グレーゾーンの消滅:プラットフォーム健全化がインターネットから奪うもの
問題意識等は過去の基素.iconの記述から書かれているが、4節以降は質問に対してOpusが生み出したもの
Claude Opus 4.6.icon
1 問題の所在
あるアバター配信アプリで、参加者全員が自発的に楽しんでいた配信が、プラットフォームの警告によって停止された。配信の内容は性的な要素を含んでいたが、参加者間に搾取関係はなく、金銭の授受もなく、適切にゾーニングされており、見ない(見かけて不快でもすぐに離脱する)手段も提供されている空間だった。
本稿はこの問題を三つの軸から検討する。
第一に、インターネット上の「グレーゾーン」が持つ社会的機能を理論化し、その縮小がなぜ損失であるかを論じる。 第二に、私企業による事実上の検閲に対する制度的対抗手段を検討する。
第三に、グレーゾーンの価値が社会的に不可視であるという認知問題に取り組む。
本稿のスタンスを先に明示しておく。根底にあるのは「カオスの良さ」——秩序立てられていないものの中に予想外の価値が生まれるという個人的体験への信頼である。そこから導かれる原則や主張は以下の通り。
違法でないあらゆる表現が存在できるべきであり、その表現の幅は可能な限り広くあるべきだ。
可能な限り多くのユーザーに最高のUXが与えられるべきだ。
インターネット上の情報は、受信しない手段も適切に提供されるべきだ。
直接危険ではない驚きは良いものだ。銃弾が飛んでくる社会は悪いが、言葉で喧嘩できない社会もまた悪い。
2 グレーゾーンとは何か
2.1 定義
本稿における「グレーゾーン」を、規範的には明確に合法とも違法とも、健全とも不健全とも分類できないが、参加者間の暗黙の合意によって秩序が保たれている空間と定義する。
この定義の核心は、秩序の維持主体にある。法や利用規約ではなく、参加者の文化的暗黙知が秩序を維持している。冒頭の配信において「負けていい」「恥を共有する」というルールは、いかなる規約にも書かれていない。参加者が自発的に内面化しているからこそ機能する。トップダウンの規範では記述不可能な秩序——ハイエクの言う自生的秩序(spontaneous order)——がグレーゾーンの本質である。
2.2 グレーゾーンの社会的機能
(i) 通過儀礼の場
現代社会では、かつて共同体が提供していた通過儀礼——性的な成熟、恥の克服、集団への受容——を経験する場が構造的に不足している。冒頭の配信は、性的経験の少なさという通常なら隠したい属性が共通言語として肯定され、「明らかに勝てない相手に順番に挑んで、負けて帰ってきた者を迎える」という通過儀礼の構造を自然に生成していた。グレーゾーンはこの種の空白を埋める。
(ii) リスク引受けの訓練場
公園の遊具撤去問題との類比が有効である。遊具で子供が怪我をする「リスク」は、同時にリスク判断を学ぶ機会でもある。撤去すればリスクはゼロになるが、リスク判断能力の発達機会も失われる。同様に、グレーゾーンでの性的コミュニケーションの失敗は、安全な環境でのソーシャルスキルの訓練として機能する。失敗が許容される場の消滅は、人間関係スキルの学習機会の消滅と同義である。
(iii) 創発的秩序の実験場
グレーゾーンの秩序は設計されたものではなく、参加者の相互作用から創発的に生まれる。この自生的秩序は、制度的な規制が想定しないタイプの社会関係を実験的に生成する場として機能する。冒頭の配信では、プロレス的な勝敗構造、プロデューサー兼チャンピオン兼カウンセラーという多重役割、非商業性に基づく自発性の連鎖といった、既存のどのカテゴリにも収まらない社会関係が創発していた。
(iv) 感情のセーフティネット
社会的に「弱い」とされる属性——性的未経験、孤独、過去の傷——を開示しても安全な場を、グレーゾーンは非公式に提供する。公式の制度(カウンセリング等)ではカバーしきれない領域を、参加者の相互承認が補っている。
グレーゾーンの排除に対して、「アダルトコンテンツは専用の場所でやればいい」という分離論がしばしば提起される。この反論は、分離が不可能なコンテンツが存在するという事実を見落としている。
ToLOVEるの面白さは少年誌に掲載されているからこそ成立する。成人誌に移せば「刺激の少ないエロ漫画」になり、あの独特の緊張感——「どこまでやるのか」というスリルと、少年誌の枠の中でギリギリを攻める作者の技巧への感嘆——は消滅する。エロコメというジャンルの読者は、過激さが極まったエロ漫画を求めているわけではない。全年齢向けコンテンツの文脈の中に性的要素が混在することで生まれる、相対的な際どさに面白さを見出している。
