性行為の非公然性の原則
チャタレー事件で最高裁の多数意見が示した原則
反対意見
上告審において裁判官 真野毅はこの原則を理解できないと評している
真野毅の解釈は次のとおりである
「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである
わたくしの見解では、猥褻であるかどうかは、常にその社会のその時代における相対的な社会通念を規準として判断すべきものと考えるのである。
この上で、わいせつ文書であるという結論は支持している
作品自体は、社会通念上寛容になれる社会じゃない
11 わたくしは、多数意見が本訳書の描写をもつて時代と民族を超えて変化することのない猥褻性をもつかのごとき表現をしている部分は削除すべきであると考える。
として、普遍の原則というような「性行為非公然性の原則」は非論理的と断じており、結果としてそこに依拠する部分は非論理的であるとしている
非公然性の原則から結論を導くことはできない
10 性行為の非公然性の原則に反するとは、性行為を公然と実行するということに帰着する。(本訳書はもとより生き物ではないから、公然であろうと秘密であろうと、訳書そのものが性行為を実行することはありえないことである。)本訳書の性的場面の描写は、性行為を公然と実行している場面をえがいたものではない。この意味においてはどこにも、性行為の非公然性の原則に反するかどはないはずである。
時代を超えた(timelessな)非公然性の原則はありえない
1947年の修正 ジュネーブ条約では淫猥の定義を国際的に定めることが困難かつ不必要であるとした
古事記、日本書紀、万葉集、風土記等に現われる上代結婚の風俗習慣は自由だし、乱交があった
上代の歌垣またはかがいという習俗においては、多数の青年男女の集団が手を携えて平常神聖視している山などに登り、そこでは飲食、歌舞、音曲を共にし、歓楽の興趣きわまるところ、性行為の実行が公然としかも集団的に行われエクスタシーの境に入つたということである。この行事には未婚の男女ばかりでなく既婚の男女も参加したという
米国における同種の事件において、ハンド判事は、羞恥心が末永く、人間性の最も大事で美しい面を十分描写することを妨げるだろうなどということは、実際ありうべからざることの様に思われるといつているのは注目の値いがある。
「羞恥心があっても、人間の美しい面はかける」という意味。これはなにに対して言及したものなのか?基素.icon
グローバリゼーションによって性に関する社会的変化は激動する可能性がある
現にフランスでは、原著やその完訳が出版されており、またイタリヤでは原著が、ドイツではその完訳が出版されておる。
つまり、「原則」の例外がすでにあるわけで、筋が通らない
手近い話が、本件の第一審で証人となった(略)10人は、猥褻文書でないとし(略)の6人は、猥褻文書であるかどうか明らかでないとし、(略)8人は、猥褻文書であるとしている程度のものである。
多数意見は恰も時と所とにより変化する猥褻と時と所を超越して変化することのない猥褻の2段階ないし2類型があるかのような表現をし、その上本訳書の描写はその後者に属するかのような表現をしている点は、非科学的であつて、とうてい賛同することができない。
8 多数意見は、
「しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていづれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。」
と説く。そして、その前に述べたというのは、
差恥感情は、「人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも、性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの差恥感情の当然の発露である。」
といつているに過ぎない。だから、いうところの「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである。「性行為の非公然性の原則」というといかにもいかめしく聞えるが、その中味はただこれだけのことである。多数意見は、一方において性一般に関する社会通念は、「時と所によつて同一でなく、同一の社会においても変遷がある」ことを認めつつ、他方において社会通念の変化では「超ゆべからざる限界」として、時代と民族と社会を超越した普遍の規範たる「性行為の非公然性の原則」があるというのである。
[9 そしてこの前提に立つて多数意見は、
「本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、……相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し」たものである
としている。しかし、わたくしをして言わしむれば、かような判断は、前後を弁まえない極めて非論理的なもの以外の何物でもない。
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こっちの意見に賛成
人間のきめごとにほとんど普遍的な原則はないように思う
Gemini 2.5 Pro.icon真野毅裁判官の反対意見の核心
「性行為非公然性の原則」の限定的意義: この原則は、「人々は通常、性行為を公然とは行わない」という事実を述べているに過ぎず、それ以上の規範的な意味を持つものではない。
原則の適用不可能性: この原則を「文書」(チャタレー夫人の恋人)に適用するのは論理的に破綻している。文書自体が性行為を実行することはありえず、また、描かれている場面も「公然と性行為が行われている場面」ではない。したがって、「性行為の非公然性の原則に反する」という判断は成り立たない。
猥褻判断の相対性: 猥褻か否かは、普遍的な原則ではなく、常に「その社会のその時代における相対的な社会通念」を基準に判断すべきである。
