チャタレー事件
昭和28年(あ)第1713号
https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/29-3.html
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。
本当か?
インターネットが90年代に発展し、今や誰でも無修正ポルノにアクセスできてしまうが性犯罪は低下している
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/honpen/b1_s06_02.html
もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑
法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法175条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである
しからば本被告事件において問題となつている「チヤタレー夫人の恋人」が刑法175条の猥褻文書に該当するか否か。これについて前提問題としてまず明瞭にしておかなければならないことは、この判断が法解釈すなわち法的価値判断に関係しており事実認定の問題でないということである。
著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。
法の適用は事実認定に立脚するものではないのか?
裁判は事実認定と法適用を行うプロセス
事実認定なしの法解釈、合理性がないのでは?(前提が間違っていれば結論も間違うので)
ここでいう事実認定とは何に対する何の認定か?
この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。
「個々の認識を超えた集団意識」とはいったい何を指すのか意味がわからない
これ自体に解釈の幅がある。裁判官を並べて基準クイズをしたら割れるだろう。
かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。
ということを最高裁所も認めている。要するに「社会通念=裁判官の判断」だといっている。
これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。これらの場合に裁判所が具体的の事件に直面して判断をなし、その集積が判例法となるのである。
他と同じというが、表現というのは非常に射程が広いので、特に問題になると考えている。もっとブレイクダウンしてほしい。こ
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。
また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。
しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。
「いずれの社会においても認められ守られている規範」本当にあるのか?
それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。
羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。
従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。
この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人間または特定の社会において欠けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。
例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。
なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
元記事のスナップショット
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尾形大
https://research-er.jp/researchers/view/906275
チャタレイ事件は単に文学裁判と呼ぶにはあまりに複雑な同時代状況を抱え込んだ「場」であった。
「戦後作られた日本の新憲法の大原則である基本的人権の擁護、思想表現の自由という条項が、守られるか危うくされるかという問題」(伊藤整『裁判』「序文」)が測られ、「戦後の民主的な裁判の形式や実質」(伊藤整『裁判』「新版の序」)を社会に可視化するモデルケースとなり、
さらに当時は戦後世間に氾濫した性風俗を題材にした出版物や映画に対する取締まりが強化される時期にも重なった。
警視庁は1949年に発売された石坂洋次郎『石中先生行状記』を摘発したが世論の反発で起訴猶予となり、1950年1月にはノーマン・メイラー『裸者と死者』を発禁処分としたがGHQに「アメリカで公刊を許されたものがなぜ発売禁止になるのか」と抗議されて撤回しており、『チャタレイ夫人の恋人』も発売後に摘発を危惧されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤整#チャタレイ裁判
1951年9月に署名が交わされるサンフランシスコ講和条約の直前という微妙な政治状況
戦前の検閲に代わる言論統制を現行法の解釈によって制度化しようとする権力側の要請
さらには米ソの代理戦争としての朝鮮戦争の勃発
連合国軍最高司令官総司令部主導で国内の日本共産党党員とその関係者を公職追放、解雇した共産主義の非合法化に象徴される思想統制の動きとも無関係ではない
何よりチャタレイ事件は「文壇」の再建期とも重なりあった。
第一審
チャタレー事件 第一審