さらに、分離が不可能である理由はコンテンツの静的な構成比率だけではない。二つのモードの間を行き来する運動そのものが快楽の源泉になっている場合がある。
冒頭の配信を参与観察した実感として、あの場の感覚はエロ2:面白8くらいの比率だった。内容の大部分はコメディであり人間ドラマである。しかし重要なのは、その2割の性的要素と8割の笑いが交互に現れ、注意がエロとコメディの間を振動し続けること自体に面白さがあったという点だ。笑っていたら急に声のトーンが変わり、性的な緊張が走る。その緊張がチャット欄の野次で笑いに変換され、また戻る。この振動の頻度と予測不可能性がコンテンツの本質であり、どちらか一方のモードに固定した瞬間に全体が死ぬ。
これは音楽における転調の快楽と同じ構造を持つ。ずっと同じ調で進む曲より、転調する瞬間に脳が活性化される。そして転調は、二つの調が同じ曲の中に共存しているからこそ成立する——別の曲に分けた瞬間に転調は消える。エロをエロ専用の場所に、コメディをコメディの場所に分離することは、曲を調ごとに分割して別々に再生するようなものだ。技術的には可能だが、音楽としては死んでいる。 元のエッセイで「チャンネルの分離」——笑いはチャット欄と男たちの会話から来る、エロは女性の声から来る、入力チャンネルが違うから干渉しない——と分析したが、これは干渉しないからこそ注意が二つのモードの間を自由に行き来でき、その振動自体が快楽になるということだった。映画でいえば画面でコメディが進行しながらBGMだけが官能的という状態であり、画面と音声を別々の作品として分離すれば何も残らない。
つまりグレーゾーンの排除は、既存コンテンツの移動ではなく、あるカテゴリのコンテンツの存在そのものの消滅を意味する。人間の経験がそもそも「エロ」と「そうでないもの」に二分できないのと同じで、コンテンツもまたグラデーションの中に面白さの鉱脈がある。会話のトピックは二分できるかもしれないが、人間を二分することはできない。ごちゃごちゃしたものの面白さは、整理によって失われる。 しかもこの「エロ2:面白8」という比率自体が、当該配信が「性的コンテンツ」としてカテゴリ分類されること自体の不当さを端的に示している。内容の8割はコメディであり人間ドラマなのに、2割の性的要素があるだけで「性的コンテンツ」として一律に処理される。これは過剰包摂の最も具体的な実例である。 3 グレーゾーンはなぜ縮小するか
3.1 三つの圧力源
(a) 広告モデルの圧力
広告主はブランドセーフティを要求する。「不適切なコンテンツの隣に広告が出る」リスクを広告主が嫌うため、プラットフォームは実際の害の有無ではなくカテゴリで排除する。表現の自由度はビジネスモデルで変わる——課金モデルのNetflixが広告モデルの地上波より過激な表現を許容できるのは、この構造による。
(b) App Store ゲートキーパー
モバイルアプリはAppleとGoogleのガイドラインに従わざるを得ない。アプリストアは事実上のインフラだが、私企業としてコンテンツポリシーを自由に設定できる。冒頭の配信がアプリ上で行われている以上、二社のポリシーが最終的な存廃を決定する。EU Digital Markets Act (DMA) がサイドローディングを義務化したのはこの問題への一つの回答だが、コンテンツポリシー自体には介入していない。
(c) レピュテーションリスクの非対称性
「性的コンテンツを許容して批判される」リスクと「過剰に排除して批判される」リスクは非対称的である。メディアは前者を報道するが後者は報道しない。報道のインセンティブ構造自体が、プラットフォームの過剰規制を後押しする。
コンテンツを「健全」と「不健全」に分離してプラットフォームを分けると、ユーザーは複数のアプリを行き来しなければならない。YouTubeという使い慣れて十分に高速なプラットフォームの中に多様なコンテンツがあることの価値——これは制度設計の議論では見落とされがちだが、ユーザー体験としては本質的である。「このコンテンツはTwitch、このコンテンツはテレ東biz、このコンテンツは専用アダルトアプリ」と飛び回る体験は、コンテンツの多様性を体験する機会そのものを減少させる。
