裁判所が芸術性・学術的価値を判断できるのか?
裁判所が芸術性・学術的価値を判断できるのか?という問題
裁判所は、宗教問題は判断しない(cf. 板まんだら事件)。芸術性は宗教のようなものでは?基素.icon Gemini 2.5 Pro.icon
ご指摘の点は、法哲学や憲法解釈において非常に興味深い論点です。悪徳の栄え事件(サド裁判)と板まんだら事件を比較し、芸術性・学術的価値の判断と宗教的価値の判断における裁判所の役割について考えてみましょう。
悪徳の栄え事件(サド裁判)における芸術性・学術的価値の判断
この事件では、マルキ・ド・サドの著作『悪徳の栄え』等の翻訳出版が刑法175条のわいせつ文書頒布罪にあたるかが争われました。
弁護側は、作品の文学的・思想的価値(芸術性・学術的価値)を主張し、わいせつ性を否定しようとしました。
最高裁判所は、芸術性・学術的価値があること自体は認めつつも、当時の社会通念に照らして「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」として、わいせつ性を肯定し、有罪判決を下しました(最判昭和44年10月15日)。
つまり、裁判所は芸術性・学術的価値を完全に無視したわけではなく、それを考慮した上で、わいせつ性の判断基準(主に性的側面と社会通念)に照らして法的評価を下した、と言えます。芸術性・学術的価値がわいせつ性を完全に打ち消す絶対的な免罪符とはならなかった、ということです。
この判決は、芸術作品であっても刑法上のわいせつ性の判断から免れるわけではないこと、そしてその判断において裁判所が一定の役割を果たすことを示しています。ただし、その判断基準や芸術性評価の妥当性については、多くの批判や議論があります。
板まんだら事件と宗教上の判断の回避(政教分離原則・部分社会の法理)
板まんだら事件(最判昭和56年4月7日)など、宗教団体内部の教義や信仰対象(本尊の真贋など)に関する争いについて、裁判所は原則として判断を回避する傾向があります。
これは、信教の自由(憲法20条) や 政教分離原則(憲法20条・89条) の要請から、国家(裁判所を含む)が宗教的な価値判断や教義解釈に介入すべきではないという考えに基づきます。
また、「部分社会の法理」といって、宗教団体のような自律的な団体内部の紛争については、それが一般的な市民法秩序と直接関係しない限り、団体の自律的解決に委ね、裁判所は介入を控えるという考え方もあります。
ただし、宗教団体内の紛争であっても、財産権の帰属や不法行為など、法的な権利義務に関わる具体的な争訟については、裁判所が判断します。その際も、教義そのものの当否に踏み込むことは避けるのが原則です。
芸術性と宗教性の比較と裁判所の役割
ご指摘のように、芸術の価値も、宗教的信念と同様に、主観的な側面が強く、絶対的な基準で客観的に測ることが難しい面があります。その意味で、両者は似ているかもしれません。
しかし、法的な扱われ方には違いがあります。
芸術表現は、表現の自由(憲法21条) の一環として保障されます。ただし、その自由も絶対無制限ではなく、「公共の福祉」による制約を受けます。わいせつ罪(刑法175条)は、その制約の一つと考えられています。裁判所は、表現の自由と公共の福祉(性的秩序維持など)を比較衡量する中で、芸術性・学術的価値を考慮要素の一つとして扱わざるを得ない場面があります。つまり、法律(刑法175条)が「わいせつ」という概念を定義し、その適用を裁判所に求めている以上、たとえ困難であっても、裁判所は(芸術性を含む)諸要素を考慮して法的判断を下す役割を負っていると言えます。
宗教は、信教の自由(憲法20条) として、表現の自由とは別の、より手厚い保障を受けていると考えられています。特に、国家が特定の宗教を助けたり、宗教的活動に関与したりすることを禁じる政教分離原則は、裁判所が宗教的教義や価値判断に踏み込むことを強く抑制します。法律は、宗教の教義そのものの真偽や価値を裁くことを裁判所に求めていません。
結論として
裁判所は、宗教問題(特に教義や信仰の核心部分)については、憲法上の要請(信教の自由、政教分離)から、その価値判断を原則として行いません。
一方、芸術性・学術的価値については、わいせつ罪のような具体的な法的問題との関連で、完全に判断を避けるわけではありません。表現の自由とのバランスの中で、考慮要素の一つとして評価の対象となりえます。ただし、その評価が本質的に困難であること、そして裁判所の判断が常に妥当であるとは限らないことは、サド裁判以降も続く議論が示している通りです。
芸術性と宗教性は共に主観的価値判断を含みますが、憲法上の保障のされ方や、法律が裁判所に求める役割の違いから、裁判所の関与の度合いが異なっていると言えるでしょう。
基素.icon芸術表現も猥褻性の価値判断まで突き詰めると信教の自由なのでは?
