▽フォーマットの維持に必要な文脈保持コスト
「フォーマット」、自分で「こうしたら良さそう!」と思って作る割に一週間くらいするともう従う気にならなくなる。
結局のところ、全ての方向に慣性は働いてしまい、慣性が働き続けることへの嫌悪が無意識下に生まれ、「揺り戻し」的な現象が自分の中に常に生まれてしまうんだと思う。何度フォーマットが嫌になっても、フォーマットを作らないでいるとその慣性に耐えられなくなる時がまた来る。
混沌と秩序は常にどちらかに進もうとしていて、綱引きが静止していることはまずない。綱の動く幅がなるべく狭い範囲に収まるように、ある種お祭り的に「フォーマット作ってみるべ〜!」「フォーマットとか全部やめてみるべ〜!」の行き来をすることを人生に織り込んでおくのが私には正解っぽい。
何かを始めるということをすると、それがなるべく長く続くことが「善」であるかのような感じがする。でも自分の心に限ってはそういう法はないっぽいので、最初から動くものとして考える。「この範囲で動こう」ということだけはよく考えて設定する必要はありそう。
(一般的に取り扱える範囲の)すべてのものは振動していて、私も振動し続ける。
あとフォーマットというものは、それを作った文脈が月日とともに褪せていくことを想定していないから失敗しがち。作ったときは「このフォーマット完璧!」と思うけど、その活用には適切な文脈が必要であることを忘れていて、数ヶ月後に読み返したときにフォーマットが致命的に邪魔になることがある。
本当に致命的に邪魔。(今古いフォーマットに沿ったファイルを見つけて読み返し、文脈の断絶の不快感にうんざりしている)
その時の気分によってその内容に沿ってホイホイホイと作られた構成は、内容を見ればその構成の必然性(=文脈)が感じ取れるからストレスにならないけど、「思索はこのフォーマットでやろう!」とか思って拵えたものはその思索の内容からはそのフォーマットの必然性が感じ取れず、ただただ邪魔。
なんと愚かな!過去の私!愚か!
客観的な情報ならともかく、徹頭徹尾主観で書くメモに嵌め込まれた「古いフォーマット」は、そのメモの再活用可能性を著しく損なう事態を生んでいる。Atomicなノートにフォーマットは要らぬ。