2021/09/01-2021/09/04
とはいえ、つまらなくてありきたりな話をつたない語りで語られたら、読むほうはたまったものではない、みたいなのは残るだろうけど。
大真面目にやる、違和感を丁寧に消す。
しょぼくなりそうな絵を回避する。
これは、ただ、
「お金ばかりたくさんかかるのに、多数の人にはアピールできない」とか、
“大仰なのにしょぼい”を回避すると、「大衆を一目で驚かす」ことのできる絵がなくなってしまうんよな。
テキストエンハンサー
スキーマエディター
自分の既記憶はハイパーにジャンプできても、他人の思考はリニアにしか読み取れないのだろう。
その意味で、「本」に見出しや入れ子構造はなくてもいいけど、リニアは無くせないのだろう
「アウトライナーを作った人ですらこれで何ができるか正確には分かってなかったのでは?」というのは、たぶんそうなのだろう。
そして、仮に分かってたとしても伝えられる名前を付けるのは難しい。
「そんな目次を思い浮かべてよ。あんな感じで行頭に段差をつけて行を管理して、構造を操作できるようにするんだよ」と言えば、“見た目”は言葉で伝えられる。
でも、「肉をまず投げ込む」という動作イメージは伝えられない。逆に、仮に「テキスト・スピンドル」とか名付けたとしても、どんなUIで使っていくのかは伝えられない。
⇒うむ。見事に全くわからん。
わからんが、しかし、丸めてもらっても、トリミングしてもらっても、分かることが増えることはなさそうなので、「分からないものがあることが分かる」ぶんだけ情報量としては上、か?
「SVG形式」の時点で初耳だし、
Inkscape
Apache FreeMarker
なんかも聞いたことない。
古い2台のノートパソコンをサーバーとクライアントにして、家庭LANを構築してみました。当時はLinuxブームが始まったころで、創刊された雑誌を見ながら2日ぐらいかけてカーネルを再構築、カーネルパニックになってがっかりするなど、試行錯誤のなかでいろんなことを学びました。
Apache HTTP Serverの設定をミスるとCSVなどに保存した個人情報が世界中に公開されてしまうこと、Sendmailの設定ミスはSPAMの踏み台になってしまうことなど。
⇒この辺がかろうじて、何やってるのかイメージできる、または「やったら調べながらでやれるかも」の、ぎりぎりのラインかな。
「CGIで集計」も分からないし、
wgetでHTMLをダウンロードし、sedによる正規表現で必要なタグを抽出、内容が更新されていればメールするという、かなり昔につくったサイト監視プログラムで、これをJavaとOpenJFXで書き直しました。
⇒「HTML」と「正規表現」、「Java」が用語としてかろうじて分かる程度。
『必要なタグを抽出』って部分は、具体度高くない動詞なのに、もはや何をしようとしたのかのイメージも浮かばないや。
で、
RPA
JVM言語
BeanShell
Clojure
といった単語はまた、まったく聞いたことがないっすね。
「鉄鉱石はトンカチにもノコギリにもなれる可能性のカタマリ。けれどクギも打てず、木も切れない。そのうちサビて粉々になってしまう。
いちどトンカチになったものはもうノコギリやクギになる可能性は消えてしまう。でも」
「とても使い勝手のよいトンカチになれば、ありとあらゆる現場に持って行きたくなる。その建築現場はお医者さんの家かもしれないし、女優の家かもしれないし、伝統建築かもしれない。トンカチの道を極めたら、かえって無限に世界が広がることもあるかもね」
「企業へのインターンの制度広げたいって言ってた学生、同じ年頃で、そんなの広がるわけないと思ってたら、今ではすっかり普及してる。国会議員になりたい、と言ってた学生三人とも一度は国会議員になってる。やりたいことを口にし続けると、いつかチャンスがめぐってくるよ」
どうやら、人間は能動的に動いた結果、何かしら事態が変化したという感覚(能動感)があると、意欲が湧くようにできているらしい。私は、なるべく気づきやアイデアは本人に言わせ、それを刺激促進するために「驚く」ようにした。
ユマニチュードは、介護者が語りかけたり触れたりして刺激を伝えるものの、本人が反応するのを待つ。
能動的に動くのを待つのは時間がかかり、教える側としてはつきあってられない、という気持ちはわかる。しかし駆け足で教えることで子どもや学生、部下は能動感が得られず、やらされ感(受動感)ばかりが強くなり、やがて無気力になったり、自暴自棄になったりするのかもしれない。