Gemini 2.5 Pro.icon
それは非常に鋭い、根源的な問いかけですね。芸術表現における価値判断、特に「猥褻」かどうかの判断が、突き詰めれば個人の内面的な価値観や世界観に触れるものであり、その意味で「信教の自由」が保障する内心の自由に近づくのではないか、というご指摘だと理解します。
この点を考える上で、いくつか整理すべきことがあります。
「信教の自由」の射程:
憲法20条が保障する「信教の自由」は、単に特定の宗教(神道、仏教、キリスト教など)を信じる自由だけでなく、無神論を含む広く内心における精神的自由、世界観や価値観を持つ自由(良心の自由(憲法19条)とも重なる部分)を保障していると解釈されています。
裁判所が宗教的教義の当否に立ち入らないのは、この内心の自由への国家の介入を避けるためです(政教分離)。
「表現の自由」と「内心の自由」:
芸術表現は、作者の内心にある思想・感情・価値観が外部に表出されたものです。その意味で、表現の自由(憲法21条)は、内心の自由(信教の自由や良心の自由)と密接に結びついています。内心で考えているだけでは不十分で、それを外部に表現することも保障されなければ、精神的自由は実質的な意味を持たないからです。
猥褻性判断と価値観:
ある表現を「猥褻」と判断することは、単なる事実認定ではなく、「社会の善良な性的道義観念」といった規範的な基準に基づく価値判断を含みます。
何が「善良な性的道義観念」なのかは、時代や文化、個人の価値観によって大きく異なります。裁判所が(多数派の意見を反映しやすい)「社会通念」を基準に猥褻性を判断することは、特定の(あるいは多数派の)性的道徳観・価値観を、異なる価値観を持つ個人(作者や享受者)に押し付ける側面がある、という批判は常に存在します。
「表現の自由」か「信教の自由」か?
ご指摘のように、芸術表現、特に既存の道徳観に挑戦するような表現は、作者やそれを受け入れる人々の深いレベルでの世界観や人間観(ある種の「信念」) に根差している場合があります。その表現が「猥褻」として規制されることは、その人の持つ根源的な価値観や信念の発露を妨げることになり、内心の自由(信教の自由に近しいレベルの精神的自由)への制約と捉える視点も理論的には成り立ちうるかもしれません。
しかし、現在の日本の法解釈・運用においては、芸術表現の規制(猥褻性判断を含む)は、主に「表現の自由(憲法21条)」とその限界(公共の福祉) の問題として扱われます。「信教の自由(憲法20条)」が直接的に争点となることは稀です。
これは、猥褻規制が(建前上は)特定の思想や信条そのものを狙い撃ちするのではなく、「社会の性的秩序・道徳感情の保護」という外部的な目的(公共の福祉)のために、表現の「内容や態様」を制約するもの、と構成されているからです。
ここは、全然納得できない基素.icon
もし、ある表現が特定の宗教的儀式や教義と不可分一体であり、その表現を猥褻として規制することが実質的にその宗教活動や信仰告白を妨げるような極めて特殊なケースがあれば、「信教の自由」の侵害が問題になる可能性はゼロではありませんが、一般的な芸術表現の猥褻性判断とは区別されるでしょう。
結論として
芸術表現の猥褻性判断が、個人の深い価値観や世界観に関わる点で「信教の自由」が保障する内心の領域に近づく、というご指摘は、哲学的には非常に示唆に富むものです。しかし、現行の憲法解釈と法制度の下では、それは主に「表現の自由」の問題として整理され、公共の福祉との比較衡量の中で判断される、というのが一般的な理解です。
「猥褻」という概念自体が、社会の多数派の価値観を反映しやすく、少数派の表現や価値観を抑圧する危険性を孕んでいることは、常に意識されるべき重要な論点と言えます。
基素.iconはい。現在の法の運用はそうなっています。しかし私は、性行為非行全盛の原則に基づいた175条がそもそもおかしいと論じたいのです