しかもこれは階層的に作用する。「わざわざアダルト専用アプリをインストールする」という行為自体にスティグマがあるから、グレーゾーン的なコンテンツ——エロコメ、際どい笑い、性を素材にした知的考察——に偶然出会う機会が構造的に失われる。グレーゾーンの価値の一つは、意図せず遭遇する偶然性にあるのであって、専用プラットフォームに隔離した瞬間にその偶然性は死ぬ。
グレーゾーンの縮小は以下のステップを踏み、各ステップは不可逆的に作用する。
Step 1 プラットフォームが成長し、広告モデルに依存する。
Step 2 インシデントが発生する(一つの悪質なケースが報道される)。カテゴリ全体が規制対象になる。
Step 3 規制が正常化する。「以前は許容されていた」こと自体が忘れられる。
Step 4 規制の緩和が構造的に不可能になる。「アダルト容認に戻った」という批判を恐れて、誰も緩和を提案しない。
Tumblrが2018年にアダルト禁止にしてユーザーが激減した後も、禁止を撤回できなかったのが典型例である。一度締めた規制は構造的に緩められない。
3.4 「声がでかい」の非対称構造
「性的コンテンツを規制すべき」という主張は、道徳的立場として組織化しやすく、政治的にも動員しやすい。
一方で「このグレーゾーンには社会的価値がある」という主張は、その価値を理解するために参与観察が必要で、外部の人間には説明しにくく、組織化のコストが極めて高い。グレーゾーンの価値を公に主張すること自体が社会的リスクを伴う——「あのエロ配信を守れと言っている人」というレッテルを引き受ける覚悟が必要になる。
この構造は、日本における性の道徳的否定の歴史的起源と接続する。「性欲そのものを罪」とするアウグスティヌス的道徳観は、宗教的教義の中に組み込まれているから声がでかい。一方で「そうではない」と言う立場は組織化しにくい。性の道徳的否定が明治以降にわずか150年の歴史しか持たない輸入品であるという歴史的事実は、この非対称性を突く有力な論拠になりうる。
4 法的フレームワーク——パブリックフォーラム論からの接近
4.1 パブリックフォーラム論の適用と限界
ただし、パブリックフォーラム論は国家による規制を対象とする。冒頭の配信アプリは私企業であり、憲法上の表現の自由は直接には適用されない。日本法でも同様で、私人間効力の問題になる。 しかし、問題の本質はより深いところにある——インターネット上の「場」の存廃が私企業の裁量によってのみ決まるという構造的問題である。国家が検閲するのではなく、プラットフォームが「リスク回避」として自主的に空間を潰していく。これは国家権力より対抗しにくい。国家の検閲には司法審査があるが、プラットフォームの利用規約違反には異議申立ての実効的な手段がほぼない。
4.2 離脱可能性の原理——「部屋から出れば見なくて済む」 ゾーニングは「そもそも遭遇しないように区画を分ける」という空間的隔離の発想であり、風営法の用途地域規制と同根の思想である。この語を採用すると、ランキング上にタイトルが表示された時点で「ゾーニングの失敗」と評価され、コンテンツ排除の正当化に使われてしまう。
本稿が要求するのは遭遇の防止ではなく、遭遇した場合に即座に離脱できる構造が確保されていること——すなわち、部屋から出れば見なくて済むという条件である。深夜に親の部屋から声が聞こえても、自分の部屋に行けば済む。それを理由に親の行為を禁止する必要はない。
冒頭の配信は侵入性がきわめて低い。自分でアプリを開き、その枠に入らない限り音声も会話も一切遭遇しない。離脱可能性としては完全に機能している。
これに対して、「人気になればランキング上位に表示され、能動的に選択していないユーザーの目に入る」という反論がありうる。しかし、ランキング上にタイトルが表示されることと、そのコンテンツを視聴させられることは別の問題である。深夜に家の廊下を通りかかって親の部屋から声が聞こえたとしても、自分の部屋に行けば済む。それを理由に「親はセックスするな」とは言わない。コンテンツの存在が視界に入ることは危害ではない。不快かもしれないが、その不快はスクロール一つで回避できる程度のものであり、コンテンツの存在そのものを排除する根拠にはならない。
にもかかわらず潰されるのは、プラットフォームの判断基準が「ユーザーへの害の有無」ではなく「ブランドリスク」だからである。コンテンツが実際に誰かを害しているかどうかは、判断の主要因ではない。
