無意識 (Ubw)
Unbewusste
ne-sachirou.iconが「無意識」と云ふ語を言ふ時は必ず Sigmund Freud (精神分析) の言った意味での無意識 (Ubw) です 「本當の」を捨てて「全體的で、統一された、明晰な把握」を單に可能にする (暴) のが症狀である 願望、顏貌性???
「超自我$ S(\cancel A)= 主體」と主張する 母への固着 (Mutterfixierung)
零原理
經濟論的無意識 : 對抗備給
外界の代理
父の代理 (Vaterarsatz)
性
部分恒常性
許し (攻擊 - 謝罪) / 救ひ (脆弱)
「本當」は空記號
卽
對抗備給
界
資本主義社會では、主觀的暴力 subjective violence(犯罪、テロ、市民による暴動、國家閒の紛爭、など)以外にも、主觀的な暴力のゼロ度である「正常」狀態を支へる「客觀的暴力 Objective violence」(システム的暴力 " systemic" violence)がある。(……)暴力と闘ひ、寬容をうながすわれわれの努力自體が、暴力によって支へられてゐる。(ジジェク『暴力』2008年)
https://gyazo.com/4ca957759b0f7b5b71a79060a803464d
…R>I>S>R…
ーー∅、Φ、φ とは、ニーチェのいう「揮發 verflüchtigen 」記號である。フロイトはそれを去勢と呼んだ(cf. 四種類の去勢)。 言語の使用者は、人閒に対するモノの關係 Relationen der Dinge を示してゐるだけであり、その關係を表現するのにきはめて大膽な隱喩 Metaphern を援用してゐる。すなはち、一つの神經刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bild に移される! これが第一の隱喩。そのイメージが再び音 Laut において模造される! これが第二の隱喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の眞只中への、各領域の完全な飛び越しが行はれる。
人閒と動物を分け隔てるすべては、生々しい隱喩 anschaulichen Metaphern を槪念的枠組み Schema のなかに揮發 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を槪念 Begriff へと溶解するのである。この槪念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道德外の意味における眞理と虛について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873 年)
人閒を動物から區別する所以は、動物の槪念から人閒の槪念に至る迄のどこに形而上を差し挾むかと云ふ任意に過ぎない
人閒と機械の區別も同じ
姿を消す。隱れる。遷化 (遷移化滅)。入滅。ガイバ
固有名。《私》
←→痕跡
渾沌。道
一切を說明する記號は揮發記號
私
世界觀
現實界的去勢としての「母の乳房の喪失」「糞便の喪失」 基本的にはどの記號にも空集合がある、というのは集合論の基本である。ラカンは∅をときに(a)とした。
空集合$ \xleftrightarrow{S_1}\Phi\xleftrightarrow{S_2}\varnothing\xleftrightarrow{\cancel S}\varphi\xleftrightarrow{S_1} 語り$ \xleftrightarrow{S_1}\Phi\xleftrightarrow{S_2}a\xleftrightarrow{\cancel S}S(\cancel A)\xleftrightarrow{S_1}
$ \cancel S \to S_1 \to S_2 \to a, 統一$ \varnothing$ a$ \leftrightarrow囘歸$ S_1 $ S_1 \to S_2 \to \cancel S \to S(\cancel A), 明晰$ \varphi$ S(\cancel A)$ \leftrightarrow無限列$ S_2 $ S_2 \to \cancel S \to S_1 \to \Phi, 全體$ \Phi$ \leftrightarrow昇華 (catharsis)$ \cancel S system 暴力
近年、地域社會における權力に關する事例硏究が數多く發表されてゐるにもかかはらず、權力といふ槪念は依然として捉へどころのないものです。社會學者と政治學者の閒で、地域社會における權力の所在について意見が鋭く對立する事實は、この槪念の曖昧さを如實に物語ってゐます。社會學を專門とする硏究者たちは一貫して、權力は極めて集中的に行使されるとの結論を導いてきました。一方、政治學を修めた硏究者たちも同樣に、彼らの硏究對象とする地域社會においては權力が廣く分散してゐるとの見解を示してゐます。おそらくこれが、後者のグループが「多元主義者」を自稱し、前者が「エリート主義者」と稱される理由でせう。
兩グループの硏究結果がこれほどまでに鋭く對立してゐるのは單なる偶然ではなく、根本的な前提條件と硏究手法における相違に起因してゐることは疑ひやうがありません。政治學者たちは、これらの硏究結果の相違は社會學者たちの方法論的缺陷と前提條件の誤りによって說明可能であると主張してゐます。本論文では、多元主義者たちもこの問題の本質を完全には把握してゐないと論じます。彼らのエリート主義者たちに對する批判は妥當であるものの、彼らもまたエリート主義者たちと同樣に、結論を豫め決定してしまふやうな方法論と前提條件を採用してゐるのです。私たちの主張は、權力には二つの側面が存在し、社會學者たちはその一方しか認識してをらず、政治學者たちはその一方しか認識してゐないといふ、本論文の中核的な命題に基づいて展開されます。
權力論は、議論の出發點である權力現象の槪念化の時點で既に問題を抱へてゐる。本稿では、ステイープン・ルークスとニクラス・ルーマンの權力論の構造を抽出することを通じて、權力現象の槪念化問題の構造を明確にする。次に、兩者の權力論が同一の問題に陷りながらもその陷る方向を異にしてゐることを示し、その相違をもたらした原因を彼らの知的背景の中に探り、假說を提示する。
M-M' (G─G′) において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自體の再生產過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生產とは獨立して己の價値を設定する資本あるいは商品の力能がある、⸺《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation》である。株式資本あるいは金融資本の場合、產業資本と異なり、蓄積は、勞働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は閒接的に、より下位レベルの產業資本から剩餘價値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が氣づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こってゐることである。(柄谷行人、"Capital as Spirit" by Kojin Karatani、2016、私譯) ラカン)否定 (Verneinung) は、 セミネールの前に、イポリット氏が私に耳打ちしたやうに、dénégation (二重否定、前言を飜す行爲) であって、飜譯のやうに négation (否定) ではない。(…) これは私にはきはめて深いものと思はれます。被分析者は受け入れ、取り消し dénégationても、抑壓 (Verdrängung)はまだある! 私の結論は、ここで生み出されるものに、ある哲學的名稱を與へなければならないことです。この名をフロイトは述べてはゐません。それは「否定の否定 la négation de la négation」(Negation der Negation) です。文字通り、ここで現れるもの、それは知的肯定です。しかし知的であるだけです。といふのは否定の否定ですから。かうした用語はフロイトにはありません。しかしかう述べても私はフロイトの思考の延長線にあると思ひます。これが私が言ひたいことです。(ラカン、S1、10 Février 1954)