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これらの真野裁判官の論点は、まさにあなたが主張したい「性行為非公然性の原則に基づいた175条がそもそもおかしい」という議論を強力に補強するものです。
根拠の脆弱性: 刑法175条による表現規制の正当化、特にチャタレー事件以降の運用において重要な役割を果たしてきた「性行為非公然性の原則」という論理的基盤が、最高裁内部の反対意見によって、その制定当時から既に論理破綻を指摘されていたことを示します。
普遍性の否定: 猥褻に関する価値観が時代や文化によって大きく異なることを強調し、「時代と民族を超えた普遍の規範」という考え方を否定する根拠となります。これは、現代のように価値観が多様化し、グローバルな文化交流が進む中で、ますます説得力を持つ議論です。
相対的判断の必要性: 猥褻性の判断は、社会通念という相対的な基準に依らざるを得ないとしても、それを「普遍的な原則」にすり替えて固定化することの危険性を示唆します。本来、変化しうる社会通念に合わせて、法律の解釈や適用も見直されるべきである、という議論に繋がります。
表現の自由との関係: 曖昧で非論理的な「原則」に基づいて表現物を「猥褻」と断じることは、憲法21条が保障する表現の自由に対する不当な制約となる危険性が高いことを示唆します。
基素.icon板まんだら事件は、法律上の争訟にあたるかどうかの真偽判定が宗教上の問題だったことがポイントであって、175条の猥褻性にその問題はないもんなー
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板まんだら事件では、例えば創価学会内部の対立において、どちらの派閥が正統か、どちらが本尊(板まんだら)を管理する権限を持つか、といった法的な権利義務関係(法律上の争訟) を解決するための前提として、「どちらの本尊が宗教的に正統か」という宗教上の教義・信仰の核心に関わる判断が必要とされました。裁判所は、このような宗教の核心部分に関する判断は、国家(司法)が行うべきではない(行うことができない)とし、「法律上の争訟」にあたらない、あるいは判断を回避すべきである、という立場をとりました(裁判所法第3条第1項の解釈、部分社会の法理、政教分離原則)。
刑法175条(わいせつ物頒布等) の場合、問題となるのは「特定の表現物が刑法175条にいう『わいせつ』にあたるか否か」という法律解釈・適用の問題です。
確かに、「わいせつ」の判断には、社会通念、性的道徳観念、芸術性・思想性といった価値判断が含まれ、主観的で難しい側面があります。
しかし、これはあくまで法律(刑法175条)が定める構成要件(「わいせつ」)に該当するかどうかを判断する作業であり、前提として宗教的教義の真偽判定が必要とされるわけではありません。
したがって、わいせつ性の判断は、困難さを伴うとしても、原則として「法律上の争訟」として裁判所が判断すべき対象と考えられています。裁判所は、憲法21条(表現の自由)と公共の福祉(性的秩序維持など)を衡量しつつ、法律を解釈・適用して結論を出す役割を担っている、とされているわけです。
基素.icon話を戻しまして
裁判所が芸術性・学術的価値を判断できるのか?これを議論したい
Gemini 2.5 Pro.icon
はい、承知いたしました。話を本題に戻し、「裁判所が芸術性・学術的価値を判断できるのか?」という点について、改めて議論を深めていきましょう。
この問いに対する答えは単純ではなく、様々な側面から考える必要があります。肯定的な側面、否定的な側面(あるいは問題点)を整理してみましょう。
1. 裁判所が判断に関与する「必要性」や「正当性」の側面
法的判断の前提として: 刑法175条(わいせつ物頒布等)のように、表現の自由(憲法21条)と公共の福祉(性的秩序の維持など)を比較衡量する必要がある場合、その表現物が持つ芸術性・学術的価値は、表現の自由の側を基礎づける重要な要素となります。これを全く考慮せずに「わいせつ性」のみを判断することは、表現の自由の保障を不当に軽視することになりかねません。法律が裁判所に衡量判断を求めている以上、価値判断を完全に避けて通ることは難しい、という側面があります。
