くの島に住む人々にある種の財宝を届けるために、環状に連なるこの群島の原住民によって、大規模な遠征が定期的に企てられる。他方、反時計回りの方向に連なる群島の人々に、別の財宝を運ぶためにもう一つの遠征が組織される。長い目で見ると、二組の財宝──伝統的なつくりの白い貝殻でできた腕輪と赤い貝殻でできたネックレス──は、それぞれ逆回りに群島を一巡りすることになろう。そしてその軌跡を完成するためには、一〇年の歳月を必要とするだろう。そのうえ、通常クラには、お互いにクラの贈り物を同様に価値のある腕輪とネックレス──できることならば、かつては高貴な人の持ち物であった財宝──と交換する個人的なパートナーが存在する。さて、このように長い距離を越えて運ばれる財宝の組織的で体系立ったギヴ・アンド・テイクは、まさしく交易と呼ばれるべきものであろう。しかし、この複雑な仕組みのすべては、もっぱら互酬という基本線に従って運行されるのである。数百マイルの距離と数十年のではいかなる記録も管理もなしに、しかもまたいかなる利得や交易の動機もなしに、運営されているのである。交換性向ではなく、社会的行動における互酬が主導的原理となっている。それにもかかわらず、このシステムによって経済分野において一つの素晴らしい組織上の成果が達成されている。実際のところ、厳密な会計を基礎とするもっとも進んだ現代の市場組織でさえ、たとえそうしようと望んだとしても、このような課題をこなすことができるかどうかを考えてみるのも興味深いことであろう。個々の品物の取引に対して度外れた制限を加えながら売買を行う無数の独占業者に直面した不幸な販売業者は、標準的な利潤をあげることさえできず、せっかくの仕事をたたんでしまうかもしれない。再分配もまた、ほぼ現在にまで続く長く変化に富んだ歴史をもっている。ベルグダマ族 では、狩猟のための長旅から帰った男性たちと、植物の根、果実、葉の採集から帰った女性たちは、その獲物の大部分を共同体に差し出すことになっている。実際には、これは彼らの活動による生産物を、たまたま彼らと生活をともにしている他の人々に分け与えることを意味する。ここまでのところは、互酬という観念で説明できよう。すなわち、今日の施しは明日の見返りによって報われることになろう。しかしながらある部族においては、集団の首長あるいは他の有力な成員が媒介者となる場合がある。提供された物資を、特にそうした物資を貯蔵する必要がある場合に、それを受け取りまた分配するのはこのような人物である。これが、本来の再分配である。このような分配方法が、社会的に大きな影響を与えるのは明らかである。というのは、すべての社会が未開の狩猟民のように民主的ではないからである。再分配が有力な家族によって行われようと、傑出した個人、貴族支配層あるいは官僚集団によってなされようと、彼らはしばしば、財貨を再分配するやり方をテコとして自分たちの政治力を増大しようと試みるだろう。クワキウトル族のポトラッチ☆10 においては、首長が自分の豊富な毛皮を誇示し、それを他の者に分け与えることが自分の名誉となる。しかし同時に首長は、そうすることによって、毛皮を受け取る者に一定の恩義を与えて自分に対する債務者とし、究極的には自分の従者にしようとするのである。あらゆる大規模な現物経済は、再分配の原理の力を借りて営まれる。バビロニアのハムラビ王の王国、あるいはとりわけエジプトの新王朝は、このような経済に基づく官僚制的集権専制国家であった。これらの場合には、族長一族の家政はきわめて大規模に再生産される一方、その「共産主義的」分配は、極端な格差をもつ配給制を用いて等級づけされていた。牛飼い、猟師、パン職人、ビール醸造職人、陶工、織工、その他どんな仕事をしていようと、こうした人々の活動の成果を受け取るために、莫大な数の倉庫が準備された。生産物はこと細かに登録され、生産された地域で消費されるのでないかぎりは、小さな倉庫から大きな倉庫へと移送され、その後ファラオの宮廷にある中央管理機関にまで届けられた。