鄧小平
https://gyazo.com/45b431e329f4fd1cd0c4d18a7db7bcdb
不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫
https://ja.wikipedia.org/wiki/鄧小平
1904 生誕
1926 東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ
1927 帰国。ゲリラ活動に従事
1952 毛沢東によって政務院(のちの国務院)副総理に任命される
1957 反右派闘争(1957)の指揮をとる
大躍進政策失敗後、毛沢東と対立
1966 文化大革命で批判され、劉少奇と共に失脚
1968 全役職を追われる
毛沢東.icon「こいつはまだ使えそうだな」
(劉少奇は殺された)
1973 周恩来の工作によって国務院副総理の職務に復活
1976
1月の周恩来死亡によって周囲から批判されるようになる
4月 四五天安門事件の首謀者と目され失脚
この頃毛沢東は病床から連絡係を通じて指示していたが、連絡係が文革四人組のシンパで鄧小平を批判を吹き込んだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/毛沢東#死去
9月 毛沢東が死亡した後、後継者の華国鋒を支持し復活
11-12月 中央委員会全体会議などで文化大革命が否定され、改革開放路線に政策転換がされた
この時四五天安門事件が再評価され、デモは文革四人組に対する革命的大衆運動と肯定的に解釈された
華国鋒は「毛沢東の指示は全て守る」という文革路線だったので、反対した
鄧小平.icon「毛の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」
ものはいいようというかなんでもありだw基素.icon
これが国家的な論争になり、人民は鄧小平を支持した
1980 信頼していた趙紫陽が国務院総理に就任
1981 華国鋒、党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任
胡耀邦が中央委員会主席に、鄧小平は中央軍事委員会主席になる
1992 保守派の勢いが強まったので南巡講話(1992)をする
1997 死去
https://youtu.be/TnvGCRfJeqI
貧困からの戦争
フランス革命
第二次世界大戦
対象の深い理解に基づいて仕組みを調整せよ
国民の教育レベルが低いので民主主義はできないが、将来的にはできるかもしれない(1987)
この後六四天安門事件を支持している
1989年9月14日
香港返還合意から5年後
サッチャー首相が日本政府の関係者に対し、6月の六四天安門事件を受けて、トウ小平氏の考え方や香港の将来を不安視する発言をしていたことが、公開された外交文書で明らかになりました。
サッチャー首相は千葉一夫イギリス大使との夕食会で「かつてトウ(鄧小平)と話し合った際、イギリス政府も法律の下にあることをどうしても理解せず、『国家が欲すれば法律をそのように変えればよい』と主張した。こんにちの中国の問題は、まさにこの考え方に根源があると思う」と述べ、法に基づく統治に対するトウ小平氏の考え方に懸念を示しています。
2020年12月23日 【外交文書 公開】政府 天安門事件当日 中国と融和方針決める | 注目記事 | NHK政治マガジン