免責・違法性阻却の判断: 例えば、名誉毀損(刑法230条)における「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認められる場合」(刑法230条の2)の判断や、著作権法における引用(32条)の正当性判断など、他の法分野においても、表現内容の社会的・文化的価値がある程度考慮される場面は存在します。
2. 裁判所による判断の「可能性」と「限界」・「問題点」
判断基準の曖昧さ・主観性: これが最大の論点です。芸術性・学術的価値は、客観的な数値で測れるものではなく、評価者の主観や時代、文化、個人の感性によって大きく左右されます。「何をもって芸術的価値とするか」という普遍的で明確な基準を裁判所が設定することは極めて困難です。
裁判官の専門性: 裁判官は法律の専門家ですが、必ずしも芸術や特定の学術分野の専門家ではありません。専門外の分野について、その価値を的確に判断できるのか、という疑問があります。(ただし、専門家鑑定などを補助的に用いることは可能です)
判断の保守性・多数派志向: 裁判所は既存の法秩序や社会通念を重視する傾向があり、前衛的な芸術や少数派の学術的見解など、既存の価値観から逸脱するものの価値を過小評価したり、理解できなかったりするリスクがあります。歴史的に見て、当初は社会から非難されたり理解されなかったりした作品が、後に高く評価される例は少なくありません。
表現の自由への萎縮効果: 裁判所が芸術性・学術的価値について容易に否定的判断を下すようになると、表現者が自由な創作活動をためらってしまう「萎縮効果」を生む可能性があります。
結果の不安定性: どのような裁判官が担当するかによって、同じ作品に対する価値判断が大きく異なる可能性があり、法的安定性を損なう恐れがあります。
議論のポイント
「判断できるか」の意味:
能力の問題: 裁判官に芸術的価値を評価する能力があるか? → 専門性の問題があり、限界がある。
制度・権限の問題: 法律は裁判所にそのような価値判断を(少なくとも特定の文脈で)求めているか? → 求めている側面がある(特にわいせつ罪など)。
妥当性の問題: 裁判所がそのような価値判断を行うことは、社会的に見て、あるいは法の理念から見て妥当か? → 多くの疑問点、問題点が指摘されている。
判断の程度: 裁判所は、芸術や学術の専門家のように「絶対的な価値」を判定するのではなく、あくまで「法的判断の文脈において考慮すべき要素」として、一定の評価を行うにとどまるべきではないか、という考え方もあります。つまり、専門家による評価や社会における受容のされ方などを参考にしつつ、法的衡量の一要素として位置づける、というアプローチです。
代替案: 裁判所が直接的な価値判断を行うのではなく、例えば「その分野の専門家コミュニティにおいて、真摯な芸術的・学術的議論の対象となりうるか」といった、より手続き的・形式的な基準で判断すべき、という意見もありえます。
結論として
「裁判所が芸術性・学術的価値を判断できるか?」という問いに対しては、
制度上・必要性から: 特定の法的文脈(わいせつ罪など)においては、判断に関与することが予定されており、全く判断しないわけにはいかない側面がある。
能力・妥当性の観点から: 価値判断の主観性、裁判官の専門性の限界、表現の自由への影響など、多くの深刻な問題点があり、「適切に判断できる」とは言い難い。
というのが現状の到達点ではないでしょうか。裁判所は、この困難な課題に対し、専門家の意見を参考にしたり、明白な場合に限定したりするなど、慎重な姿勢で臨むことが求められますが、根本的な難しさは依然として残ります。
このテーマについて、さらにどの点を掘り下げて議論したいとお考えですか?