布、工芸品、装飾品、化粧品、銀器、王室の衣装のそれぞれに個別の宝物殿があり、そのほかに巨大な穀物倉庫、武器庫、ワイン貯蔵庫があった。 古代エジプトのピラミッドを建設した人々が行っていたような大規模な再分配は、貨幣をもたない経済に限られてはいなかった。実際すべての古代王国は、租税と俸給の支払いのために金属通貨を使用していたが、それ以外の支払いについては、穀物倉庫やあらゆる種類の倉庫からの現物支払いに頼っていた。それらの倉庫から、主として王国臣民の中の非生産的部分、すなわち官僚、軍隊、有閑階級に対して、使用と消費のために非常に多様な財貨が分配されたのである。これは、古代中国、インカ帝国、インド諸王国、あるいはまたバビロニアにおいて実際に営まれたシステムであった。こうした文明あるいは高度な経済的発展を見せたその他の多くの文明において、手の込んだ分業が、再分配のメカニズムによって機能していたのである。封建制という条件のもとでも、この原理が同様に働いていた。種族単位で階層化されたアフリカの社会では、時として、土を掘り起こす棒や鍬を今なお使用している農耕民の中で、定住牧畜民が最上層を構成している例が見られる。牧畜民によって徴収される品物は、たとえば穀物やビールのような農産物であることが多いが、彼らによって分配される品物は、動物、とりわけ羊や山羊であることが多い。このような例においては、社会の各階層間において、通常は不平等なものではあっても分業が存在する。すなわち、分配はしばしば搾取の手段を隠蔽している場合がある一方で、分業が進むことによって、同じシステムのもとにある双方の階層が生活水準向上という利益を享受することになる。政治的にいえば、家畜と土地のいずれが特権的な価値をもつにしろ、このような社会は封建体制下にあるといえる。「東アフリカには通常家畜を封とする制度」が存在する。それだからこそ、われわれが再分配の問題においてはほとんどその説くところに従ってきたトゥルンヴァルトは、封建制はどこでも再分配のシステムをともなっている、と述べることができたのである。非常に進んだ条件と例外的な環境のもとでのみ、このシステムが西ヨーロッパに見られたようにきわめて政治的なものとなる。西ヨーロッパでは、家臣が保護を必要としたことからこの変化が生じ、贈り物が封建的貢納へと姿を変えたのである。以上の例は、再分配はまた、本来の経済システムを社会的諸関係の網の中に取り込んでしまう傾向のあることを示している。すなわちわれわれの見るところでは、一般的にいって再分配のプロセスは、部族社会、都市国家、専制体制、家畜あるいは土地に関する封建制などのいずれにおいても、支配的な政治体制の一部を構成するものである。財貨の生産と分配は、主として徴収、貯蔵、そして再分配によって組織される。そのパターンの中心にあるのは、首長、寺院、専制君主、あるいは領主である。指導的集団の被指導者集団に対する関係は、政治権力が依拠している基盤によって異なっているから、再分配の原理は、狩猟民による獲物の自発的な分配から、フェラヒーンに現物税を納めるように促す懲罰の恐怖にいたるまで、多様な個別的動機をともなうことになろう。
そして最後にポランニーは第三の原理を紹介する。それは一見最も原始的に見える経済システム、自給自足の「家政」である。
歴史において大きな役割を果たすべく定められた第三の原理、われわれはそれを家政(householding)の原理と呼ぼう。それは、みずから使用するための生産の謂いである。ギリシア人はこの原理を、「エコノミー」の語源であるオイコノミア(oeconomia)と呼んだ。民族学の記録に従うかぎりにおいて、われわれは、ある個人あるいはある集団がみずからのために行う生産が、互酬あるいは再分配よりもさらに古いものであると想定することはできない。それどころか、伝統的な正統派理論も一部のもっと新しい理論も、ともに誤りであることが明確に示されている。つまり、自分自身や自分の家族のために食料を集め狩りを行う個人主義的な未開人など、これまでに一度たりとも存在したことはなかったのである。事実、自分の家族の必要のために食料を集めるという行動は、農業がもっと進んだレヴェルになって、ようやく経済行動の特徴となる。