うちあわせCast第六十七回感想
『メタファー思考』について
ちょっと読み始めている
なぜ影が薄いのか?
メタファーを使うということは日常的に行われているけど、メタファーが認識の核にあるという意識を持つ人は相当に少数だと思う
そうでない人が多数いる上に、そうである人がそうだと自覚をしない
GTDについて
文章執筆には全然使えないのはそうだなと思う
使おうと思ったことがなかったかもしれない
小説を書く趣味があるが、情報をどうするかはずっと課題ではある
(GTDは書くことに於いて端から縁を感じなかったので適用しようと思っていなかった)
書く以外のことでは大いに参考になった
なったが、GTDに従ったことはないかも
せいぜい「今回のこのプロジェクトはGTD的に処理していこう~」みたいな感じ
自分の生活全体をGTDで支えてもらおうとは思わなかったんだな
どのツールでも書くにあたって何らかのうまくいかなさがある
それについて、私は例によってツール側の機能不足というより「私が諸ツールをうまく使えない」という「ド下手問題」として捉えていた アウトラインについて
そもそも、脳内にアウトライン的な構造ができていて、それをツールが実現してくれると思うから使えるということになるのでは
頭の中にアウトライン的な構造がない人がほとんどだろうなという感想
論理というものが存在していない
というか、論理というものを「AだからB」のことだと思っている人が多い
合っていようがいまいが根拠的な何かを提示できればいいし、それが論理だと思い込んでいる
デジタルがどうこう以前の問題
論理の話を安易に「数学的思考」って言いがちだが、数学的っていうか国語的じゃないのかなあと常々思っている
しかしながらいわゆる「文系」の人間が論理を扱えていることが少な~い
「こう書けばいい」と「実際に書く」ことの違い
実際に文章に伴う「文脈」はその場に立たないと感じ取れない
AからBに来た時に、A前提のBというものの文脈
余計な助詞・接続詞によってベクトルが変わっている問題、小説でめちゃくちゃ実感している
続きが書けないというとき、続きが思い浮かばないことが気になることが多いが
実際は、続きを書く意味がない方向に一歩を踏み出してしまっている、つまり「書き過ぎている」ことによって生じることがある
この場合は内容ではなく文脈のコントロールの失敗
事前にアウトライン(小説で言うとプロット)を用意しすぎることは結果的に邪魔になることがある
事前にプロットを用意するということについて本気で8年ほど考え続けていたのだが、正直無駄な努力だった
自分は生物だから無理、くらいの無理さの無理
有機的な存在である私が、有機的な内容(特に小説なので)を、実は有機的である文章というものによって表現していく、という工程を「事前に決める」というのは到底無理やねん
やれることは、「ここを通りさえすれば良い」という、地図上に画鋲を刺すところまで
どう通るかとか、道全部に線を引いておくとか、そういうのは無理
8年考えたので「これは無駄だ」ということが分かったのは大事な収穫ではある
あと小説では伏線を使う必要がある
伏線は事前には絶対にその全てを管理できない
普通の描写として書いたことを、「これを後から伏線として使おう」ということが生じる
それがないととてもひとつの話として成り立たせられない
ショートショートならともかく
何を伏線としたかを管理しなければいけないが、書きながら整理していくことになる
経験上5万字くらいまでなら頭の中でやれるが…
(あくまで小説での5万字)
ただ執筆期間が如何に短くまとめられるかの問題でもある
期間が長くかかる時はセーブポイントとして書き留める必要がある
一度作ったアウトラインを変えちゃいけない気がする問題
あー、そうなのかも?
個人的には「小説のプロット」という形から入ったからその縛りはあんまりなかったかも
でも「アウトライン」ではなく「フォーマット」となると私も継続性の縛りを強く感じる
作り変える過程が公開されることが少ないというのはある
作り変えたくないというか、作り変えるという発想が生まれないこともある
どう作り変えたらいいかわからない
下位項目が存在していると上位項目を変えるということができると思わない感じか
アウトライナーは折り畳めるがゆえに巨大さ・複雑さを覆い隠してしまう問題
確かに
どこに何があるかわからなくなることもある
アウトライナーならばいつか複雑さを感じないようなスッキリとした形に整えられるのだという希望は抱いていた
多分そんなことはないんですよね
効率によって楽しくなくなる問題
例えば料理研究家でありたいのに徹底的に事前に書いたレシピに従うことを自分に強いたとしたら明らかに駄目そう
楽しくないし出来も良くないだろう