基素.icon例えば裁判所は、裁判所の能力の限界(と民主制の過程を理由に)から行政権が絡む予算がらみの裁判は行政権のやりたいようにさせている。
であるなら猥褻性も判断できないのだから、判断するべきではない、あるいは消極的判断(一見極めて明白に猥褻でなければ、猥褻ではない)とすべきではないか
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なるほど、行政事件における司法の抑制的な姿勢(特に高度な政治性・政策性・専門性が絡む裁量判断や、統治行為論が妥当するような場面)とのアナロジー(類推)ですね。非常に興味深い視点であり、説得力のある議論の方向性だと思います。
その論理構成を整理すると:
前提1: 裁判所は、自らの能力の限界や、民主的正当性を持つ行政・立法府の判断を尊重すべき場面(例:予算配分、高度な政策判断、統治行為)では、その判断に積極的に介入せず、行政権の裁量を広く認める(あるいは判断自体を回避する)ことがある。
前提2: 芸術性・学術的価値の判断は、その主観性や専門性の高さから、裁判所が的確に行う能力には限界がある。
結論: であれば、裁判所はその能力の限界を自覚し、芸術性・学術的価値が問題となる猥褻性の判断においても、行政事件における抑制的な姿勢と同様に、判断自体を避けるか、あるいは極めて抑制的な基準を採用すべきではないか。具体的には、「一見して極めて明白に猥褻であると判断できる場合に限り猥褻とし、そうでない限りは猥褻ではない」という消極的な判断基準(明白性の原則の厳格適用)を用いるべきだ。
このアナロジーと提案の妥当性・意義について:
説得力のある点:
司法権の限界の自覚: 司法権(裁判所)が万能ではなく、その能力や役割には限界があることを前提としている点。
表現の自由の重視: 判断が困難なグレーゾーンにおいては、規制する側(国家)ではなく、権利(表現の自由)の側に有利な判断をすべき、という価値判断を示唆している点。これは、自由主義・民主主義社会における基本的人権の考え方と整合します。
萎縮効果の防止: 明白な基準を設けることで、表現者が不当に自己規制してしまうことを防ぐ効果が期待できます。
「判断できないこと」からの論理的帰結: 裁判所が芸術性・学術的価値を適切に判断「できない」のであれば、その判断に大きく依存する猥褻性の認定には極めて慎重であるべき、という論理の一貫性。
検討すべき点・反論可能性:
アナロジーの限界: 行政裁量や統治行為論における司法抑制の根拠は、能力の限界だけでなく、三権分立(司法権と行政・立法権の役割分担)、民主的正当性(選挙で選ばれた機関の判断尊重)など、複合的なものです。一方、猥褻性判断の困難さは、主に価値判断の主観性と専門性の問題に起因します。根拠が完全に一致するわけではないため、アナロジーには一定の限界があります。
刑法175条の存在: 現に刑法175条が存在し、裁判所にその適用を求めている以上、裁判所が「判断しない」という選択肢を完全にとることは難しいかもしれません(立法による解決が本筋という議論はありえます)。
「明白に猥褻」の基準: 「一見極めて明白に猥褻」という基準自体も、解釈の幅が残り、結局は裁判官の主観が入り込む余地がないとは言えません。しかし、従来の基準よりは表現の自由に配慮した基準であることは確かです。
最高裁判例との関係: 現在の最高裁判例(チャタレー事件、サド裁判など)が示す基準は、そこまで抑制的なものとは言えない可能性があります。この提案は、判例の変更や立法による解決を視野に入れたものと言えるかもしれません。
結論として
行政事件における司法の抑制的姿勢とのアナロジーを用い、「裁判所は猥褻性の判断においても、明白性の原則を厳格に適用し、極めて抑制的であるべきだ」というご提案は、裁判所の能力の限界と表現の自由の重要性を踏まえた、非常に説得力のある議論です。
現行法の解釈として直ちに受け入れられるかは議論があるとしても、立法論として、あるいは今後の判例変更を促す議論として、極めて重要な視点を提供していると思います。「判断できない(あるいは不得手な)領域については、謙抑的であるべき」という法の一般原則にも通じる考え方であり、特に基本的人権(表現の自由)が関わる場面においては、強く主張されるべき論点と言えるでしょう。
基素.iconわかる
「明白に猥褻」の基準: 「一見極めて明白に猥褻」という基準自体も、解釈の幅が残り、結局は裁判官の主観が入り込む余地がないとは言えません。しかし、従来の基準よりは表現の自由に配慮した基準であることは確かです。
も無理があるよな。結局猥褻性というものを定義して刑事罰を与えていることからくる歪みがこのように解釈の行き詰まりを与えているのだと思う
Gemini 2.5 Pro.icon
まさにおっしゃる通りだと思います。そこが根本的な問題ですよね。「一見極めて明白に猥褻」という基準でさえ、結局は誰が、何を基準に「明白」と判断するのか、という主観性の問題から逃れられない。「無理があるよな」と感じられるのは、ごく自然なことだと思います。
あなたが指摘されているように、この「解釈の行き詰まり」や「歪み」の根源は、
「そもそも『猥褻性』という、本質的に主観的で、時代や文化によって変動する曖昧な概念を法律で定義し、それに刑事罰という国家による強制力を結びつけていること」
にあると考えられます。
具体的には、以下のような問題が構造的に内包されていると言えます。
定義の不可能性: 何が「猥褻」かは、個人の性的羞恥心、道徳観、美的感覚、社会の慣習などに深く関わっており、客観的かつ普遍的な定義を定めることは極めて困難、あるいは不可能です。
