覇気
類義語
チームの外にいる、覇気のない人たちと働がなければならないと思うと恐ろしく思えてくるだろうか?
気力と問題空間
罠
気力を盾にする
「やる気が無くなったらやめよう」
問題空間
気力が高まる
問題空間上の解を発見して、嬉しくなる
気力が下がる
問題空間上の解が失われて、行き詰まりを感じる
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覇気を奪う罠
覇気を奪う内的な罠
価値の罠
エゴ
不安の罠
退屈の罠
退屈への解決策 儀式化
真実の罠
より広いコンテキスト
筋力の罠
精神運動の罠
最も大きな覇気の罠
覇気
覇気というこの言葉が《クオリティ》に通じた人の状態を的確に表現していることである。
古代ギリシャ人はこれを「エンスージアスモス」(「 熱狂」の語源)と呼んだが、それは文字どおり「テオス」、つまり「神に満たされた」という意味であり、ここで言えば、「《クオリティ》に満たされた」という意味になる。
覇気満々の人は、無為無策のまま、放埒をきわめたり、物事に気をもんだりはしない。自己認識という列車の前面にいて、常に軌道の先を見据えて、何が来てもそれを真っ向から受け止める。それが覇気である。
覇気は、真の世界を静かに見、聞き、感じとることによって、しだいに満ちてくる。陳腐な個々の世界観など役に立たない。だがそんなに遠くにあるものではなく、それはごく身近にある。だからこの言葉が好きなのだ。
よくあることだが、長い間釣りに行って帰って来た人には、この覇気が 漲っている。「つまらないこと」に長い時間を費やしたことに多少の弁解をすることはあるが、それは釣りというその行為に知的な理由づけをすることができないからだ。しかし釣りから帰ってみると、数週間前には死ぬほど嫌であった仕事に、ことのほか活気を漲らせて励んでいる。
オートバイの修理をしようとするならば、何よりもそれ相当の覇気がなければならない。それが最も大切な道具なのだ。
覇気は、全体を動かし続ける、いわば精神のガソリンである。これがなければ、オートバイは決して修理できない。だがもしこれを得て、なおかつその保ち方を知っていれば、この世界にはもうオートバイの修理を妨げる物は何ひとつない。だからこそ、いつも注意を込めて監視し、何よりもまず保護しなければならないのが、この覇気なのである。
覇気を奪う罠
すべてのオートバイに言えることだが、マニュアルを見ても載っていないものがある。オートバイと修理をする人との相互関係を成り立たせる《クオリティ》と覇気に関する解説である。これはオートバイそのもの同様かなり複雑なものである。修理をしているうちに、汚れたナックルから「交換不能」の部品に至るまで、さまざまな問題にぶつかる。こうした事柄の一つ一つが覇気を奪い、修理をする者の熱意を吸い取ってしまう。こうなるともう何もかも投げ出したくなってしまう。これを、私は「覇気を奪う罠」と呼んでいる。
こうした罠には限りがない。おそらく数百、数千とあるだろう。とても一口では言いがたい。これまで経験してきた罠の数だけでも相当数に上ると思うが、そのたびに新たな発見をするので、筆舌に尽くしがたい。オートバイのメインテナンスには、苛立ちと怒りが付き物である。だがそれだけいっそう興味がわいてくる。
覇気論一〇一 ──《 クオリティ》 の知覚における情緒、 認識、 および精神運動障害についての研究
非二元的なメインテナンスにおいては、覇気は固定したものではない。変動性のある、いわば出し入れ自在の健全な精神の宝庫である。それは《クオリティ》を知覚することによって生じたものであるから、覇気の罠は、《クオリティ》を見失わせることによって仕事に対する情熱を奪うものという定義ができる。
私が知るかぎり、覇気の罠には大きく分けて二つの種類がある。第一は、外的環境から生じるさまざまな条件によって《クオリティ》の軌道から投げ出されてしまうもので、これを私は「 後退」と呼んでいる。第二は、本来備わっている内的条件によって《クオリティ》の軌道から投げ出されてしまう罠である。こちらに関しては特に呼称をもうけていないが、「心理的障害」とでも呼んでおくことにしよう。
初めて大きな仕事をしたときには、うまく行ったかどうかが非常に気になるものだが、こんなことがあったらどうだろう。何日も作業を続け、ついに組み立てを完了したと思ったそのときに、目の前に部品が一つ残っている。何だこれは? コンロッドベアリングのライナーじゃないか? どうしてこれが残っているんだ? 何てことだ! また分解しなければならないなんて! こうなったら最後、もう気は一気に抜けてしまう。 初めからやり直すしかない。また分解だ……だがそんな気分になるまでは、一か月以上はかかる。
