行き詰まりの道
deadlock, impasse
心が働く
現地現物vs他人の言葉を語る
心の働きの条件
心の落ち着き
観察
評価
目次
・行き詰まりに陥る
・行き詰まりに当惑する
・公平無私に観察する
・行き詰まりによって、より優れた仕事をするための機会を得る
・行き詰まりの渦中で、無数の事実の中から優れた選択をする
・固定観念を祓い、目の前のものを再評価する
・そして行き詰まらないこと《創意工夫》へ
・似た表現
・そして、時代的な行き詰まり…他人による大量の「行き詰まらないこと」が、私の行き詰まりを引き起こす
似た考え
困りが足りん!
大野耐一
XPとは、以前はうまくいっていたかもしれないが、今では最高の仕事の邪魔になっている習慣やパターンを手放すことだ。
kent beck
問題を明らかにできたら、解決まで50%のところまできたようなものだ
エリヤフ・ゴールドラット
行き詰まりに陥る
バイクのどの部分であれ、サイド・カバーのネジがきつくて外れなかった場合、だいたいの人は、そうなってしまった原因が何であるのか調べるために説明書を見る。だがそこには技術解説書特有の実に素っ気ない表現で、「サイド・カバーを取り外す」としか書いてなく、知りたいことは何ひとつ載っていない。もし場数を踏んできた人であれば、おそらく油をさしてからそこにドライバーを当てるだろう。だが経験の浅い人ならどうか。かつてうまく行ったからといって、ドライバーの柄に自動ロック式のプライヤー・レンチを取り付けて、思いきりねじりまわすかもしれない。だが今度ばかりはそうはいかない。ネジの頭をつぶしてしまうだろう。
行き詰まりに当惑する
心はすでにカバーを外した後のことに飛んでいるのだ。ネジの頭をつぶしてしまったというこの些細な不安とイライラが、それほど些細なものではなかったことに気づくまで、あまり時間はかからない。どうしようもない。仕事を進めるにも進めようがない。終わりだ。
こんな瞬間の意識は無に近いものである。行き詰まって、何の答えも見いだせない。何もかも音を立てて崩れ去ってしまったのだ。感情的には実に惨めな経験である。時間も意識できない。無能そのものである。何をしているのかさっぱり分からない。後はもう悔やむだけのことだ。
ここで直面するのは、大いなる未知、西洋思想の空隙である。解決の糸口になるアイデア、すなわち仮説が必要になる。残念なことに、従来の科学的方法では取りつく島もない。従来の方法で識別できるのは、視力でいえばせいぜい一・○、つまり正常範囲内に限られる。一般的によく知られているものを鑑識するには十分であるが、過去に一定の連続性がなければ、進むべき道を識別することはできない。
公平無私に観察する
行き詰まりを脱する唯一の方法は、このうえ従来の科学的方法に従って考えることをやめることである。何の役にも立たないからだ。なすべきことは、埋まってしまったネジの実状に照らして、従来の科学的方法を吟味することである。
観察する物に評価を与えてはいけない。頭を空っぽにし、観察した事実から公平無私に推論を下していくのだ。
※公平無私 公平で私的な感情をまじえないこと。広辞苑
しかしいったん立ち止まって、この埋まったネジについて公平無私に思考を巡らしてみると、公平無私に観察するというこの行為が総じて馬鹿げていることに気づき始める。その事実とはいったいどこにあるのか? 公平無私に何を観察しようというのか? 外れないサイド・カバーか? 塗装の色か? スピードメーターか? それともシーシーバーか? ポアンカレが言ったように、オートバイにも事実は無数にある。だがこれぞというものは一向に躍り出てこない。これぞというこの事実を本当に必要としているのに、反応がにぶいばかりか、それはまったくつかみどころがない。
ただじっと坐って、「観察」しているしかないのだ。その事実を求めてひたすら観察し続けるか、あるいはなすすべもなく長い間じっと手をこまねいているしかないのである。
綿密に観察したうえで、さまざまな事実のなかから前もって質的な選択ができるようになるには、長い時間を要する。
行き詰まりによって、より優れた仕事をするための機会を得る
行き詰まって、意識が無になった状態を再び考えてみると、それは最悪の事態どころか、願ってもない機会に遭遇したのである。何と言っても禅の修行僧は、公案や坐禅によって多くの困難に直面し、みずからこの行き詰まりを招き寄せている。心を空しくすることによって、「初心」に帰り、「柔軟さ」を得るのである。