しかしながらそのようなレヴェルに達したときでさえ、行動には、何ら利得動機あるいは市場制度と共通するものは見られないのである。家政原理のパターンは、閉ざされた集団である。さまざまに異なった家族、居住地、あるいは荘園が自給自足の単位を構成していたのであるが、原理はいずれにおいても同一であった。すなわち、集団の成員の欲求を満たすために生産し貯蔵するということである。この原理は、互酬や再分配と同様に広く適用することができ、制度的な核となるものの性格とは無関係である。その制度的な核は、家父長制家族におけるように血縁であるかもしれないし、村落のように地縁であるかもしれないし、領主の支配する荘園のように政治権力であるかもしれない。集団の内部的組織にも、やはり関係しない。ローマのファミリアのように専制的であってもよいし、南スラヴのザドルーガのように民主的であるかもしれない。カロリング朝の有力者のように広大な領土をもっていてもよいだろうし、西ヨーロッパの平均的な小農保有地のように小規模でもかまわない。また、交易あるいは市場の必要性は、互酬や再分配の場合と同様に大きくはないだろう。
そしてポランニーはこうした一連より次のように帰結する。すなわち前資本主義、封建主義以前は交換が支配原理を占めることはなかったのであり、互酬、再分配、家政を主としながら部分的に交換が存在する形で成し得ていたのである。
大雑把にいって、西ヨーロッパにおける封建制の終焉まで、われわれが知っているあらゆる経済システムは、互酬、再分配、あるいは家政の原理によって、あるいはこれら三つの原理のいずれかの組合せによって組織されていたという主張が妥当する。これらの原理は、とりわけ対称性、中心性、および自給自足性というパターンを利用した社会組織の助けを借りて制度化されていた。この枠組みの中で、財の秩序立った生産と分配が、社会全体としての行動原理によって統制されたなかでの多種多様な個人の動機を通じて確保されていた。こうした動機の中で、利得動機は突出したものではなかった。究極のところ、経済システムにおける各自の役割の遂行を保障していた行動規範を当の個人に遵守させるという点において、慣習と法、呪術と宗教とが協同していたのである。(...)一六世紀以降、市場の数は増え、重要性も増していった。重商主義体制のもとにおいて、実際のところ市場は政府の主たる関心事となった。しかし依然として、市場がやがて見られるように人間社会を支配することになるという兆候は見られなかった。それどころか、規制と管理はこれまでにないほど強まった。自己調整的市場という観念は欠如していた。一九世紀において生じたまったく新たなタイプの経済への突然の転換を十分に把握するためには、過去の経済システムを再検討する際には実質的に無視することのできるような一つの制度、すなわち市場というものの歴史を振り返ってみなければならない。(...)われわれの時代以前においては、市場が経済活動の付属物以上のものであったことはけっしてなかったことが示された。一般的にいって、経済システムは社会システムの中に吸収されており、経済においてどのような行動原理が支配的であろうとも、市場パターンの存在は社会システムと両立することができたのである。
交換-一九世紀以降の社会システム
これまでみてきたように「経済システムは、全体的な社会関係の中に沈み込んでいたのである。そして市場は、社会的権威によってこれまで以上に統制され規制された制度的枠組みの中にあって、その単なる付随的な特徴にすぎなかった」。しかし、一九世紀に到来した資本主義はこれを反転させた。すなわち、資本主義、市場の原理があまねく社会的諸関係を支配する唯一原理として君臨したのだ。
