劉少奇
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経済はじわじわ回復したが毛沢東は権力が負けてるのが不満だった
毛沢東.icon「右翼日和見の誤りを犯している。...どうして支えようとしないのかね。わたしが死んだらどうするつもりだ!」
劉少奇.icon「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」
基素.icon「(毛沢東.icon、自分のミスで反省したのに逆ギレしてて草)」
権力者でありたい毛沢東が出張ってきて文化大革命で権力を奪還した 極めて劣悪な環境を強要され、非業の死
自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員からも執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もされたが受け入れられなかった。
上記の党からの除名は劉の誕生日にラジオで放送され、劉はそれを聞くことを強要された。それ以降、劉は言葉を発しなくなった。
過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。
1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態で
1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した