「驚育」
「僕の本当にやりたいことは、こうした方が楽しく生きられるんじゃないか、こうした方が世の中うまく回るんじゃないか、という意見発信。だけどそれでは誰もお金をくれない。だからアルバイトで研究してる。もちろん仕事をおそろかにしない。ただ、本当にやりたいことは仕事と一致しなくてよいと思う」
毎月、給料日になると、ようやくここまで辿り着いたか、とホッとするのと同時に、次の給料日まであと1か月もあるのか……と怖くなるのです。月末の仕事を終えると「これでとりあえず、来月は給料をもらえるな」と思って、コンビニでちょっと高いデザートを買うこともあります。
給料日だけが楽しみな大人になんか、ならぬつもりがなっていた。悲しいことです。
「一時の快楽に溺れるな」と言われがちだけれど、「一時の快楽」こそが、生きる理由なのかもしれない。
僕の両親はふたりとも50代で亡くなっていて、「こんな悟りには程遠い年齢で人生を終えてしまったのか……」と、そのときの両親の心境を想像しようとしてしまうのです。結局、わからないというか、うまく想像できている自信がないのだけれど。
ウソだろ、50代って、こんな未熟で未練もいっぱいある年齢だったのか。いま「あなたはもうすぐ死ぬよ」って言われても、次男の小学校卒業くらいまで、待ってくれないか、いやせめて来年の日本ダービーくらい見せてくれ……」と足掻くだろうなあ。
「コイントスの結果に従った」という人たちは、自分の意思ではなく、偶然によって「現状維持」か「変化」を決めたということになる。では、この偶然によって変化を選んだ人は、現状維持を選んだ人に比べて幸福になっていたのだろうか。
もし、人々にバイアスがなく、熟考した後、悩んで運にまかせていたのなら、現状維持を選んだ人と変化を選んだ人の幸福度は変わらないはずだ。
ところが分析の結果、コイントスに従って変化を選んだ人の方が、現状維持を選んだ人よりも幸福度が高く、よりよい選択だったと考えていることが多かった。
つまり、私たちには現状維持バイアスがあるので、熟考を重ねたと思っていても、現状維持を選びがちであるということだ。
⇒これ、4つ目の段落への話の持っていき方は妥当なのだろうか?
「変えたほうが幸福感が高い」のは、動作で主観が変化したとか、その選択肢に愛着が湧いたという可能性もあるのでは?
「選択に直面するとき、人々は過度に用心深いかもしれない」ことを示唆するだけではなく。
⇒世界と人生には「正解」がないわけだから、正解で幸福、という組み合わせ以外に、「別に正解でなかったが、変えたことで“幸福”ではある」という状態になることもあるのでは。
「毒親論」はACという概念と同じように、核家族をノーテンキに褒め称える「家族は天国」論へのカウンターになったと思います。実際、家族や家庭というのは、立場の弱い子どもや老人にとっては地獄になりえますから。
――『「毒親」の子どもたちへ』では、「毒親論」を批判されていますね。
最初にお伝えしておきたいのですが、私は「毒親論」を批判しているのであって、「毒親」と呼ばれる親たちを擁護しているのではありません。また、この本を単純な「反毒親論」にはしなかったつもりです。
「アダルト・チルドレン」という言葉が使われ始めたときも、「子どもっぽい大人」や「大人っぽい子ども」を批判するための言葉として誤用され、便利に使われました。が、ACというのは他人にレッテル貼りをしたり、バッシングしたりするための言葉ではありません。当事者が、自分の行動パターンや感情を把握するための言葉です。
「毒親」か「そうじゃない親」かが安易な二元論で語られ、親をバッシングするための言葉になっているようです。
だいたい人間のように多面的で多様なものを、「毒親」と「そうじゃない親」に簡単に分けることはできません。「親の価値観を押しつけられてきた」という理由で、自分の親を「毒親」であると主張する人がいます。「女の子らしくすることを強要されて嫌だった」「勉強ばかりさせられた」と。確かに子どもにとっては迷惑なことです。が、親だって子どもが社会に出たときに困らないようにと考えて、そうしたのでしょう。いたらない親ではあったでしょうが、そもそもほとんどの親はいたらない親です。
――しかし、これまでの日本では「親には感謝しなきゃ」と周囲から言われ、なかなか親を批判することは難しかったと思います。その中で「毒親論」は風穴を開けたと感じますし、自分の親を「毒親」だと認めたことで楽になった人もいるのではないでしょうか。