資本主義経済においては、取引あるいは交換の原理が基本的な重要性をもつとともに、市場が支配的な役割を果たしている(...)。しかしそれ以外のいくつかの点においては、取引原理は他の三つの原理と完全に同等ではない。取引原理が結びつく市場パターンは、対称性、中心性、あるいは自給自足性よりももっと特殊である。これらの三つのパターンは、市場パターンとは異なって単なる「特性」であり、一つの機能だけを果たすために設計された制度をつくりだすものではない。たとえば対称性は、既存の諸制度を単にパターン化しただけの社会学的な枠組みにすぎず、何らの別個の制度をもたらすものではない(ある種族あるいはある村落が対称的な立場におかれているかどうかということは、ある特別な制度が存在しているかどうかということとは無関係である)。あるいは中心性は、たしかにしばしば一定の制度を創出することがあるとしても、結果として特定の単一機能のための制度を選び出すようないかなる動機の存在をも意味しない(村落の首長あるいはそれ以外の中央官僚が、たとえばさまざまな政治的、軍事的、宗教的、あるいは経済的機能をどれもこれも果たす場合もあるだろう)。最後に、経済的自給自足性は、既存の閉鎖的集団の付随的な特性にすぎない。それに対して市場パターンは、それ自身に特有の動機、すなわち取引・交換動機と結びつき、ある特定の制度、すなわち市場を創り出すことができる。結局のところ、これが、市場による経済システムの支配が社会組織全体に対して圧倒的な影響を与える理由である。すなわちこれは、市場が、その付属物として社会を動かすということを意味する。経済が社会的諸関係の中に埋め込まれているのではなく、反対に社会的諸関係が経済システムの中に埋め込まれているのである。(...)孤立している諸市場を一つの市場経済へと変える段階、すなわち規制された諸市場を一つの自己調整的市場へと変える段階こそ、決定的なものである。
ではこれは如何にして生じたのか。ポランニーにしてみれば、それは自然発生的なものや、ひいては市場進化論的なものではなく、極めて人工的な結果だという。
一九世紀が──この事実を、文明の極致として喝采を送るにしても、あるいは癌の増殖であるかのように嘆くにしても──このような展開を市場の拡張の自然な帰結であると思い描いたのは、あまりに単純であった。つまり、市場が巨大な力をもつ自己調整的市場へと転換したのは、市場が異常生成するというその固有な傾向の結果ではけっしてなく、機械というまさに人工的な現象によってもたらされた状況に対応するために、社会体に与えられたやはり高度に人工的な刺潑剤の結果であった、ということが理解されなかったのである。
それを証明するに第一に論じられるのは、従来の古典派経済学における「市場の自然発生性」「貨幣の発明による不可避的発展」という通説を否定することとである。ポランニー曰く「市場パターンが本来もっていた限定的で非拡張的な性格は」ようやく近年の研究によって明らかになってきたとしてトゥルンヴァルトの『原始共同体の経済』から次のように援用する。「市場は、どこにでも見出されるというものではない。市場が存在していないということは、一定の隔離および孤立傾向を示すものではあるが、それが何らかの特定の発展と結びついていないのは、市場が存在しているからといって何らかの発展を想定できないのと同様である」。そして別の研究者は、トゥルンヴァルトが市場に関して述べたことを、貨幣について繰り返していると云う。「ある部族が貨幣を使用していたという事実だけでは、経済的に見てこの部族を、同じ文化的水準にあって貨幣を使用しなかった他の部族と区別することはできなかった」。これらの引用が示していることは、すなわち下記である。
市場もしくは貨幣の存在の有無は、必ずしも未開社会の経済システムに影響を与えるものではない。この事実は、一九世紀の神話を、すなわち貨幣とは、その出現が市場を創出し、分業のピッチを無理やり高め、人間が本来的にもっている取引・交易・交換性向を解放することによって、不可避的に社会を転換させるような発明であった、という言説をくつがえすものである。
ではポランニーはいかなる根拠をもって、市場や貨幣の自然的発展による資本主義と云う帰結と、一九世紀的な人工的大転換を説明するのか。
すなわちそれは連続的な経済史観の否定を意味すると同時に、断続的な大転換は人工的な結論であることを示唆する。
