無意識 (Ubw)
Unbewusste
es、id、それ
ne-sachirou.iconが「無意識」と云ふ語を言ふ時は必ず Sigmund Freud (精神分析) の言った意味での無意識 (Ubw) です 自我は、不可能な「全體的で、統一された、明晰な、本當の把握」を、缺如を覆って可能である樣に見せ掛ける 自我は代理 (執行者。agent) である
「本當の」を捨てて「全體的で、統一された、明晰な把握」を單に可能にするのが症狀である 理想自我$ i(a)、自我理想$ I(A)、超自我$ S(\cancel A)は自我の失敗 (夢 (願望の充足)) である 願望、顏貌性???
自我の失敗は自らが自我 = 主體だと主張する
自我は主體でないし主體は自我でないが、自我の失敗は自我 = 主體を主張する
自我の失敗 (夢 (願望の充足))
「超自我$ S(\cancel A)= 主體」と主張する 0 原理
死の欲動
經濟論的無意識 : 對抗備給
局所論的無意識 : 知覺 (W) / 意識 (Bw) / 前意識 (Vbw) / 無意識 (Ubw)。物表象 / 語表象。表象 (代理。備給) の移動、書き込み 性
部分恒常性
力動論的無意識 : 葛藤es / 超自我 / 自我。抑壓 / 否認 / 排除 許し (攻撃 - 謝罪) / 救ひ (脆弱)
「本當」は空記號
卽
自我
對抗備給
界
イラクへの攻撃の三つの「眞の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米國のヘゲモニーの主張、③石油といふ經濟的利益)は、パララックスとして扱はねばならない。どれか一つが他の二つの眞理ではない。「眞理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自體である。それらはISR(想像界・象徴界・現實界)のボロメオの環のやうに互ひに關係してゐる。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現實界である。 (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004) 資本主義社會では、主觀的暴力 subjective violence(犯罪、テロ、市民による暴動、國家閒の紛爭、など)以外にも、主觀的な暴力のゼロ度である「正常」狀態を支へる「客觀的暴力 Objective violence」(システム的暴力 " systemic" violence)がある。(……)暴力と闘ひ、寛容をうながすわれわれの努力自體が、暴力によって支へられてゐる。(ジジェク『暴力』2008年)
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…R>I>S>R…
ーー∅、Φ、φ とは、ニーチェのいう「揮發 verflüchtigen 」記號である。フロイトはそれを去勢と呼んだ(cf. 四種類の去勢)。 姿を消す。隱れる。遷化 (遷移化滅)。入滅。ガイバ
固有名。《私》
←→痕跡
渾沌。道
現實界的去勢としての「母の乳房の喪失」「糞便の喪失」 基本的にはどの記號にも空集合がある、というのは集合論の基本である。ラカンは∅をときに(a)とした。
空集合$ \xleftrightarrow{S_1}\Phi\xleftrightarrow{S_2}\varnothing\xleftrightarrow{\cancel S}\varphi\xleftrightarrow{S_1} 全體集合の補集合
空集合の公理$ \exist\varnothing\forall x(x\notin\varnothing) 言ひ表し$ \xleftrightarrow{S_1}\Phi\xleftrightarrow{S_2}a\xleftrightarrow{\cancel S}S(\cancel A)\xleftrightarrow{S_1}
$ \cancel S \to S_1 \to S_2 \to a, 統一$ \varnothing$ a$ \leftrightarrow囘歸$ S_1 $ S_1 \to S_2 \to \cancel S \to S(\cancel A), 明晰$ \varphi$ S(\cancel A)$ \leftrightarrow無限列$ S_2 $ S_2 \to \cancel S \to S_1 \to \Phi, 全體$ \Phi$ \leftrightarrow昇華 (catharsis)$ \cancel S M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自體の再生產過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生產とは獨立して己の價値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、產業資本と異なり、蓄積は、勞働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は閒接的に、より下位レベルの產業資本から剩餘價値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が氣づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私譯) ラカン)Verneinung は、 セミネールの前に、イポリット氏が私に耳打ちしたように、dénégation(二重否定、前言を翻す行爲)であって、飜譯のやうに négation(否定)ではない。(…)
イポリット)(否定行爲にも打ち勝ち、 抑壓されたものの知的承認に成功しながら)―抑壓過程そのものはこれによって解除されない。
これは私にはきわめて深いものと思われます。被分析者は受け入れ、取り消し dénégationても、抑壓はまだある!
私の結論は、ここで生み出されるものに、ある哲學的名稱を與へなければならないことです。この名をフロイトは述べてはいません。それは「否定の否定 la négation de la négation」(Negation der Negation)です。文字通り、ここで現れるもの、それは知的肯定です。しかし知的であるだけです。というのは否定の否定ですから。こうした用語はフロイトにはありません。しかしこう述べても私はフロイトの思考の延長線にあると思います。これが私が言いたいことです。(ラカン、S1、10 Février 1954)