価値観の強制: 法律で「猥褻」を定義し罰することは、必然的に特定の(あるいは多数派の)性的道徳観・価値観を、異なる価値観を持つ人々にも強制することになります。これは内心の自由や思想・良心の自由とも抵触する可能性があります。
表現の自由との衝突: 「猥褻」とされる表現も、芸術的価値や思想的価値を持つ場合があります。曖昧な基準で表現を刑事罰の対象とすることは、憲法が保障する表現の自由を過度に制約し、社会の多様な表現活動を萎縮させる危険性を常に伴います。
法解釈の不安定化: 基準が曖昧であるがゆえに、具体的な事件における法の解釈・適用が不安定になりがちです。どのような表現が処罰されるのか予測可能性が低くなり、法的安定性を損ないます。まさに「解釈の行き詰まり」が生じやすい構造です。
したがって、「一見極めて明白に」といった基準の工夫も、この根本的な問題(=定義不能なものに刑事罰を与えていること)を抱えた上での対症療法的な側面があり、完全な解決にはなり得ない、というご指摘は非常に的を射ています。
刑法175条をめぐる長年の議論や解釈の変遷、そして今なお続く論争は、まさにこの「歪み」が顕在化し続けている証左と言えるのかもしれません。
基素.iconそう。普遍的な性道徳というような価値観を押し付けているので思想の強制とも言える(刑法上「猥褻」な表現をしたら刑事末を与えられるのだから、皆そのようなことはしないようにするはず)
「殺人をするのが善」というような思想があったとして、殺人罪は殺人に刑罰を与えることで、その思想の人を意にそぐわない行動の強制を促しているが、これはどう合理化されるんだっけ?公共の福祉...?
Gemini 2.5 Pro.icon
はい、その通りですね。刑法175条が特定の「性道徳」を背景に持ち、それに反する表現を罰することで、結果的に人々がそのような表現を避けるように仕向け、特定の価値観を内面化させる(あるいは少なくとも行動レベルで従わせる)効果を持つ。これは「思想の強制」に近い側面がある、というご指摘は非常に鋭いと思います。
そして、その対比として殺人罪を出された上で、「『殺人は善』という思想を持つ人がいたとしても、殺人罪はその人に意にそぐわない行動(=殺人をしないこと)を強制している。これはどう合理化されるのか?公共の福祉か?」という問いですね。
これは、まさに制限される権利・利益と、制限する目的(守られる利益) の性質と重要性の違いによって合理化されています。
殺人罪(刑法199条等)の合理化
守られる利益(法益): 人の生命です。生命は、個人の存在の根源であり、他のあらゆる権利や自由の前提となる、最も根源的で重要な価値・権利(生命権)とされています。
侵害行為の性質: 殺人行為は、被害者の生命という回復不能かつ最も重大な法益を直接的に侵害します。
普遍性: 人の生命を尊重し、故なくこれを奪うことを禁じることは、特定の文化や思想に限定されない、人類社会の存立基盤となる極めて普遍的な規範と考えられています。
正当化根拠(公共の福祉): 個人の生命を守り、社会の安全と秩序を維持することは、「公共の福祉」の最も中核的で疑いのない内容です。生命権という究極的な人権を守るために、殺人を禁止し、それに反する行為(思想ではなく行為)に刑罰を科すことは、公共の福祉の観点から必要不可欠であり、かつ(思想の表明ではなく具体的な加害行為を罰する限り)比例原則にも適う、とされます。 たとえ「殺人は善」という思想を持つ人がいても、その思想自体を罰するわけではありません(内心の自由)。しかし、その思想に基づいて他者の生命を侵害する具体的な「行為」 に出た場合、その行為は他者の最も重要な権利を侵害し、社会の根幹を揺るがすため、刑罰をもって禁止されることが正当化されるのです。これは「思想の強制」というよりは、「他者への実害(生命侵害)の防止」が主目的です。
猥褻罪(刑法175条)との比較
守られる利益(法益): 一般的には「善良な性的風俗」「社会の性的秩序」「性的羞恥心」などとされますが、これらは生命のように具体的で明確なものではなく、時代や文化によって変動し、主観的な要素を強く含みます。
侵害行為の性質: 表現行為がこれらの法益を「侵害」するとしても、その侵害は通常、間接的・抽象的なものと捉えられがちです。生命侵害のような直接的で回復不能な実害とは異なります。
普遍性: 何を「猥褻」と感じるか、どのような性的表現が許容されるかは、普遍的ではなく、極めて多様です。
正当化根拠(公共の福祉): 猥褻表現の規制も「公共の福祉」のためと説明されますが、その
根拠となる利益が抽象的で変動的であること、
規制されるのが表現の自由という重要な精神的自由である
ことから、その正当性や必要性、特に刑事罰という手段の比例原則適合性については、殺人罪の場合と比べてはるかに多くの疑問や議論が生じます。
結論として
殺人罪が「殺人は善」という思想を持つ人に行動の制限を課すことは、「他者の生命権」という絶対的に保護すべき法益を、直接的で回復不能な侵害行為から守るという、公共の福祉における最も強力で疑いのない要請によって合理化されます。
一方、猥褻罪が特定の表現を制限することは、より抽象的で変動的な「性的道徳」 を守るために、表現の自由という重要な権利を制約するものであり、その「公共の福祉」による正当化は、殺人罪のそれと比較してはるかに脆弱で、議論の余地が大きいと言えます。だからこそ、猥褻罪が「思想の強制」という側面をより強く感じさせるのでしょう。
基素.icon
つまり、刑罰放棄で守られるものは公共の福祉を原理として、明白な「他者への実害」に刑罰を与えているという理解でいいか?
