うちあわせCast第七十二回感想
(第六十九回~第七十一回はまだ聴けてない)
※ノートも兼ねており、感想部分にアイコンをつけている
ライフハックニュース
nora.iconEvernote、久しく使っていないなあ
2010年から2013年くらいまでしか使ってない
その間は一生懸命使ってたんだけど
当時は自分の情報管理スキルが未熟すぎて、自分に振り回された結果Evernoteの中身が「あまり見たくないもの」になってしまったというのも大きい
Evernoteの哲学は自分の中に生きている、というのは確かなんですが
粒度を揃えたくなる現象
概要・総論
汎用ツールをうまく使いこなせない背景にこの問題がある
アウトライナーを使うときに生じがち
問題は「固定」
粒度を揃えるということ自体が誤りではない
粒度を固定しなければならない段階は来る
「ちゃんとした」「きちんとした」が最大の敵
アウトライナーは最終的にちゃんとするための助け
「最初から」と考えるからうまくいかなくなりがち
nora.iconちゃんとしたものしか目に入らないから仕方ないところもある…
人に見せるものとして存在している本や文章はちゃんとしている
個人的には、手帳の使い方の実例とかがたくさん特集されたことによって「それぞれでいいんだ」という感覚を得た
ほぼ日手帳とかモレスキンとか
日経ビジネスアソシエの手帳特集とか
バレットジャーナルの作例とか
うまくいかないと自尊心を傷つけることになる恐れ
「自分のシステム」を作っていかないといけない
nora.icon知識が邪魔しているということなんだよなあ
回り道の危険はあるけど、自分は「調べない」ということで解決を図った
(明らかに読んでいるべきだが読んでいない、という本がある)
(そのことについてはそのうち書くつもりでいる)
仕事術と手帳術はマジですんごい調べてたんだけど、そのことがもたらした自己不在は結構深刻
規範性だけだろうかという話
バラつきを揃えたくなる問題
nora.icon美意識の問題?
気にするかしないかは学習によるものだけではないと思われる
根っからきっちりすることに快を覚える体質っていうか
それが人類共通なのか個々人に差があるかということはあるが
人類共通の部分はある程度土台にあるが、個々人の差もかなりありそうと思っている(憶測)
なのでそもそもこの回で話されていたようなことの意味が実感としてわからないという人もそれなりにいそう
思考をこねるに際して
粒度を揃えねばという意識が働いていることを自覚すらしない
nora.icon自分は無自覚というよりは、粒度を揃えなければならないと積極的に思ってやっている感じがする
粒度を揃えることにかなり苦労してわざわざやっていた
揃った粒度を設定することがそんなに得意でないというか
執筆に際して
アウトラインを先に用意してもその通りに書けない問題
「それっぽさ」で章とかを先に用意したくなる
出来上がった文章の目次をイメージしてしまうのが原因のひとつ
nora.icon自分の場合は「先に章っぽいものを用意してしまう」はあんまり経験したことないかも
単に本の執筆というものをやってないからかもしれないが…
趣味として連載風の記事執筆を三十数本やったりしたけど先にアウトラインを作ろうとはしなかった
あと小説は断片としてのネタのボトムアップで構成している
が、心理描写先行で「こういうふうに登場人物の心情が変化していって欲しい」とか考えると、「エモいに違いない骨格」は出来上がるものの実際にストーリーが作れないので、それは「先に章っぽいものを用意してしまう」と似た現象ではあるかもしれない
タスク管理に際して
プロジェクト>タスク>メモ、という見出しを作ってしまう
プロジェクトとタスク以外のものが書けなくなる
誰かのフレームワークを拝借してしまっている
nora.iconわかる~
自分はここ数ヵ月で「日記・日誌・タスク管理の融合@アウトライナー」みたいなことをやることで解決できた
Scrapboxはトップダウン方式での管理は非現実的
nora.icon自分も非公開プロジェクト(2000page超)ではトップダウンにはしてない
考え方の転換は確かに感じる
nora.iconが、のらてつ研究所は読者を想定した半ブログとして置いているのでトップダウン要素を残している