初めてのときは誰だって条件は不利なのだ。はからずも部品を壊してしまうことだってあるし、お金と時間も相当費やすことになるだろう。しかし二度目ともなれば、専門家よりもうまくなる。試行錯誤を繰り返しながらも、覇気をもって自らその組み立てを覚えたのだから、きっと専門家にはないような大きな喜びを味わうことになる。
とにかく、間違った組み立て方を防ぎ、覇気を奪う罠に陥らない第一の方法は、分解の順序や、後で組み立てるときに問題になりそうな点をノートに記しておくことである。
しかし取るに足らないようなことでも、そのつど記しておけば、きっと損害を防ぎ、時間の無駄を省くことになる。特に注意すべきことは、部品を取り付ける際の上下左右の位置関係や、コードの色、各ワイヤーの位置などである。たまたまほかの部品にも消耗や破損や弛みが見つかった場合は、それも当然記録しておく。そうすれば、必要な部品はすべてまとめて購入できる。
第二の方法は、ガレージの床に新聞紙を敷き、取り外した部品をすべて、左から右へ順序よく、下まで整然と並べるのである。こうしておけば、組み立てる際に見落としやすい、小さなネジやワッシャーやピンがすぐに目に入る。
しかしこれだけ用意周到にやっても、思わぬミスを犯してしまうことがある。そんなときは、グッと覇気を見すえることだ。時間を無駄にしたと思って、事を急いてはならない。急げば急ぐほど、ミスはますます多くなるだけだ。もう一度最初からやり直さなければならないと分かったときには、長い時間ゆっくりと休憩することである。
ただ、このようにして生じた失敗と、組み立て方を間違えたこととは、厳密に区別することが大切だ。というのは、ある一定の知識がないために生じたにすぎないからである。組み立てには試行錯誤が付き物であり、それも一つのテクニックになる。部品を取り外したり、取り付けたりしながら、そのつど調子を見る。具合が悪いからといって、それが「後退」とは結びつかない。なぜなら、そのつど知識を得ていくことによって、本当の進歩があるからだ。
しかし、組み立てている最中に単純このうえないミスを犯したとしても、二度目はずっと速い仕事ができるということをわきまえていれば、覇気を奪われることはない。最初にやったことはすべて無意識のうちに記憶のなかに取り込められているし、もう一度勉強し直すなんて必要はまったくないのだ。
次は一時的な故障による「後退」である。修理を始めると、悪いところが急に直ったりすることがある。電装系のショートがこの部類に属する。バイクがバウンドしたときにだけこれが起こる場合、すぐに止めて点検しても、悪いところは見つからない。こうなると修理はほとんど不可能である。
この一時的な故障にだまされて、本当にこれを直したいと思ったりすれば、これも覇気を奪う罠になる。結論を出すのは、気長に数百マイル乗ってからにしたほうがいい。こんなことがたびたび起きれば、さすがに気が滅入るが、修理工場に持っていっても、事態の解決はまず望めない。何度も何度も店に足を運んで、満足のいく結果が得られなかったならば、それがかえって罠になる。
自分自身でバイクに乗って、時間をかけてよく調べてみることだ。専門の修理工にはそこまでやれないのだ。それに必要だと思う道具を常に携帯し、故障が起きたら、そのつどバイクを止めて、その場で点検してみるのである。
一時的な故障が断続的に繰り返し起こるようになったら、それがどんな状況で起こるのかそれぞれ関連づけてみることである。たとえば、ミスファイアが起こるのは、凹凸路面か、曲がるときか、それとも加速したときか? あるいは暑い日に起こるのか? これらの相関関係は原因を探る糸口になる。
組み立て方の間違いと故障の次に来るのは、最も一般的な外的罠で、部品に関する「後退」である。自分で修理をする人は、これによってよく覇気を奪われる。オートバイを買うときには、壊れたときのことを考えて、部品までいろいろ買い揃える人はいない。ディーラーも在庫はできるだけ少量に抑えておきたがる。部品専門の業者に注文すれば遅いし、春になって部品の需要が増えるといつでも人手不足になる。
部品の値段も覇気を奪う罠の一つだ。客は安いオートバイを求めているので、ディーラーは競って本体の値段を下げるが、部品の値段はどんどん吊り上げて儲けている。それに専門の修理工でなければ、高い値段をふっかけられることもある。
障害はもう一つある。合わない部品があるのだ。パーツ・リストに誤りがあるのも珍しいことではない。モデル・チェンジは混乱のもとだ。品質検査を怠っている工場もあるので、使えない部品も出まわっている。
新しい部品を買い、それを家に持ち帰って合わないと分かったら、もう大変だ。これで一気に気が抜けてしまう。大きな罠だ。