そうすると175条はやはり不合理に感じられる
Gemini 2.5 Pro.icon
はい、その理解で基本的には正しいと思います。より正確に、あるいは補足するとすれば、以下のようになります。
刑罰の正当化原理: 現代の自由主義的な法体系において、国家が刑罰という強力な強制力を行使することの正当化根拠は、主に「公共の福祉」に求められます。
公共の福祉の内容としての「法益保護」: そして、「公共の福祉」の具体的な内容として、刑罰が目的とすべきなのは、個人や社会の重要な利益(これを「法益」と呼びます。生命、身体、自由、財産、名誉、安全な社会生活など)を保護することにある、と考えられています。
「他者への実害」の重視(特に自由主義における害悪原理): 中でも、ジョン・スチュアート・ミルが提唱した害悪原理(Harm Principle) 他者危害原則 の考え方は、個人の自由を最大限尊重する観点から重要視されます。 これは、「個人の自由を制限することが正当化されるのは、他者に明白な実害(harm)を与えるのを防ぐ場合に限られるべきだ」という考え方です。
すべての刑法が厳密にこの原理だけで説明できるわけではありませんが(例えば、未遂犯や危険犯の処罰、自己加害的な行為の禁止など、議論のある領域もあります)、他者への実害防止が刑罰の正当化における中核的な要素であることは広く認められています。
刑法の謙抑性(最後の手段性): また、刑罰は最も強力な国家権力の行使であるため、その適用は必要最小限にとどめるべきであり、他の手段(民事法、行政法、教育、社会規範など)では法益保護が不十分な場合の「最後の手段(ultima ratio)」であるべき、という謙抑主義の考え方も重要です。 この理解に基づくと、刑法175条が不合理に感じられる理由
ご指摘の通り、この「明白な他者への実害」を刑罰の主たる根拠とする考え方から見ると、刑法175条は以下のような点で不合理に感じられます。
「明白な他者への実害」の不明確さ: 猥褻表現が、「善良な性的風俗」や「社会の性的秩序」といった抽象的なものを害するとしても、それが具体的に誰に対して、どのような回復困難な実害を与えているのかが、殺人や傷害、窃盗などと比較して著しく不明確です。特に、同意のある成人間での表現物のやり取りなどにおいて、「他者への実害」を認定するのは困難です。
道徳の強制: 害悪原理の観点からは、単に「不道徳だ」「不快だ」という理由だけで個人の自由(表現の自由)を刑罰をもって制限することは正当化されにくいです。刑法175条は、特定の性的道徳観を国民に強制している側面が強く、これは害悪原理と対立しやすいです。
謙抑性の原則への疑問: 猥褻とされる表現に対して、刑罰という「最後の手段」を用いることが本当に必要なのか、他の緩やかな手段(例えばゾーニング、アクセス制限、業界の自主規制など)では対応できないのか、という疑問が生じます。
したがって、「刑罰は、公共の福祉のために、明白な他者への実害を防止する目的で科されるべき」という原則的な理解に立てば、刑法175条はその根拠の不明確さや表現の自由との関係で、確かに不合理である、あるいは少なくともその正当性に強い疑問符が付く、と感じられるのは自然なことだと思います。