実際当該ユーザーはPOPOPO運営から、多数のユーザーからの苦情が来ていると警告を受けている。これを理由にプラットフォーマーがユーザー行動を規制をするのはゾーニングの発想である。離脱可能性を徹底した場合、これは親がセックスしている部屋にわざわざ入り、少しも目に入るべきではないと主張しているようなものと考える。主張自体は個人の自由であるが、離脱可能性が保証されているからユーザー行動は制限しない。親切として、見たくないユーザー向けにミュート機能を提供する。
危害原則の観点からも整理しておく。Millの危害原則は「他者への危害の防止」のみを自由の制限の正当化事由とする。不快や驚きは危害ではない。離脱可能性が機能している以上、能動的にアクセスした者が感じる不快は自ら選択した不快である。そしてディスカバリー層における「存在が目に入る」レベルの不快もまた、回避可能な不快であって、制度的介入の正当化事由にならない。コンテンツ排除は、危害原則ではなくFeinbergの不快原則(offense principle)に依拠した判断であり、その不快は即座に回避可能な程度のものにすぎない。 UIフィルタは「あったほうが親切」ではあるが、「なければ排除が正当化される」わけではない。
4.3 過剰包摂(overbreadth)の問題
表現の自由の法理では、規制が保護されるべき表現まで巻き込んで禁止する場合、「過剰包摂(overbreadth)」として違憲とされうる。プラットフォームの利用規約は憲法ではないが、同じ構造的欠陥を持っている——有害なコンテンツを排除しようとして、文脈の中でのみ成立する価値ある空間まで一律に潰す。
ラチェット効果のStep 2で決定的なのは、カテゴリ内の個別の場の質が一切考慮されないことである。参加者全員にとって善きものであった空間が、「性的コンテンツ」というカテゴリにおけるどこか別の場所で起きた問題とは無関係に、一律の規制に巻き込まれる。
5 対抗手段の制度設計
以下に、グレーゾーンの不当な縮小に対する制度的対抗手段を検討する。いずれも万能ではないが、複数の手段を組み合わせることで、現在の一方向的な縮小に歯止めをかけることが理論的には可能である。
5.1 デュープロセスの義務化
Santa Clara Principles(2018年提唱、2021年改訂)は、プラットフォームにコンテンツ削除の際の通知・理由説明・異議申立て手続きを義務づけることを提唱した。EU Digital Services Act (DSA) はこの方向に一歩進み、大規模プラットフォームに削除理由の説明義務を課した。日本でも2024年施行のプロバイダ責任制限法改正(透明性・アカウンタビリティ確保法)が同様の方向を示している。
課題: 手続き的正義は必要条件だが十分条件ではない。理由を説明されても、その理由が「利用規約の性的コンテンツ禁止条項に該当」であれば、異議申立てが認められる可能性は低い。実体的な判断基準——何を削除してよく何を削除してはならないか——に踏み込まなければ、手続きだけでは救済にならない。
5.2 離脱可能性に基づく法的保護
「適切に離脱可能性が担保された空間での合意に基づく表現は、プラットフォームが一律に排除してはならない」という法的義務を設ける可能性がある。具体的には、以下の要件をすべて満たすコンテンツについて、カテゴリのみを理由とした一律排除を禁止する。
要件1:参加者がコンテンツ内部に自らの意思でアクセスする構造になっており、遭遇した場合も即座に離脱できること(離脱可能性の充足)。
要件2:参加者全員が成人であり、自発的に参加していること(合意の存在)。
要件3:特定個人への直接的な害(ハラスメント、脅迫、非同意の撮影等)が認められないこと。
課題: 私的自治——私企業が自らの場で何を許容するかを決める自由——との衝突がある。また、「離脱可能性の充足」の判断基準を誰がどのように定めるかという技術的問題もある。しかし、プラットフォームが事実上の公共インフラになっている現実を踏まえれば、完全な私的自治を認めることの社会的コストも同時に考慮すべきである。
5.3 コモンキャリア義務の部分的適用
電話会社は通話内容に基づいてサービスを拒否できない。プラットフォームが事実上のインフラになっているなら、同様の義務を課すべきか——この議論はアメリカでTexas HB 20 / Florida SB 7072として立法化され、NetChoice v. Paxton (2024) で最高裁が差し戻した。
挑戦的だが、実現可能性が今のところ全くない基素.icon
5.4 App Storeゲートキーパーへの介入
