全体の失敗
一部が失敗してしまった結果、全体として思うような結果に至らなかったこと
僕の想定では、まず母集団を仕事や生活を含めたすべての時間の行動としています。
そのなかで想定と違った結果になった行為のみを失敗体験として考えます。
この場合、失敗体験はある特定の行為のみに限定されるので、一部の行為が失敗だからといって一連のタスクやプロジェクト全部が失敗だとは考えていません。
むしろ一部に失敗があったのに、一連のタスクやプロジェクトの全体を失敗としてしまったら失敗体験に対する解像度が粗すぎるのではないかと思います。
もちろん、一部が失敗してしまった結果、全体として思うような結果に至らなかったこともたくさんあります。
仮に全体として思うような結果に至らなかったことを全体の失敗として定義します。 例えば、テストで80点未満が再テストになった場合、75点しか取れなかったら再テストなので全体の失敗に該当するかもしれません。
しかし適切な失敗体験としては、失点してしまった▲25点部分のみに限定をすべきです。
これは慰めやポジティブ思考ではなく実際問題として、失敗体験を▲25点に限定せずに仮に全体の失敗に引きずられてしまうと、ここから再テストに向けた勉強をする範囲を、実際は▲25点だけでよいはずなのに正答した範囲も含めて勉強する羽目になります。
全体の失敗に至った場合でも適切に失敗体験の箇所を見極める必要がありそうです。
またその意味で、全体の失敗を客観的に振り返ると、全体でもごく一部に限定されるのではないかとも考えています。
(とはいえ全体の失敗を犯したときに、なかなか冷静に失敗を分析することは感情的に至難でもありますが)
なので失敗体験だらけで日常を過ごすことはできず、大半の行為は想定通りに行えているのではないかと推察します。