あとまだ「自分の傾向とは結局何か」を探る必要があるステージにいるので定期的に全部眺めるみたいなことをする必要を感じている
ScrapboxだけどScrapboxとして使っていないという感じかも
非公開プロジェクトはScrapboxとして使っている
Youtubeとかは一期一会的だよねについて
nora.icon「リストを作りたい人」は環境によって作られるものなんだろうか
「リスト作り」が流行るというのはあったのかも
別にリストを作らずにいられないわけではないけど流行によって「イケてる」感じがしたのでリスト作り的なことをしていたという状態が過去にあった可能性
一期一会的な人はずっと同じような規模で存在しているような気も
今は一期一会的な人がめちゃめちゃ元気には見える
一期一会的に情報を摂取したりシェアしたりする形態が可視化されて活性化しているので
実態がわからないのでなんとも言えないな
インデントの向きの話
nora.icon日本語と中国語、文字がブロックになっていることで縦書きでも横書きでも普通に使えるの便利だな
高校生の国語のノートは縦書きでインデントを駆使して綺麗に作っていたりする
nora.iconあんまり想像で語れない領域の話だなと思いました
DoMA式の粒度
nora.icon「自分を含む誰が見ても分かるための段階づけ(≒粒度)」と「自分の意識のベクトルのサイズと本数」は別の尺度か
粒度は粒度としてあるが、粒度によってアウトラインを作るのがまずい
「粒度を揃えたい」というか、「横位置として同じ位置に同じ粒度があってほしい」?
アウトライナーでのインデントが必ず一段階であることによって生じる面もあるかも
例えばこういうふうに急に何段階もインデントすることができないということ
(アウトライナーでこうできるようになればいいという話では全く無い)
DoMA式の採用はその「横位置の不揃い」を気にしないことを自分に許す
「アウトライン」の意味
ゆえに(今回の話とは関係ないけど)「どう使ったらいいか」という問いが生じるのはそもそもやや不自然な感がある
このツールは何をできて、自分は何をしたくて、自分はどういう癖があって、このツールに対して自分の癖はどう働いて、ということを整理することが必要
「どう使うか」はツールの仕様と自分の癖・意志の掛け合わせによって決まっていく
nora.iconにとっての「粒度を揃えたくなる問題」まとめ直し
気持ち
めちゃわかる
揃っていないといけないような気がしていた
よって、頑張ってでも粒度を揃えんとしていた
どういう時に現れていたか
自分の中で物事を咀嚼しようとしたとき
タスクの洗い出しとか
ライフログをつけるときとか
調べ物の整理とか
アイデアを豆論文にしようとしたときとか
アウトプットの時にはそんなでもなかった
最終的に粒度を揃える必要があるようなアウトプットをしていなかったため
(ただし、「粒度を揃える」ではなく「うまくいくであろうフォーマットを予め用意しようとする」という観点では失敗を度々繰り返している)
原因
目に入ったものがどれもこれも「ちゃんとしてる」ため
教科書からしてそう(当たり前だけど)
つまり学習の結果「ちゃんとしたほうがいい」と思った
「ちゃんとしなさい」と指導されることも当然あった
(ちゃんとしなさいと言っていた人々が本当にちゃんとしていたかというと甚だ怪しいが…)
そもそも美意識がそうなっている
ホモ・サピエンスだからそうなのかもしれないし
個性としてそういう意識がやや強い気もする
(のらてつ研究所の見た目を見ていただければご想像いただけるのではなかろうか)
現状
「ちゃんとしないといけない」という呪いは軽減
自由な手帳の例をたくさん見ることによって
実際問題「ちゃんとしよう」としてできなくて鬱になった経験も働いて
「粒度を揃えたくなる」という呪いも最近薄れているかも
自分のテリトリー内のことは何事も自分自身を基準にする、という感覚を掴んだ
鬱から抜けるための自省の過程で
情報管理の点ではDoMAを知って以降開き直った
参考にできるものを知るとそれに強く引っ張られるという自分の体質を自覚したことにより、必殺「あれこれ調べない」を発動してまず自分を知り自分の世界を作ることに注力するようになった