EU DMAはサイドローディングを義務化したが、コンテンツポリシーには介入していない。ここにさらに踏み込んで、「アプリ内のコンテンツが適切に離脱可能性されている場合、App Storeはアプリ全体の排除ではなく年齢制限の付与で対応しなければならない」という義務を課すことが考えられる。
現行のApp Storeガイドラインは、アプリ内に性的コンテンツが存在する場合にアプリ全体を拒否できる。これは「ある本に一章だけ性的描写があるから書店全体を閉鎖する」に等しい論理構造である。冒頭の配信アプリで言えば、性的な配信枠は全体のごく一部にすぎず、ユーザーはその枠に入らない限り遭遇しない。アプリ内部で離脱可能性が機能しているにもかかわらず、アプリの存在自体を排除するのは、部分の問題を全体の否定にすり替える論理の飛躍である。
5.5 独立レビューボード
MetaのOversight Boardがモデルだが、現状は企業の自主的取り組みにすぎない。これを法的義務とし、コンテンツ削除決定に対する独立した審査機関を設ける。小規模プラットフォームには個別の審査機関設置は負担が大きいため、業界横断の共同レビューボードが現実的である。
課題: 審査機関の構成員をどう選定するかという問題がある。グレーゾーンの価値を理解するには参与観察が必要だが、審査機関の構成員にそれを求めるのは現実的ではない。最低限、「カテゴリのみに基づく判断ではなく、個別の文脈を考慮した判断を行う義務」を審査基準に組み込む必要がある。
5.6 セーフハーバーの再設計
アメリカのCDA 230は「プラットフォームはユーザーのコンテンツについて責任を負わない」という免責を与えると同時に、「プラットフォームが自主的にコンテンツを削除しても責任を問われない」という免責も与えた。この後者の免責が、過剰削除のインセンティブを生んでいる。削除しても何も失わないが、削除しなければ批判されるかもしれない——この非対称なインセンティブが、一方向的な規制強化を駆動する。
反対方向のインセンティブを制度に組み込めば、均衡が取れる可能性がある。具体的には、「離脱可能性要件を満たすコンテンツを一律削除した場合に、ユーザーに対する損害賠償責任を負う」という規定である。これにより、プラットフォームは「削除のコスト」と「放置のコスト」を比較衡量せざるを得なくなる。
課題: 損害額の算定が困難である。グレーゾーンの空間が持つ価値は金銭的に評価しにくく、逸失利益の立証は極めて難しい。また、大量の訴訟を誘発するリスクもある。現実的には、損害賠償よりも行政的な是正命令(過剰削除の是正を命じる権限を規制当局に与える)のほうが実効性が高いかもしれない。
5.7 分散型アーキテクチャ
Mastodon/Fediverse型の連合モデルは、単一のプラットフォーム運営者による一律規制を構造的に回避する。各インスタンスが独自のコンテンツポリシーを持てるため、グレーゾーンに寛容なインスタンスが存在し続けることが可能である。
課題: 第一に、App Storeのゲートキーパー問題を解決しない。ブラウザベースのサービスならApp Storeを迂回できるが、モバイルでのUXが劣る。第二に、分散型プラットフォームはネットワーク効果が弱く、ユーザーの流入が限定的である。第三に、冒頭の配信が持っていた「規模が小さいからこそ成立する」という性質は、分散型アーキテクチャと親和性が高い一方で、発見可能性の問題(新規参加者がそもそも場を見つけられない)を生む。
6 同型性の確認——遊具撤去・パブリックフォーラム・グレーゾーン
公園の遊具撤去、パブリックフォーラムの縮小、インターネットのグレーゾーンの消滅——この三つは同型の構造を持つ。
リスク回避の論理が利用者の便益を考慮しない一方向に進む点において同型である。遊具は「事故が起きたら責任を問われる」から撤去される。パブリックフォーラムは「治安が悪化したら批判される」から閉鎖される。グレーゾーンは「問題が起きたら炎上する」から排除される。いずれも、リスクをゼロにするという判断が、利用者の便益——リスク判断の学習、表現の場、通過儀礼の場——を考慮せずに行われる。
そして三つとも、意思決定の場に当事者の声が届かない点で共通する。遊具で遊べなくなった子供も、配信を失ったコミュニティも、意思決定者に対してロビイングする手段を持たない。「声がでかい」の非対称構造がここでも作動する。
7 グレーゾーンの不可視性——受益者が防衛者にならない構造
