さまざまな古代社会あるいは過去一万年を、おおよそのところ一七七六年における『国富論』の出版から始まったわれわれの文明の真の歴史の単なるプレリュードとして見るという習慣は、控えめにいっても時代遅れというほかはない。このような挿話は、今日という時代においてはすでにその役割を終えたのであり、われわれが未来の選択肢を判断しようとするにあたっては、われわれの父祖の性癖に倣うという生来の傾向を抑えなければならないのである