評価熟達知
「測りすぎの時代の学習評価論(松下, 2025)」より(pp.31-32)
「フィードバックとは、あるシステムパラメーターの実際のレベルと参照レベルとの間のギャップに関する情報であり、そのギャップを何らかの方法で変化させるために用いられる」
「サドラーにとっての問いは、教師が学生の学習の質について妥当で信頼できる判断をフィードバックしても、必ずしも学習の改善につながらないのはなぜか、いいかえれば、教師のフィードバックが学生の自己モニタリングにつながらないのはなぜか、にあった。上の定義に従えば、参照レベル(目標)の設定、実際のレベル(現状)の把握、両者のギャップを埋める方法の実行のどこかがうまくいっていないことになる。」
「この問題を乗り越えるには、たとえばライティングであれば、学生自身が、質の高い作品とはどのようなものかを理解すること、より高い水準の作品と自分の作品の質を比較できること、さらに、自分の作品を修正するための方略や手段を身につけることが必要となる。この一連のプロセスを行う能力を、サドラーは「評価熟達知(evaluative expertise)」と呼ぶ。そして評価熟達知は、学生に「直接的な本物の評価経験(direct authentic evaluative experience)」を提供することによって開発することができる、と主張する。」
(中略)
しかしながら、評価熟達知の多くはマイケル・ポランニー(Michael Polanyi)のいう「暗黙知」(ポランニー,2003)であり、すでに鑑識眼をもつ人の指導の下で、その人とともに評価活動に長く携わることによる帰納的なプロセスを通じてのみ培われる。それがサドラーのいう「直接的な本物の評価経験」である。具体的には、ライティング作品について、教師と学生がともに批評しあいながら作品を改善していく活動が挙げられている。
これは、深い理解と評価能力やノリツッコミと比喩と「深い理解」、身につく力・身についた力の可視化と(自己)評価能力などで書いたことにも近い気がした。
まさにこの「直接的な本物の評価経験」を通じて「評価する力」が身につく。自己モニタリングを成立させるための、他者からのフィードバックも、自分による自己評価も、それを活かすためには、このように評価する力を育てていくしかない。
授業もこれを意識して学習活動をデザインしないといけないな。上の引用部分のあとには、「それだけの時間と労力をかけられる領域はそれほど多くない」ことや「制作知と評価知はイコールではない」ことなどから全面的には賛同できないとあるが、個人的には大いにヒントになる考え方だなと思った。
#雑記
2025/10/3