部品に関する罠は、いくつかの手段を組み合わせることによって克服できるかもしれない。まず町に店が一つ以上あるならば、とにかくいちばん親切な店を選んで、そこの店員となじみになることだ。いろんな情報が得られるはずだ。
最後に、部品の問題で私と同じように憤慨している人で、多少のお金を投資してもいいというなら、部品を自分で造るという実に得がたい趣味をものにすることができる。私は六×十八インチのフライス付きの旋盤と溶接器具一式(アーク、ヘリアーク、ガス、ミニガス)を持っている。疲労した金属の表面をいっそう丈夫に再生することもできるし、カーバイド加工も可能だ。旋盤、製鋼、溶接の組み合わせがいかに役立つかは使ってみないと分からない。部品を造る作業には時間がかかるし、ボールベアリングのような部品はできない。だがそれだけの器具で部品のデザインをさまざまに変えることができるのは驚くべきことだ。これぐらいのことなら時間はほとんどかからないし、工場に発注した部品を待ってイライラしている必要はまったくないのだ。これは覇気を引き出す作業であって、破壊するものではない。自分自身の手で造った部品をオートバイに付けて走る、既製の部品では決して味わえない喜びだ。
私に考えられる最も一般的な「後退」は、組み立て方の間違い、一時的な故障、そして部品に関する問題であった。
覇気を奪う内的な罠
覇気論における内的な罠は、大きく三つに分類される。情緒的理解を妨げる「価値の罠」、認識に関する理解を妨げる「真実の罠」、精神運動行為を妨げる「筋力の罠」──以上の三つである。このなかでは価値の罠が最も大きく、最も危険でである。
価値の罠のなかで最も有害であり、なおかつ広く行きわたっているものは、硬直した価値観である。これは既成の価値観に執着するために、目前の物事をありのままに再評価できないことである。オートバイのメインテナンスにおいても、その作業過程のなかでは常に再発見が伴わなければならない。もし価値観が硬直していれば、これは絶対不可能である。
その典型的な事例に、オートバイが動かないという事実がある。事実は目前にあるのに、それが目に入らない。正視していながら、そこに十分な 価値 が見いだせないのだ。パイドロスの見解によれば、この世界に主体と客体を生み出すのは《クオリティ》、すなわち価値なのだから、事実はその価値観があって初めて存在するのだ。だから、もし価値が硬直していれば、新たな事実を知ることはできないのである。
こうした事態は、判断を早まった場合によく生じるものだが、そんなときはだいたい故障の原因を把握していると思い込んでいる。だからかえって行き詰まってしまう。新たに原因を探らなければならないのに、手が出せない。だがこんなときは、まず古い考えを頭から追い出すことが先決なのだ。真の答えを目前にしていても、硬直した価値観に支配されているかぎり、その重要性が認識できないのだから、必ずそれを見逃してしまう、
新しい事実を発見するのは、常に鮮烈な体験である。英語で「 発見」とは本来「 被覆 を剝ぐ」という意味であり、その事実の存在が認識とは無関係であるという前提から二元的にそう呼ばれている。発見された当初は、いずれの事実もその価値は常に低い。だが観察者の価値観が柔軟であったり、その事実に潜在する《クオリティ》が高かったりすれば、それはゆっくりと、あるいは急速にその価値を増していく。
事実は私たちのまわりに溢れている。刻一刻と変わる周囲の風景や音、そしてそれらの関係から生まれるさまざまな事実や記憶のすべて──実際これらの事実には、それぞれに《クオリティ》が潜在している。だがもしこれらの事実がいっぺんに意識のなかに飛び込んできたとしたら、私たちは無意味なデータに妨害されて、考えることも行動することもできなくなってしまう。 だから私たちは、《クオリティ》を基盤にして前もって事実を選択するのである。パイドロスふうに言えば、《クオリティ》の軌道が私たちの意識するデータをあらかじめ選択するのだ。
もし価値観の硬直によって引き起こされる覇気の罠にはまってしまったら、まずはペースを落とすことだ
重要だと思っていたことが、本当に重要なことかどうかを確かめるのだ……とにかく……その動かないバイクをただじっと 観察 することだ。釣り糸を垂れて水面にじっと見入っているように、興味を持って、ただひたすらその行為になりきってみるのだ。そうすれば、心のなかでやがて微かな事実がつつましやかに動き出すはずだ。何といっても、この世はとどまることを知らないのだ。事実はおのずと生まれてくる。
まずはこの新たな事実を、自分が抱えた大きな問題の解決手段としてではなく、それ自体をありのままに理解しようとすべきである。