経済的秩序は、通常は、単に社会的秩序の一機能にすぎないものである。部族社会においても、封建制においても、あるいは重商主義体制のもとにおいても、すでに見たように社会において別個の経済システムが存在したことはなかった。経済活動が分離され、その活動の動機を独特の経済的動機に帰することのできる一九世紀社会は、類を見ない過去からの決別を意味していたのである。
資本主義批判
われわれは今や、市場経済の制度的本質とそれが社会にもたらすさまざまな危険を、もっと具体的なかたちで考えることができる。われわれはまず、市場メカニズムがいかにして生産活動の現実的な諸要素に対する統制あるいは誘導を可能としているのか、その方法について述べ、次に、市場メカニズムがみずからの動きに従属させている社会に対してどのような影響を与えるのか、その性格の評価を試みよう。商品概念の助けを借りて、市場のメカニズムをさまざまな生産活動の諸要素(elements of industrial life)に関係づけてみよう。商品はここでは、経験的に、市場での販売のために生産された品物と定義される。そしてまた市場も、同様に経験的に、買い手と売り手の実際の接触と定義される。このような定義に応じて、どの生産の要素も、販売のために生産されたとみなされるが、このような場合、そしてこのような場合においてのみ、生産の要素は価格との相互作用を行う需要と供給のメカニズムに従属することになろう。実際にはこのことは、それぞれの生産の要素のために市場がなければならないこと、それらの市場において各要素は需要のグループと供給のグループに分けられること、そして各要素は需要および供給と相互作用を行う価格をもつことを意味する。これらの市場──市場は無数にある──は相互に結びつき、大単一市場(One Big Market)を形成する。決定的に重要な点は、以下のことである。すなわち、労働、土地、貨幣は生産の本源的な要素であって、他の商品と同様にそのための市場が形成されなければならない。実際これらの市場は、経済システムの絶対的に欠くことのできない部分を構成する。しかし、労働、土地、貨幣は、明らかに商品ではない。売買されるものはいかなるものであろうと、販売のために生産されたものでなければならないという公準は、労働、土地、貨幣についてはまったく当てはまらない。換言すれば、商品の経験的な定義からするとこれらは商品ではないのである。労働は、生活そのものの一部であるような人間活動の別名にほかならず、したがってそれは、販売のために生産されたものではなく、まったく違う理由で生み出されたものである。また、その活動を生活の他の部分から切り離したり、蓄積したり、転売したりすることもできない。同様に、土地は自然の別名にほかならず、人間によって生産されたものではない。最後に、実際の貨幣は、単に購買力の表象にほかならず、一般にけっして生産されたものではなく、銀行あるいは国家財政のメカニズムによって存在するようになるものである。これらのいずれもが、販売のために生産されたものではない。労働、土地、貨幣を商品とするのは、まったくの擬制(fiction)なのである。それにもかかわらず、労働、土地、貨幣に関する市場が実際に形成されるのは、この擬制の助けによるものである。これらの三つは、現実に市場で売買されているし、これらに対する需要と供給は現実的な大きさをもっている。そしてこれらの市場の形成を妨げるようないかなる措置や政策も、それだけでシステムが行う自己調整を窮地に追い込むことになるだろう。つまり商品擬制(commodity fiction)は、社会全体に関する決定的に重要な組織原理を提供しつつ、ほとんどすべての社会制度に多種多様なやり方で影響を与えている。その組織原理によれば、商品擬制にかなう市場メカニズムの実際の機能を妨げかねないいかなる仕組みや行動も、存在を許されるべきではないとされるのである。