私のクリニックには、さまざまな患者さんが訪れますが、最近のブームもあり、みなさん「私の親は毒親なんです」と言う。しかし、親に目を向けすぎると自分に目が向かなくなる。現在の問題も見えなくなる。そちらのほうが問題でしょう。
なぜ自分はこんなつらい目にあっているのか、それを説明する言葉がほしくなって「『毒親』に育てられたから」だと考えます。つまり、「毒親」という言葉は、自分の現在の状況を表しているのです。
本当のところ、人生においては親以外のさまざまな人との関わりがあり、それによる挫折があるはずです。それなのに「毒親」という言葉を安易に使うことによって、親子間だけの直接的な原因結果論と考えるのは単純すぎるでしょう。
そうして「自分の親が毒親だから、こんなにつらいんだ」と思って親を責め続けるのは、他罰的な考え方(他罰感情)と言えます。これは「こんな自分で申し訳ない」という自罰感情の裏返しではないでしょうか。他罰も自罰もよい変化をもたらしませんから、どちらも手放したほうがいいと思っています。
よく私は患者さんに「治ったら何をしたいですか?」と聞きます。そうすると、みなさん「学校に行きたい」「仕事をしたい」と答えますから、それは本当に自分がしたいことなのかもう一度考えてもらいます。
自分にとっての目標を「自我理想」といいます。自我理想が見えないときに、人は疑心暗鬼になり不安になってしまうのです。
逆になりたい自分に近づこうと努力すると、自罰のエネルギーを他に向けることができます。ただし、自我理想は何でもいいというわけではありません。うまく設定してやることが大事です。
――自我理想をうまく設定する……、難しそうですね。
たとえば女性の場合、「自我理想」を痩せた人に設定してしまうことがあります。「痩せれば幸せになれる」と誤解した結果、必要以上に痩せすぎてしまうのです。これは間違った設定の仕方ですよね。
まず、私は彼女に「痩せる」以外の目標を立ててもらいました。彼女は認定医になることを目指すことにしました。「痩せた女性」から「認定医」に自我理想をチェンジさせたわけです。そうすると、いやが応でも体力が必要ですよね。
外見から入っていくのも効果的です。目標に一歩でも近づこうという意欲が、生活を秩序だてるからです。自我理想があれば、それに近い行動かどうかで日常生活の場面でもYESかNOか判断できますから、少なくとも砂漠の中で一人迷子になっているような状態にはなりません。日々の指針になるわけです。
⇒すごい。ほとんど全段落引用したいくらい、「つなぎ」成分や冗長さがない。
Punkのそもそもの意味が「Worthless(役立たず)」や「Inferior(劣っている)」や「Rotten(腐っている)」であるのは周知の通りであり、PunkはPunkであることを引き受け、むしろPunkであること(既存の価値観にとって最低であること)こそがクールなのだと開き直り、成長性や生産性を求める、既存社会における能力/努力主義を拒絶した。だからパンクスは楽器が下手だし、破れた服を切るし、後先考えずに衝動的に行動するし、無責任だし、矛盾を孕む。一見して意味のとりにくいその支離滅裂な言動が、行動が、画一化を求める社会の規範を撹乱させ、人間の生き方を複数化させる。
⇒あー、だとするなら私は、人生の中で一時期たりともパンクを好意的に見たことがないかもしれん。中二病の時期であってすら。 反体制や反権力の気持ちはそれなりに持ってた時期があるとしても、パンクはない。
現在パンクと見なされるパンクが、健康的で・道徳的で・制度的なもので、スタイルとファッションに固執するものであり、私が思う「アティテュードとしてのパンク」が、もう現場のパンクにないのなら、今後私はパンクという言葉で自分を語るべきではないのかもしれない。たぶんそうだろう。
グッドバイ・パンクロッカーズ。
今日が私の卒業の日になる。
今までありがとう。
大好きだった。
「だって、最終的に第一項目を操作するんでしょ。だったら最初からそれを操作しとけばいいじゃん」という声がどこからともなく聞こえてくる。その声は、インターネットのインフルエンサーのように自信に満ちあふれているので、うっかりと信じそうになってしまう。でも、そうじゃないのだ。その二つの行為は等価でもなければ、下位互換・上位互換でもない。
一体、世の中のおっさんは、何が楽しくて生きているのか、さっぱりわからなかった。
