2025/5/11
#生活ロギング 2025/5 2025/5/12 - 2025/5/10
読書記録
『中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)』
『街とその不確かな壁(上)(新潮文庫)』
『基本文法から学ぶ 英語リーディング教本』
後で読む 読む・書く・考えるのトライアングル|倉下忠憲
/practicefield/2025/05/11
『基本文法から学ぶ 英語リーディング教本』をやろうかな
黄色リー教なかま、とてもうれしいです。
わたしも亀の歩みでとてもゆっくりですが、コツコツ自分のペースで進めていきます。
なにせとても挫折しやすい本で僕も幾度となく途中で止めています。
あとご存知かもしれないですが、著者の薬袋先生のwebページに問題文の白文プリントがあります。もし問題をやる際はこちらを利用すると手間が省けるかもしれません。
https://www.minai-yoshirou.com/page557803.html
会計の本質は情報整理 /practicefield/2025/05/11
これによってお金には表せない非金銭的価値、例えばブランドや需要、感情や思いは排除されます。
会計の限界ですが、例えば同じポロシャツでも『POLO』のロゴマークが胸元にワンポイントあるだけで10倍ぐらい値段がちがうことがあります。
この場合は、ポロシャツの機能や生地の他に、POLOのブランドが入っているから売れていると思います。
では企業会計としてPOLOのブランドの価値はいくらなのか、というとこれを正確に算定することはなかなか困難です。
しかしながら、POLOのブランドは、POLO社の企業価値つまり企業のもつ資産の一部とも考えられます。
その意味で企業の資産価値を会計の資産の金額だけで表現することに限界もあるという意味で書きました。
(もっとも最近の企業会計はこうした無形資産も算定しようという動向が一部あります。企業買収などではこの無形資産の価値評価が非常に重要になるので)
同様に例えば1点物の絵画で美術市場で全く評価されてなくて時価が1万円と低い場合でも、もし潜在的に1千万円払ってでもほしい人が一人でもいれば、本来的にはその絵画は1千万円の価値があるべきです。
しかし経済活動や経済市場で表出されない潜在的な需要や特定の感情をくみとって会計に表すことが基本的にむずかしいので、絵画の価値を1万円と評価してしまう誤謬に似た処理になると思います。
/kohtecho/250511
自分の日常は失敗体験だらけだ
おそらくですが実際は失敗体験ではないのではないと、僕は思います。
僕の想定では、まず母集団を仕事や生活を含めたすべての時間の行動としています。
そのなかで想定と違った結果になった行為のみを失敗体験として考えます。
この場合、失敗体験はある特定の行為のみに限定されるので、一部の行為が失敗だからといって一連のタスクやプロジェクト全部が失敗だとは考えていません。
むしろ一部に失敗があったのに、一連のタスクやプロジェクトの全体を失敗としてしまったら失敗体験に対する解像度が粗すぎるのではないかと思います。
もちろん、一部が失敗してしまった結果、全体として思うような結果に至らなかったこともたくさんあります。
仮に全体として思うような結果に至らなかったことを全体の失敗として定義します。
例えば、テストで80点未満が再テストになった場合、75点しか取れなかったら再テストなので全体の失敗に該当するかもしれません。
しかし適切な失敗体験としては、失点してしまった▲25点部分のみに限定をすべきです。
これは慰めやポジティブ思考ではなく実際問題として、失敗体験を▲25点に限定せずに仮に全体の失敗に引きずられてしまうと、ここから再テストに向けた勉強をする範囲を、実際は▲25点だけでよいはずなのに正答した範囲も含めて勉強する羽目になります。
全体の失敗に至った場合でも適切に失敗体験の箇所を見極める必要がありそうです。
またその意味で、全体の失敗を客観的に振り返ると、全体でもごく一部に限定されるのではないかとも考えています。
(とはいえ全体の失敗を犯したときに、なかなか冷静に失敗を分析することは感情的に至難でもありますが)
なので失敗体験だらけで日常を過ごすことはできず、大半の行為は想定通りに行えているのではないかと推察します。
/rashitamemo/2025/5/11
失敗を、単にうまくいっていないことと捉えるか、想定した結果が得られなかったことのみを捉えるかは、存外に「人生観」に影響してくる気がする。
失敗を単にうまくいっていないことと捉えることは、上記の全体の失敗に似ていそうです。
うまくいかなかったという全体の結果だけを捉えて失敗と認識するイメージです。
たしかに失敗体験と全体の失敗を区別できるかどうかは、ひいては人生観まで影響してきそうです。
ポジティブ思考とネガティブ思考と同じような分野ですが、ちがう切り口の捉え方なのかな。
子育ての多くは思い通りにはいかない(それはつまり上の定義の失敗の連続を意味する)
なぜか? システムを変化させようとする行為だからだろう。小さいレベルとは言え「生態系」を思い通りにするというくらい難しい話。
ここでいうシステムは、具体的には1歳の娘のなかにあるシステムを、子育てによって変化させていくことでしょう。
だとしたら娘の中には娘のシステムがある、というのはけっこう僕にとって重要な気づきでした。
性格とか、認知能力とか、発育段階とかいろんな言葉が子育て過程で出てきますが、これをまるっと娘のシステムとして考えると、とてもしっくりきます。
そうなると、ひとはそれぞれ自分のシステムを持っています。
何よりやっかいなことに、自分自身のシステムについて適切に現在の状況を把握することが困難なので、それを改善させていくこともなかなか難しい。
そうなると倉下さんの下記のことばにとても納得できました。
でもって、それは「自分育て」についても同じに言える。他人を動かすのは難しいから、自分を変えようという自己啓発のメッセージがあるが、自分を難しいのだって同様に難しい
このログなどをつうじて、少しずつでもいいから自分のシステムを把握して改良していきたいですね。
/choiyaki/20250510日誌
ただ単に失敗するなら、簡単にできる(その失敗によって引き起こされる問題をまったく気にしないのなら)。なので、ここで言われている失敗には該当しなさそう。
失敗=想定した結果が得られないこと、と考えてます。2025/5/10
したがって単に失敗すること、例えば全く物理の勉強をしないでテストを受けたら0点だった場合、失敗体験とは言えないと思います。この場合、物理のテストで正答ができると想定していないと思うので。
そもそもどうやって「どうやったら失敗できるか」を考えるように仕向けることができるか。
失敗を許容する文化やマインド、環境、過去の経験、などなど。
失敗体験を許容できる環境も心理的安全性の重要な要素だと思いました。
または失敗をしたときのリカバリーやプランBなど入念な事前準備も失敗体験を推進する手助けになるかもしれません。