取引、交易、交換は、市場パターンが存在して初めて有効に機能するような経済行動の原理である。また市場とは、取引あるいは売買のために人々が出会う場所である。この市場というパターンが、少なくとも点在的であれ存在するのでなければ、取引性向が十分に発揮されることはないだろう。すなわち価格が形成されないのである。つまり、互酬が対称的な組織パターンに助けられ、再分配が何らかの集権的な措置によって容易に行われ、あるいは家政が自給自足を基礎として成立しなければならないように、取引原理もまた、それを実効あるものとするためには、市場パターンの存在が必要である。しかしながら、互酬、再分配、あるいは家政が、こうした原理が十分に行き渡っていないような社会において機能することができるように、取引原理もやはり、他の原理が優勢であるような社会において、副次的な役割を果たすことが可能である。
1966『経済と文明』
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主題
西洋経済の運命を決定した諸条件のもとに、〜ほとんど自覚されていない弱点がある。利潤原理を絶対化してしまったがゆえに、人類はそれを再び支配する力を失ってしまった。〈経済〉という語はまさに、人類の物質的生活の計画や、それを確保する実質的技術を意味するのではなく、まとめて私たちが〈経済的〉、と呼びならわしている一連の特別な動機、特殊な態度、特定の目的を意味するのである。それらは実体としては現実の実質的経済とは無縁のものであるのに、近代西洋文明的特色のはかない相互作用によってのみ、あたかも必然的結果のように考えられてきたものなのである。経済の永遠的特徴ではない、この一時的な特徴が、私たちにとって本質的であるかのように映っていただけなのだ。
別のところから引用するなら「いったん生活が利潤動機に基礎を置き、競争的態度によって決定される相互に連関した市場の連鎖によって組織されると、人間の社会はどの点においても、物質利潤的な目的にこびへつらう有機体となってしまった」のであり、下記で言われるようなエピステーメーの核となるのだ。
いったん技術が市場システムを導くと、その制度的配置が経済についての人間の理想と価値観の中心にすわる。自由、正義、平等、合理性、法律の支配といった概念は、市場システムの中でもっとも隆盛を極めたように思われる。自由は自由企業を意味するようになり、正義は私有財産の保護、契約の擁護、市場における価格の自動的決定などの中心となった。個人の財産、財産収入および勤労所得、彼の持つ商品の価格は、まさにあたかも競争的市場において形成されているようにみえた。平等は、協力者として契約に参加するすべての人びとの無制限の権利を意味するようになった。合理性は、効率性と、最高度に発達した市場行為によって概括される。市場はいまや、そのルールが法律と同じような経済制度となり、すべての社会関係を財産と契約の基準の中に組みこんでしまった。近代的交換経済は、その範囲内に間接的であっても物質的諸手段に依拠する社会の全局面を含んでいる市場システムなのである。私たちの社会生活は、あれこれの物質的手段なしにはおくれないのだから、経済(または物の供給過程)を支配する原理が絶対者として考えられるようになってきた。
これが『大転換』における、「社会に埋め込まれた経済」から「経済に埋め込まれた社会」へである。
これらすべての誤謬の源は、交換を経済関係として位置づけたことであった。それはすなわち、物が手に入るところはどこでも〈供給〉という術語が有効であるとか、物が目的への手段として用いられるところではどこでも〈需要〉という市場用語が有効であるといった主張である。人間の世界はつねに市場制度に向かうシステムだと経済学者によって解釈されてきたが、そのことには薄弱な根拠しかない。実際には、交換以外の形態が、前近代世界の経済組織の中で行われていた。原始共同体においては、互酬性が経済の決定的特徴として現われるし、古代経済においては、中央からの再配分が広く行なわれている。
その意味でポランニーは「カール・ビャーヒャーの「近代社会のみが、大部分交換に基礎をおいた統合された国民経済を持っている」という主張を思いおこす」。