ジャン・スタロビンスキー
1982『自由の創出』
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廃墟の美学
画家はいかに不在・ノスタルジーを表現するか。その手立てとしてスタロビンスキーは「廃墟の美学」を紹介する。
詩をのぞいて、(現前性の芸術たる)視覚芸術に不在を表現する手だてはあるだろうか。画家は哀歌詩人たりうるだろうか。牧歌に、古典的美の無時間的照明ではなく、失われたものの哀切感をあたえることができるだろうか。去にしものの境地を感じさせることは絵画には危なっかしい企てだ...。ひとつ方法が残されている。それは、現存そのものがわれわれに消え去った時代について語りかけるような対象に目をむけることだ。廃墟はまさにそうしたものである。
なぜスタバロンスキーはそれを確信するか。それはジンメルの考える「人間と自然の和解」としての廃墟という美学に依拠するものである。
「廃墟の魅力は、そこにおいて人間の手になる作品がついにはまるで自然の産物のように感じられるという点である。(...)建物を上へと築いたのは人間の意志である一方、その建物に現在の景観を与えているのは、力学上の力、下に向かって牽引し、侵蝕し、崩れさせる自然の力である。しかし、それがそもそも瓦礫の山ではなく廃墟であるかぎりは、この自然の力といえども、作品としての建物を、なんの形式ももたない単なる物質にしてしまうわけではない。そこには、自然の側の立場からすればきわめて意味深い形式、納得のゆく、洗練された一つの新しい形式が生ずる。すなわち、かつて芸術が自然を素材として利用したのとちょうど同じように、今度は自然が芸術作品を、みずからの形式のための材料とするにいたるのである」。「回帰というあの性格は、上昇と下降という二つの世界潜勢力が廃墟において純粋に自然な現存在の一つの静止した像をつくり出しているという雰囲気、他の雰囲気とともに廃墟に漂っている不安な雰囲気に照応するものにほかならない。この平安を表しつつ、廃墟は、そこに草木が育ち瓦礫が積もってゆくにつれて、統一を保ちながら周囲の光景に順応してゆく」。
こうして、この無意志的な活動においては、かつての芸術の垂直をめざく努力が、落下と惰性という自然力によって解体される。ひとつの均衡がなりたち、そこにおいては人間の努力の跡が解体して野性が失地回復する瞬間に、自然と文化の対立する勢力が人間の歩みの背後で和解する。ひとつの時代の偉大さの証しである物質的な形態は、永劫不変の混沌に完全に屈したわけではない。偉大な企ての痕跡は生きながらえている。だがもっとも確実に生きのびたもの、それは苔や生いしげる茨によってそれと知られるものだ。人間の意図であったものが消滅したところでの延命、忘却という延命。廃墟の詩学とはつねに忘却の侵攻をまえにした夢想である...。(...)廃墟の詩情とは、不在に沈んでいながらも部分的に生きながらえているもののもつ詩情である。
そこで廃墟絵画の代表的人物を並べ、その歴史的変遷を概略する。第一に廃墟を「要素」として活用したマニャスコである。
https://scrapbox.io/files/66a9dd0079c8ee001d41adc3.jpg《廃墟の兵士と浮浪者たち》
かつては-ここに収めたマニャスコの画布があかすように-廃墟は舞台装置の一要素にすぎなかった。廃墟はタブローの空間的奥行きに時間的奥行きをくわえるものだった。現在の瞬間が、執拗に存続するごつごつした過去に支えられるのだった。
ただそうした技法としての「廃墟」は次第に姿を消し、イシューとなる。そこでスタロビンスキーが第一に挙げるはパッニーニである。彼の場合、上記で論じたような「不在」性ではなく、「記録」の面が全面化する。
https://scrapbox.io/files/66aafbcbefc537001ce3d6cb.jpeg《廃墟》
