宿命
渋谷望が『魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』(青土社、2003年 asin:4791760689)のなかで「宿命論の台頭」と指摘する文脈で言及される。 渋谷は、社会全体としてセキュリティ意識などが高まりリスク社会化が進展するなかでいま降りかかりつつあるのは、「国や企業に頼らず、自己責任で保険や年金なども取り決めせよ」とスローガンを掲げながら、「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」というダブルバインドなメッセージであると指摘。特に「若者たちはこの分裂したメッセージに対処するために、宿命論を招きいれざるをえない」と分析している。 こうした「リスク社会化」と「自己責任性の肥大」による宿命観の台頭は、社会の二極化・階層分化(山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房、2004年 asin:4480863605))、ニートの増大、教育におけるインセンティブ・ディバイド(苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社、2001年 asin:))などの問題を貫いている。 ised@glocom - ised議事録 - 5. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(2) (中略)僕は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年 asin:4061495755)で、大雑把に言えば、「昔のオタクはわざわざオタクであることを選んでいたんだけれど、いまのオタクは無意識にオタクになっている」ということを書きました*2。この部分は、「無意識なオタクはオタクなのか」的な反論を引き起こしたのですが、だからこそ現状は問題だと思うんですよ。結局、人々があるライフスタイルを自覚的に選んでいるのであれば、それがどれほど奇妙であっても、動物的でもなんでもない。犯罪者を選ぼうがニートを選ぼうが、そこに自覚があるのであれば、「社会に抵抗する」という意味で社会的な存在であって、本当の問題ではないと思うんですね。
問題なのは、「選ばない」というより、そもそも「選んでいると思えない」ひとびとが増えていることでしょう。鈴木謙介さんがよく引くように、渋谷望が「宿命論の台頭」といっている現象です。自分の人生を宿命的に捉えてしまう人々が増えていて、「なんとなく年収三百万だしこんな人生なのかな」で終わってしまう(笑)。「おいおいそうじゃない、もう少し世の中いろいろあるはずじゃないか」といっても、別の可能性をイメージできない。それは社会空間に参与していないからです。こうした脱社会性の蔓延こそが現代社会の問題だとすれば、自覚させればいいという対策では歯が立たない。 第3回設計研で東浩紀と鈴木謙介は、こうした視点から、情報社会における「賢い消費者」という前提を批判的に検討していると同時に、こうした宿命論が革命への意識を抑えてしまうことで、オルタナティブな社会を構想する手がかりが失われるのではないか、と問題提起している。(関連isedキーワード:「再定義可能性」) ised@glocom - ised議事録 - 7. 設計研第3回: 共同討議 第1部(5) ■ データベースによるエンハンス
同様の問題を、鈴木謙介は「データベース化」として捉えている。 ised@glocom - ised議事録 - 7. 設計研第3回: 共同討議 第1部(5) まさにそうした流動性が担保されているにもかかわらず、人々はある種の宿命観に基づいて現状を選びつつあって、オルタナティブな社会をイメージできなくなりつつあるということだと思うんです。これは何度か倫理研でも言及されているのですが、渋谷望が指摘する、ネオリベラリズム権力がある種の「宿命論」を呼び起こしているという問題です。つまり、流動的に見えていたとしても、それはある種の欲望とデータベース的なシステムが相互循環的に作用し、「Googleでいいや、Amazonでいいや」というかたちで依存していく。つまりAmazonを利用することで履歴が蓄積され、その履歴に基づいて自己の欲望を生産し、さらにAmazonを利用するというマッチポンプがある。そこでは、可能性としては他なる可能性があるにもかかわらず、それしか選ばなくなってしまう。こうした宿命論の呼び出しという問題は僕も重要だと考えています。