他者危害原則
ある個人の行動の自由を制限する (=干渉する)際に、唯一可能なのは、その個人が他人に対して危害を加えることに抵抗することだけである、という原則のことをさす。 この抵抗の中には、広義の不服従や攻撃も含まれる が、この範囲にはさまざまな解釈が可能である。
...他人に危害を加えてはならないという道徳 を意味するものではない(ただし、危害原理からこの道徳を論理的に引き出す(=演繹)することは可能である)。
危害をもたらす未来における危険性 (=リスク)を拡大解釈して、予防としてその個人の自由を制限する根拠を引き出すことは論理的にはできない。
この原理を述べた当該箇所は次のように書かれてある。
> " That principle is, that the sole end for which mankind are warranted, individually or collectively in interfering with the liberty of action of any of their number, is self-protection. That the only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilized community, against his will, is to prevent harm to others." (J.S. Mill, On Liberty, 1860)
「その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、 だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会 の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他者にたいする危害の防止である」早坂忠訳(ミル 1967: 224)。
「その原理とはこうだ。人間が個人としてではあれ、 集団としてであれ、誰の行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけであ る。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである」山岡洋一訳、(ミ ル 2011:26)。
「この原則は判断能力が成熟した人だけに適用するこ とを意図している。子供や、法的に 成人に達していない若者は対象にならない。世話を必要としない年齢に達していないのであれば、本人の行動で起こりうる危害に対しても、外部からの危害に対 しても保護する必要がある。同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう」(ミル 2011:27)。
21世紀を生きる文化人類学者からみると若干悲しい 「遅れた民族」という概念を、あまり針小棒大化して、彼は植民地主義者だとか白人の帝国主義者の傲慢と 判断しても、我々の世界と時代道徳で、ミルを判定するという誹りを受けてしまうだろう。ミルの著作は、この時代を生きた英国の産業革命(18世紀後半)のまっただ中の市民 生活や、ビクトリア朝時代最盛期の大英帝国の植民者の人種主義や、当時の社会の「進歩や発展」思想をたっぷりと含んでいるにも関わらず、ミルの危害原則の 時代を我々もまた共有しているからである。