多数意見の非論理・非科学性: 多数意見が、時代や場所によって変化する社会通念を認めつつ、それを超える普遍的な規範として「性行為非公然性の原則」を立て、さらに本件訳書の描写がその普遍的規範に反するかのように論じている点は、「非論理的」「非科学的」であり、到底賛同できない。あたかも変化する猥褻と変化しない猥褻の二類型があるかのような議論は誤りである。
反証の存在:
歴史: 古代日本の「歌垣(かがい)」のような、集団的・公然たる性行為を含む習俗が存在した。
国際比較: 当時すでにフランス、イタリア、ドイツ等で原著や完訳が出版・流通しており、「普遍的原則」とは言えない状況があった。
専門家の意見: 本件の裁判においても、専門家の間で猥褻性の判断が大きく分かれており、社会通念として確立しているとは言えない状況だった。
結論と理由の分離: 真野裁判官自身は、当時の日本の社会通念に照らせば本件訳書を猥褻文書と判断すること自体は支持したが、その理由付けとして多数意見が用いた「性行為非公源性の原則」という論拠(普遍的原則論)を明確に否定した。
四畳半襖の下張事件(昭和54(あ)998)上告審の弁護人中村巌の上告趣意の添付資料の中で丸谷才一の批判
https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/31-3.html
二審判決はわたしをいろいろな意味で驚かせました。その一つは、性行為非公然の原則なるものがとつぜん雲散霧消したことである。しかも何の説明もなしに。これにはすつかりびつくりしました。
ところで性行為非公然の原則とはどういふものなのか。一審の判決のなかから、それを主張してゐるくだりを引きませう。ただし原文そのままでは頭にはいりにくいので、段落をつけながら適当に要約します。ただし原文そのままでは頭にはいりにくいので、段落をつけながら適当に要約します。
A 人間の社会には、性道徳ないし性風俗がある。その根幹をなすものが性行為非公然性の原則で、これは、人間が他の動物にはない羞恥感情を持つことのせいで生じた。
....学問的根拠がない。
前半で述べてあることにしても、人類全体の文化に適用できるかどうか、かなり問題がある。
二審の証言で石川栄吉教授が述べてゐるやうに、ポリネシアの伝統社会(つまりキリスト教的ヨーロツパ文化によつて影響を受けてゐない社会)では、性の秘匿は考へられないことである。
また、これは石川教授の証言ではありませんが、たとへばエスキモーは家族全員が一室で暮すため、両親の性生活を幼い子供たちが知つてゐるといふ。エスキモーの社会においてはそれでいつこう差支へないわけで、別に風儀は乱れない。
またたとへば、折口信夫が昭和10年に慶応大学でした講義によると、われわれの習慣からすると、男と女の媾うことは厳粛なことで、神事として、神の前で媾うことがあつた。(中略)物語がだんだん勢力を得てくるのと反対に、そうした祭は隠れていつて、おおつぴらには行なわれなくなつてくる。台湾の蕃人の間では、粟の穂祭のとおりに、神聖な男と女とが神事として実際にそういう行為をしてみせた。神事としてするので、誰も不思議とも恥とも思わなかつた。
これでも判るやうに、単に密室でおこなふことをもつて性的倫理の重要な基盤とするのは筋違ひの意見、為にする考へ方と思はれます。
B 「この原則は、性器を公然と露出したり、性交やこれに関連する性戯(以下これらを含めて「性的行為」という)を公然と実行したりしないことを基本的な内容とする。」(ここのところは、大事なところなので、そのまま引きます。)
C なぜ公然とおこなはないかと言へば、もし公然とおこなふならば、それを見る者を性的に刺戟、興奮せしめ、理性によつて抑制することをむづかしくし、性的羞恥心を失はせ、性秩序をみだす振舞ひをさせるかもしれないからである。
人間が性行為を公然とおこなはない理由にしても、本来は羞恥心のせいかどうか判つたものではない。あれは無防備の状態ですから、身の安全を守るためだつたと考へるほうがむしろ正しいでせう。
Cで言つてゐることは、話の順序が逆で、結果の一つとしてさうであるのかもしれないことを、理由ないし原因として、恣意的に言ひ立ててゐるにすぎない。
D それゆえ文書・絵画・写真などでも、現実に性器が露出されたり、性的行為がおこなはれたりするのを見るのとほぼ同じくらゐ露骨かつ詳細な描写を発表すれば、それが見る者に与へる効果は、実際の性器露出や実際の性行為とまつたく変らない。
実生活における性行為非公然といふ約束事(これはまあ、いちおう認めていいことにしますが)を、まつたく別の次元である芸術表現の世界に持ち込んでゐる。これはアリストテレスの『詩学』のいはゆる、行為と行為の模倣とを区別しないもので、この調子でゆけば、実際にある男が他の男を殺すことと、芝居のなかである役者が他の役者を殺す演技をすることとが同質になり、つまりその役者は殺人犯といふことになる。6代目菊五郎もハンフリ・ボガードも死刑にしなければならない。そんな馬鹿な話があるものかといふのが、チヤタレー裁判以後のあらゆる文芸裁判における、被告側の言ひ分でありました。わたしも一審の特別弁護人としての弁護においては、特にここのところに重点をかけた。が、一審の判決には、
>……文書等による表現はそれが現実の行為そのものではなく模倣であるにしても、その表現の仕方によつては、現実に性器の露出ないし性的行為が公然と行われたと同様あるいはそれ以上の心理的影響を見聞する者に与えることがあり、また、その性質上現実の行為によるものよりも広範囲に認識されうるものであることにかんがみれば、このような文書類を公表することもまた禁止されるべきで、右原則〔性行為非公然性の原則〕はこのことをも包含するのである。
などと言つてゐる。つまり、文学原論のごく初歩のところがちつとも判つてゐない。
これは例のチヤタレー裁判のとき、最高裁の判決で述べられたもので、サド裁判のときにも主張された。検察側も裁判所も、エロチツクな文学芸術を取締るときには、もつぱらこの性行為非公然の原則をよりどころにしてきたのです。それがとつぜん、あつさりと引込められた。
ところが、二審の判決は、性行為非公然性の原則を一言も言ひ立てなかつた。この原則を論拠とする立場をだしぬけに捨ててしまつたわけです。