激しい恋愛とか、長期の旅行とか、遅くまで飲み歩くとか、朝まで踊るとか、徹夜で文章を書いて昼まで寝るとか、例えばそういうことだ。
だから昔から40代になったら人生は終わりだなと思っていて、実際に自分の周りの40代の男性というのは本当に大変そうで、そしてつまらなさそうだった。
家庭に給料を持ち帰るだけのATMと化して、仕事では若手に活躍の場を追われ、出世競争に負けて生きる屍となり、なんの生産性もない趣味や遊びに逃げ、命の残り時間がただ減っていくのをただぼんやりと眺め続けるだけの社畜人生に、何の意味があるのかと思っていた。
何が楽しいかといえば、色々あるけども、まずは自分が楽しいと思えることが、はっきりとわかっていることだと思う。
ぼくは自分が好きな小説や映画の傾向をよく知っている。
それから、図太くいられるのも、おっさんならではの魅力だ。
若い頃のように誰からもちやほやしてもらえることは二度とないが、おっさんになると行動力が増す気がする。
直接なら押しても引いてもどうにもならないことも、勝手口に回るとか、お隣さんと仲良くなるとか、色んな選択肢を使えばなんとかなったりする。
また、若い頃と違ってプライドがなくなるので、平気で頭を下げられるし、人懐っこい笑顔を浮かべていれば、なぜか若い女の子からも優しくされたりする。
身体的にはできることは確実に減っている。
だけど、なぜか若い頃よりも明らかにたくさんのことができるようになっている。
どんなにすごい人でも年を取るし、いつかは引退する。
あるいは引退しないまま寿命を迎える人もいるが、それもある種の引退だ。
そう考えると、「未来のために今努力すること」は本当に良いことなのだろうか、と思う。
もちろん、若くて元気でたっぷり時間のある人たちはそれでいい。
でも年を取って、体は十分には動かないし、集中力も弱ってきたし、人生の残り時間も減ってくると、未来のために今という時間を犠牲にするという生き方はちょっと違うよなあ、と感じる。
少し前までは「自分に残された時間は少ない」と思うことは「だからこの一日を後悔しないように頑張って生きよう」という考えにつながっていた。
その考えには今でも共感する部分はあるけれど、最近は、残された時間が少ないからこそ、その時間をじっくり味わいたい、というほうが近い気がする。
イケメンでも秀才でもないくせに、無理にかっこをつけ続きてきた人生だった。
いや、イケメンでも秀才でもないからこそ、それをコンプレックスに感じて、無駄な時間とお金を費やして、かっこをつけ続けてきたのだ。
反対に、若い頃から世の中というものがよく見えていて、女の子にモテたいとか周りの人たちにちやほやされたいとか、そういった短絡的な欲望から自由になって、本当に自分のやりたいことや関心のあることを長く追い続けられる人が時々いるのだが、ああいう人たちの頭の中はどうなっているのだろうか、と不思議に思う。
それこそ彼らは生まれながらにして人生二周目なのかもしれない。
自分ができるやつと思われようとしなくてよくなるので、会議や提案では、もっともらしいことを発言しようとするよりも、良い会議、楽しい提案にしていくために何ができるか、ということに集中できる。
それに、子どもから無理に尊敬されようとしたってもうとっくに手遅れだということもわかるので、親は脇役になって、子どもがあっち行ったりこっち行ったりする様子を見守るしかない、とあきらめもつく。
そして、それでもやっぱり自分が好きだと思えることはちゃんとわかるので、他のことはあきらめたり、我慢したりしてもまあしょうがないな、とも思えるようになる。
生きていると、色んな情報がこちらにやってくる。
その中には、
だが、どうも大半は「もっと自分の成長に投資しよう!努力を続けていればいつか報われる!自分磨きをしっかりやって、他人から尊敬され、もてはやされる人間になろう!」というメッセージばかりだ。
主旨と外れたことを述べてしまうが。
かつて芸人だった友人が
・シンプルな課題に 複雑な解決策 → ぼけ
・複雑な課題に シンプルな解決策 → つっこみ
で 日常からネタを拾い上げていく というのを言ってた。
いずれにせよジョークだよね。※ジョークから本物のアリが出ることがあるのでこれも重要
「シンプルかつ有効な解決策は、たいてい倫理的な問題を孕むか、特定の人間 or 階層に犠牲を強いる」
とは言え、方面ごとの意義や、連携を含んで、現場司令官に説明しきれない天才軍師も問題なのだと思う。
天才軍師とその言葉と真意を翻訳する宰相はセットにせんと運用できんのよ。