美玉は賢王によって車を照らす
「美玉は賢王によって車を照らす」
今鷹真 訳注
訳文:楚人の和氏の得た玉は賢王である文王の認めるところとなってはじめて美玉とされ、車の前後をてらすほどの名玉となった。
注釈:
車を照らす:車の前後を照らすほどの名玉。「史記」田敬仲完世家に「与魏王会。田於郊、魏王問曰、王亦有宝乎。威王曰、無有、梁王曰、若寡人国小也、尚有径寸之珠、照車前後各十二乗者十枚、奈何以万乗之国而無宝乎」とある。 ***
訳文の「楚人の和氏」云々はどっからきたんだ?
しかし、同一のものであると看破したとき、そこには類稀なる珠玉を巡る数奇な歴史譚が現代まで受け継がれていることに気付く。
2025年追記
そういう伝説がどこかにあるのだろう。
太平記中に説かれる特異な史記の引用も、単なる錯誤ではなく、そういう異本?伝?があるようだ。龍谷大学蔵の英房(太平記18では、後醍醐帝の皇子・尊良親王に貞観政要を進講)「史記抄出」本を抄出するに当たって用いた本文と同系統のものであると推定される。 「太平記作者の依拠した史記の本文」増田欣
一説では、趙の滅亡後に中原を統一した秦に渡り、始皇帝が和氏の璧を玉璽(伝国璽)にしたとされ、その後漢王朝の歴代皇帝もその玉璽を使用していたとされる。「三国志演義」などでもその説を採っているが、仮に和氏の璧=伝国璽だとしても、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に伝国璽は紛失してしまっており、現存する可能性は低いと考えられている。 ***
秦の始皇帝より以前は、周王朝37代にわたって保持されてきた九鼎が帝権の象徴であり、それを持つ者が、すなわち天子とされた。 周が秦に滅ぼされた時に、秦は九鼎を持ち帰ろうとしたが、混乱の最中に泗水の底に沈んで失われたという。秦朝は新たに玉璽を刻し、これを帝権の象徴とした。 祭器である鼎から、公文書の決裁印(官印)である印璽への権威材の交代は、国権の基盤が祭礼から法・行政機構へと移行したことを示すものであり、春秋時代末期に起こった中国の社会構造の大転換を象徴するものと言える。