少年ジャンプの読者は、ToLOVEるやゆらぎ荘が「グレーゾーンの産物」だと意識していない。楽しんでいるのに、グレーゾーンの縮小に反対する動機を持たない。YouTubeで際どいコメディや性教育的コンテンツを見ている人は、それが広告モデルの圧力で消えうるものだと認識していない。
YouTubeの例はあまりいい例ではない。過剰な自己検閲をよく見かける基素.icon
つまり、グレーゾーンの恩恵は受けているが、グレーゾーンの防衛には動員されない。規制側は「これは不適切だ」と明確にラベルを貼れるが、受益側は自分が何の恩恵を受けているかすら言語化できない。この認知の非対称性が、「声がでかい」の非対称性をさらに増幅する。
ここから導かれるのは、制度設計以前の戦略——認知の提供——の必要性である。具体的には以下のアプローチが考えられる。
「もしグレーゾーンがなかったら消えるもの」の可視化。 ToLOVEる、深夜アニメの際どい回、YouTubeの性教育チャンネル、ニコニコの下ネタMAD——これらが「性的コンテンツ」として一律に分類されたらどうなるかを具体的に示す。抽象的な「表現の自由」ではなく、「あなたが好きなあれが消える」という具体性が、認知の転換を促す。
グレーゾーン縮小の歴史的実例の共有。 Tumblrのアダルト禁止とユーザー離散、YouTubeの広告ポリシー変更で消えたチャンネル群、FOSTA-SESTAによるセックスワーカーの安全の毀損——過去に実際に起きた損失を記録し、「次はあなたの好きなあれかもしれない」という想像力の回路を開く。
グレーゾーンの楽しさそのものの伝達。 冒頭の配信についてのエッセイが試みたように、グレーゾーンで何が起きているかを、参与観察に基づいて具体的に記述する。抽象的な権利論ではなく、「そこで何が面白かったか」を伝えることが、最も直接的な認知の提供になる。ただしこれは、プライバシーとの緊張関係を伴う——冒頭の配信が「半クローズドかつアーカイブなし」を前提としていたことを尊重するなら、記述は抽象化・構造化せざるを得ず、実感の伝達力は低下する。この二律背反は、グレーゾーンの不可視性を構造的に維持する力として作用する。
8 結論——何が失われつつあるか
本稿は、インターネット上のグレーゾーンが単なる「規制の隙間」ではなく、通過儀礼、リスク訓練、創発的秩序、感情のセーフティネットといった社会的機能を持つ空間であることを論じた。さらに、グレーゾーンでしか存在しえないコンテンツ——エロとそうでないもののグラデーションの中にのみ生まれる面白さ——が、二分法的な規制によって存在そのものを消されることを示した。
そしてこの空間が、広告モデル・App Storeゲートキーパー・レピュテーションリスクの非対称性という三つの圧力によって、ラチェット効果で不可逆的に縮小していることを示した。
制度的対抗手段としては、デュープロセス義務化、離脱可能性に基づく法的保護、コモンキャリア義務の部分的適用、App Storeへの介入、独立レビューボード、セーフハーバーの再設計、分散型アーキテクチャの七つを検討した。いずれも単独では十分ではないが、複合的に適用することで、現在の一方向的な縮小に歯止めをかける可能性がある。
しかし、制度設計以前の根本的な課題として、グレーゾーンの受益者がグレーゾーンをグレーだと認識していないという不可視性の問題がある。認知の提供——「あなたが楽しんでいるあれはグレーゾーンだ」——が、制度的対抗と並行して行われなければ、グレーゾーンの防衛は動員を欠いたまま進まない。
日本において「性は道徳的に悪いもの」という前提は、たかだか150年の歴史しかない——明治期に不平等条約改正のために西洋法とともに輸入されたキリスト教的道徳観の残滓にすぎない。それ以前の1000年以上にわたって、性は神聖で、美的で、実用的で、道徳的に否定されるべきものではなかった。この歴史的事実は、現在の「グレーゾーンを排除すべき」という規範が、普遍的真理ではなく歴史的偶然の産物であることを示している。
冒頭の配信では、画面上でアニメ美少女に火星とうんこが挑み、音声では生々しい性的会話とプロレス興行が進み、チャット欄では汚い言葉の裏に愛があった。19歳の童貞が敬語からタメ口に切り替えて挑み、それでも負けた。全員が自分の役割を楽しんでいた。そしてその場は、プラットフォームの警告一つで消えた。
この種の場が存在できる余地は、注目と規模と制度の圧によって、インターネットから急速に失われつつある。本稿がその損失を可視化する一助となれば幸いである。