いまや廃墟が前面に出て、第一主題となる。廃墟はそれ自体の理由で、すなわち廃墟を魂も意志もそなえた主人公と化す抵抗力としぶとさのゆえに凝視されるのである。なるほどパッニーニなどでは記録としての側面が勝っている。奇蹟的な建築の高度な達成を、誇りもまじえて回想するのが目的である。注文主を満足させるためにカンバスにはあちこちに散在する名跡が積み重ねられる。さながら美術館のおもむきがそこから生じる。
他方、パッニーニ以外の廃墟画家は先ほど論じたような不在へのノスタルジーを感じさせる絵画となっているとロベールの絵画とディドロのテクスト援用しながら論ずる。
https://scrapbox.io/files/66aafc315bf5f3001db01e20.jpeg《ローマ寺院の廃墟》
ほかの画家たちにとっては、夢想への傾きが抗いがたく存在する。記憶のかなたの時代の穹窿の下を往き来する現在の人物たちは夢を生きているようにみえる。ディドロに言葉を継いでもらおう。「廃墟が私のなかに目覚めさせる観念は雄大である。すべてが無に帰し、すべてが滅び、すべてが過ぎ去る。世界だけが残る。時間だけが続く。この世界はなんと古いことか。私は二つの永遠のあいだを歩んでいるのだ。どこに目をやっても、私を取り囲む事物は終焉を予告し、私を持っている終焉を諦観させる。年月の重みで陥没したこの岩、深く穿たれたこの谷、いまにもうち倒れんばかりのこの森、私の頭上に覆いかぶさって揺れているこの塊といった存在に比べれば、私のつかのまの生存とはいったいなんだろう。私は墓の大理石が崩れおちて塵と化すのを見る。それでも私は死にたくない!(...)濁流がいくつもの民族をつぎつぎと同じ深淵の底に引きずりこむ。この私、私だけはふちに踏みとどまって、両わきを流れる波濤を真っ二つに裂いてやりたいのだ!
1989『病のうちなる治療薬』
両義的生
子供時代のことを語りながらルソーは、自分には生まれつきの病があったと打ち明けている。「生まれたときから私はひ弱で、病にかかっていた。母は私を生んだために亡くなった。生まれたこと、それが私の最初の不幸であった」。そしてこの痛手から(あるいは、痛手があると思い込みそれを語ることから、と言ってもよいが)癒されよう、救われようとして、彼はあらゆる手段を試みることになるのだが、しかし自分の誕生そのものを原因とする病なのだから、生きているあいだはどこまでも癒される保証はない。
誕生そのものを起源とする病とは「その出だしでいきなり自分の生を、最初の病の支配下に置いてしまう」のであり、その病は「生を根本から規定しつづけることになる」のだ。ゆえにルソーの生には病とその治療の両義的性格が、終幕まで纏うことが運命づけられた。
『告白』の語りにおいて、原初の病というテーマは、治療(広義の)というテーマとほとんど分かち難く結びあっている。病と、それに戦いを挑む治療との、共犯関係。救いをさしのべられたおかげで、ルソーは生きのびることができた。だがそれゆえに、病もまた存在しつづけることになった。自分の生を物語ながらルソーは、ためらうことなく反対物を結びつけ、重ね合わせている。シュゾンおばさんの看護が彼を救ったけれど、それとともんに原初の病もいや増したのだ。死の淵までいったジャン=ジャックは奇跡的に生き延びたが、それとともに病も重くなったのだ。こうして、驚きと憐みとが同時に呼び覚まされることになる。「私はほとんど死産に近かった。生き延びるなどと、ほとんどだれも思わなかった。私は病の芽をもって生まれ、それが年とともに大きくなっていまでは時折しか私を解放してくれず、しかもそのあとにはさらに大きな苦しみが別の形で襲ってくる。父方の叔母で優しく思慮深い女性が、私をよく世話して、命を救ってくれたのだ。」生まれてすぐに救われたことと、生得の病がいや増したことを、ルソーは同時に語りたい。病と治療あるいは治療の試みとが同時に存在していることを、見てとってほしいのだ。