問題に直面した当初は、その重要性に気づかないことがよくある。だが行き詰まってしまうと、やがてその重要性がヒシヒシと感じられてくる。その原因は、行き詰まりに導いた固定観念にある。
しかしどんなにその問題にしがみつこうとも、行き詰まりは必ず解消する。心はおのずと解決に向かって動き出す。行き詰まりの達人でもなければ、これ避けることはできない。だから行き詰まりを恐れる必要はない。
行き詰まりの渦中で、無数の事実の中から優れた選択をする
行き詰まりは、何事においてもその本質を理解する上での先達である。だから決して避けてはならない。技術的な仕事においても同じことが言える。行き詰まりを無心に受け止めることが、《クオリティ》を理解する鍵なのだ
学校で正規の訓練を受け、あらゆる問題の処し方を学んだ修理工よりも、独学で腕を磨き上げた者のほうがしばしば力を発揮するのは、度重なる行き詰まりによってこの《クオリティ》を会得しているからである。どんな情況にも無心に対処できるのだ。
固定観念を祓い、目の前のものを再評価する
だいたいネジというものは、小さいうえに作りも単純で、値段も非常に安い。重要性があまり感じられないのはそのためである。だがいったん《クオリティ》の存在に気づき、その認識がますます強くなってくると、このネジの一つ一つが、取るに足らない安価なものではなく、実に大切なものであることが分かってくる。
このネジが、オートバイ本体の価格とまったく同じ価値を持ってくるのだ。なぜならこのネジを取り出すまでは、現実的なオートバイの価値はまったくないからである。ネジ一つをとっても、このようにその価値を再評価してみると、おのずとそのネジに関する知識が拡大される。
つまりネジの実体を再認識するのである。そのネジに精神を集中し、よく考え、長い間行き詰まったままでいると、やがてそれがある部品の一特性を備えた物としてではなく、それ自体ユニークな特性を持った物であることに気づく。そしてさらに精神を集中していくと、そのネジが単なる客体ではなく、さまざまな機能を支配する集合体であることが分かってくる。つまり行き詰まることによって、従来の思考パターンが次第に排除されてしまうのだ。
ネジは思考の領域を越えて、連続する直接的経験に変わっている。
こうなると関心の的は、それはどんな働きをし、なぜそのような働きをするのかという、その機能の問題になってくる。
そして行き詰まらないこと《創意工夫》へ
解決の仕方が実際どうなろうと、そこに《クオリティ》があるかぎり、それは問題にならない。
しっかりと結合しているネジの状態をじっと観察し、それ独特のらせん状のかみ合いについていろいろ考えてみれば、ネジをなかに打ち込んでしまうとか、溶剤を流し込むとか、そんな解決法が自然に出てくるかもしれない。
確かにそれも《クオリティ》の軌道の一種である。だがほかにも軌道はいくつかある。図書館に行って修理道具のカタログを調べてみれば、いいネジ抜き器が見つかるかもしれないし、また修理仕事に詳しい友達を呼ぶのも一つの手だ。あるいはドリルを打ち込むとか、ブロー・ランプで溶かしてしまうといった手もある。
《クオリティ》とともにある現実は、その本性において、静的ではなく動的である。だから動的な現実を本当に理解すれば、決して行き詰まることはない。
発見してみれば、何であれ単純なものだ。だがそれはすでに知ってしまったから、そう言えるだけのことにすぎない。
他人による大量の「行き詰まらないこと」が、私の行き詰まりを引き起こしている
世の中には大量の「行き詰まらないこと」で溢れています。ググれば「やり方」が見つかります。「やり方」の通りに進めるだけで解決してしまいます。そこで起きていることの理解よりも、解決された状態ばかりに気が向いてしまっています。
心はすでにカバーを外した後のことに飛んでいるのだ。
対症療法のエキスパートが大量生産されます。検索テクノロジーの力による成果ですが、一方で時間にも追われていると、ググっても分からず解法がすぐに見つからないときに狼狽してしまいがちです。行き詰まりに時間や関心を寄せることに無駄に感じてしまいやすい状況にあります。
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