『庭の話』
▼問題提起
今日の人類社会はSNSプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力を持っている p20
第1章が、本書の中で最も文字数おおく書かれている。他の章は30ページ程度なのに対してこの章は50ページ程。ちなみに総ページ数340、全14章。二つの章にわける案もあったらしいが、一つの章とし、問題提起として書き上げたかったらしい。宇野常寛さんのnoteから。
第1章ではSNSの問題点を挙げつつ、今提示されている解決点への批判が書かれている
SNSの問題点
人間間の相互評価が超効率的に行える
いいね一つで評価
いいねの数で認められた感
引用コメントすることであたかも「わかってる感」を出せる
人は「人から評価されること」に弱く、反応したり依存したりする
身体的制限がなくなった(アバター)ことにより誰もが「世界に触れている感覚」を味わう事ができるようになった
anywhereな人びとsomewhereな人びと
XやInstagram等の今の現状はユーザーからのボトムアップで作られている
SNSに対する既にある解決策とそれに対する反論の例として次の例が挙げられている
💡SNSをやめて街に出よう
SNSの問題点は、人間間の相互評価が効率よく行われているところ。
街に出ても、この相互評価による中毒性が弱まるわけではない
つまり、またSNSに帰ってきたらアウト
SNSの力を弱めることが必要
SNSを変えよう
SNSの現状はボトムアップ的にユーザーが作り上げたもの
SNSを新しく作り変えたところで、結局同じ道をたどる
ではどうするか…という解決策として本書が提示しているのが「庭」。人間間の相互評価の力を弱める存在として、相互評価ゲームを相対化するものとして、今我々には「庭」が必要である。と提示されている。
▼「庭」とは何か?
キーワードは[関与できるが支配できない場
私たちは庭に草木を植えることで、庭に「関与することができる」
一方で、庭は常に外の世界にさらされているため草花虫などの影響を常に受け、私たちは庭を「支配することはできない」
この関与できるが支配できない場という存在が、私たちに「何ができて何ができないのか」を再確認させることができる
そしてこれこそがSNSを相対化させ、SNSだけが世界の全てではないと気付かせてくれる
具体例
銭湯
ムジナの庭
▼「庭」と「共同体」
脱SNSとしてよく言われるのが『庭の話』#67bab598736f6c00004f40c0のような「SNSをやめて街に出よう」とか「人との繋がりを強くしよう」と言った内容
自分と相手と言う共同体感覚こそがSNSの力を弱めるもの、と言うことはなんとなく「そうだ」と言う感覚を持つ人も多い
これが間違い
そもそも私たちが、これほどSNSに強く惹かれるのは、私たちがSNSに共同体感覚を持ってしまっているから
人との繋がりをこれほど濃く意識できて、かつこれほど「相手から認められる喜び」を与えてくれるツールは他にない
だから必要なのは、共同体回帰ではなく、全く逆の視点
少し話をずらして怪獣使いと少年(帰ってきたウルトラマン)の話
共同体回帰主義が見えていない共同体の恐ろしさ
基本的に共同体社会で得をするのは強者
共同体社会は村社会
上下関係があり閉じられた社会
弱者は「助け合うこと」に参加できない
ウルトラマン「怪獣使いと少年」の話
100円あれば誰でもパンが買える世界を我々は資本主義で勝ち取った
にも関わらず共同体主義者は「100円を稼げない人たちのため」に助け合う世界を主張する
しかし助け合う世界は「助けてくれない」人を排除する世界
周りの空気をよみ助け合うことを強制する世界のどこが「平等」なのか
ポイントは、孤独でも生きられる社会
孤独は事物とのコミュニケーションをうむ
孤独のグルメ
事物とのコミュニケーションは、SNSを相対化(弱体化)させることができる
孤独でも生きられる社会作りが必要なのではないか、と提案
▼事物とのコミュニケーション
「庭」で行われるのは草花など事物とのコミュニケーション
そこに共同体は必要ない
関与できるが支配できない場としての庭に、もう一つキーワード事物とのコミュニケーションをする場としての庭、を追加
▼戦争と女の話
最終章「戦争と女」の話で、共同体回帰ではなく、関与できるが支配できない場としての庭、事物とのコミュニケーションの場としての庭をどのように取り入れれば良いのかを考察している
「それぞれにとっての庭となりうる場を至る所に常に作り替えながら用意する」
ではなく
結論からいうと、それではうまくいかない、ということが最終章で書かれている
至る所に庭を散りばめてもSNSには勝てない
この展開は痺れた
ここまで丁寧に「庭」について考察されているのに、最後の最後で「庭だけではうまくいきませんでした」と筆者が白旗を振った
▼創作という提案
庭だけでは不十分(それは同時に庭も必要であるがを含む)
最後に、國分功一郎さんの書いた『暇と退屈の倫理学』に触れながら「創作」を取り入れよう、と提案している
創作は事物とのコミュニケーションを生み出す
関与できるが支配できない場にある「自分の影響力の有限性」も自覚させる
しかも創作は「満足させない」
『暇と退屈の倫理学』では満足を生み出さないから記号的消費が終わらない、という負の意味で使われていたが、ここでは「満足しないから事物とのコミュニケーションに熱中できる」という生の捉え方ができた
『庭の話』の創作について
自作ツールの話
毎日夢中になってコードを書いて自作ツールを作っていた
そこには間違いなく事物とのコミュニケーションがあった
どういう見た目が心地よいのか
どんな機能があると良いのか
どういうコードで実装できるのか
そして、それは誰かに認めてもらうという人間間の相互評価は必ずしも必要なかった
『遅いインターネット』につながる話
自作ツールCosenceプロジェクトの話
自作ツールを創作してた時、倉下忠憲さんと自作ツールプロジェクトでやり取りをしていた
時々リアルタイムでやり取りをした時の興奮が印象に残っている
「時々」がみそ。「常に」ではやっぱりダメ
困っていることを書くと、しばらくして新しくページが追加されている
関与できるが支配できない場として機能していたように感じる
数学の話
数学の問題を解いている時も創作に近しい熱中を感じる
解いている時の楽しさ
次はどこへいこう
どっちを使うか
行き止まった。戻ろう
両方に通ずるのは「疲れていてもついやってしまう」
「創作」はそれそのものが目的となる
「遊び」とも言い換えられるかも
▼メタデータ
購入2025/02
読了2025/02/20
▼読んだきっかけ
たまたまnoteで宇野さんの記事を見た
https://note.com/wakusei2nduno/n/n26fcd18b8923?sub_rt=share_b
SNSとの付き合い方のヒントを得たいと思って購入(物理本
#宇野常寛
https://amzn.asia/d/6DgYloB
https://scrapbox.io/files/67adde62146b70555bacce34.png
庭の話の読書ログ