これはルソーの著作群を貫いて通奏低音として響き渡る。例えば『エミール』の題辞として、ルソーは次のセネカの句を引いている。「私達は治療可能な[sanabilis]病で苦しんでいる。もし自らを正そうと[emendari]と望むならば、自然〔本性〕そのものが正しい誕生へと私達を支える。」また、カッシーラーがルソーの特権化する社会的当為に対して「今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである」というとき、社会の治療がアナロジーとして立ち現れている。よってスタバロンスキーは『学問芸術論』から系統的に「治療」というルソーのコアイメージを見ていく。
文明の病
ルソーの出版界へのデビュー作ともいえる『学問芸術論』は、「有害な知識」と「空虚な学問」の発展に伴って文明社会に広がっていった病―毒―に対する、告発の書である。彼は行論のあいだじゅう、この病の進行は後戻り不可能だとわれわれに信じ込ませておく。だがそれは、結論をより印象づけるためであって、つまりルソーは最後になって、治療の原則はほかならぬこの病そのものから、引き出すことができると指摘するのである。(...)彼は言う、「しかし私は、病が最悪の段階にまで至っていないことを、認めます。永遠の予言者は、毒性の植物のかたわらに有益な薬草をおいたり、凶暴な動物のからだの組織のなかに傷の治療薬を忍ばせたりすることによって、おのれの僕たる地上の王者におのれの智恵を真似るように教えたのです。」
この考え方の射程は大きい。治療薬は毒性植物にとなりあわせて(〈別な所ではあるが近くに〉)ありうるのだし、さらには、危険な動物の内部(〈組織の内部〉)にさえありうる。第一の例では、病が解毒剤をおのれのかたわらへとひきつけて attirer おり、第二の例においては解毒剤は、病のごく近くにある。そのほかに、治療薬を病そのものから〈引き出す tirer〉ことのできる治療者がいなければならぬわけだが、ここではそれはルイ14世だ。ルソーも明言しているように、まさに神に倣って、「無数の混乱の源たる学問と芸術のただなかから、この偉大な君主は(...)これら有名な学会をつくりだし tirer 、それに人間の知識という危険な預かりものと良俗という聖なる預かりものとの両方を、委ねた」のである。(...)つまり治療とは、知識という曖昧な特権を少数の人間に委ねることであって、彼らは知識を保存し、増加させさえし、しかもその普及を制限するのである。これはまさに、閉じた共同体というルソーの理想そのものだ。ルソーの理想は時として都市国家の広がりを持ちうるが、また、幾人かの高邁な人物だけからなる小さく限られた「エリートの社会」としてもありうるのだから。
こうして現代では到底受け入れ難いエリート社会論を謳う訳だが、彼によるとエリートに限定する是非は次に存在するという。「ルソーが理想化する諸アカデミーの構成員たちは(...)彼の告発した「いかさま師たち」の「虚しい学問」とは根本から違うのである。「虚しい学問」は幻想であり虚栄であり見かけの知識でしかなく、しかも、実在と仮象との分離を疫病のように広めてゆく。だがアカデミー構成員たちの真の知識は、そのような存在論的裂傷を、少なくとも彼らの間では癒し去り、疎外を克服して、外見と内的現実との一致を回復させるのである」。
『学問芸術論』後の長い論争のあいだじゅう、ルソーは治療薬の隠喩を用いつづける。それも、ヴァリエーションを試すかのように、あらゆる可能なかたちをとって。ある論考では「もう治療薬は望めない」と言うが、それですべてを終わらせるわけではなく、答えは他の人々にあずけられる。「私は病の存在に気づき、その原因を見いだそうとした。私より大胆な、あるいは無分別な人たちが、治療薬を探すことができるだろう。」