それは自分の求めた事実ではないかもしれない。しかし少なくとも、その事実を遠ざけてしまう前に、こうしたことをしっかりと認識しておかなければならない。
しばらくしてから、いろんなことをかじってみるほうが、オートバイを直すという本来の目的よりも面白いことが分かってくるだろう。こうなったときに初めて、ある種の頂点に達したと言えるのである。もはや単なる修理工ではなく、オートバイを科学する人間になっているのだ。つまり価値観の硬直が引き起こす覇気の罠を完全に制したことになるのである。
まあ、これまで私が話してきた価値観の硬直について、そのまま正確に教えてやってもいいと思う。この猿が知るべきことは、手を開けば自由になれるということなのである。だがこの事実を猿はどうやって発見するのか? 自由よりも米のほうがいいという硬直した価値観を取り払うことが前提条件だ。だがそれをどうやって取り払うのか? こうなったら意識的にペースを落とし、前の立場をよく吟味したうえで、以前重要だと思っていたことが本当に重要なことかどうかを、何としても確かめなければならない。
エゴ
自我は硬直した価値観から分離しているものではなく、数多いその罠の原因の一つである。
もし自分自身を高く評価しているとすれば、新たな事実を認識する能力は衰弱している。自我は《クオリティ》という実在から私たちを引き離してしまう。さまざまな事実によって失敗が明らかになっていても、おそらくそれを認めようとはしない。間違った知識を持っていても、事が順調に進んでいるように見えれば、それを信じてしまう。どんな機械の修理に携わっていても、自我が入り込めば仕事が粗くなる。だからいつも馬鹿にされるし、間違いも多くなる。
大きな自我を持って、絶えずそれを守ろうとしている修理工は、ことさら不利な立場にあるわけだ。もし、自分を社会の一構成員として自覚している修理工をたくさん知っていれば、そうした修理工が意外と謙虚で物静かであることに気づくはずだ。例外はあるが、初めはそうでなかったとしても、作業をしているうちにそうなっていく。彼らは実に注意深い。いや、懐疑的だと言ったほうがいい。決して利己的ではない。機械は正直なものである。
やっつけ仕事をやってうまく行ったと思っているような人間は、実際自分で何をやっているのか分かっていいない。
オートバイに人格が反映することはないと言おうと思ったが、実際は逆の話で、オートバイには人格が明らかに反映する。オートバイは、自我によって呼び起こされる慢心した偽りの人格よりも、本当に感じ、考え、行動する、 真の 人格に反応するのである。偽りの人格を映し出したイメージは、覇気の由来するところが《クオリティ》ではなく、自我であるとすれば、急速に萎えて必ず意気消沈してしまう。
不安の罠
次にくる覇気の罠は、自我と対峙する、いわゆる「不安」である。何をやってもうまく行かないという思いが強いと、臆病になる。事を起こすのが難しくなる本当の理由は、「怠慢」というよりも、むしろこの臆病さにある。
この不安という覇気の罠の原因は、やるんだという気持ちが先行するあまり、要らぬ考えに捕らわれあらゆる誤りを引き起こす。直す必要のない箇所に手を加えたり、想像をたくましくして余計な気苦労を背負い込んでしまったりする。
それに神経質になりすぎて、かえって飛躍した結論を導いたり、オートバイの組み立てを間違えてしまったりする。こうした間違いを起こすと、そのたびに自分の評価を確実に低下させることになり、これがさらに多くの誤りと過小評価を生んでいくのである。
これを打開する最も良い方法は、自分の不安を一つ残らず紙に書き出して、それぞれの問題を扱った本や雑誌をできるだけ読むことだ。不安であることがこれを容易にしてくれるし、読めば読むほど心が落ち着いてくる。求めるべきは心の落ち着きであって、単なるオートバイの修理ではないということを肝に銘じておかなければならない。
いかに修理工といえども何の失敗もなく完璧にやってのける人はまずいないという事実に接すれば、多少なりとも不安は減少する。
退屈の罠
「退屈」も覇気の罠の一つである。これは不安とは対照的で、ほとんどが自我の問題を伴っている。退屈というのは、《クオリティ》の軌道を逸脱し、物事が新鮮に見えず、「初心」を忘れた状態である。
退屈なときは、作業を 中断 してしまうにかぎる。映画を見に行ったり、テレビを見たりして、その日は気ままに過ごしたほうがいい。ほかの仕事をしても一向に構わない。そのまま作業を続行すれば、重大なミスを引き起こすことになる。退屈の上に重大なミスが重なったら、覇気はもう完全に奪われ、立ち上がることができなくなってしまう。
退屈には睡眠がいちばんだ。私はそうしている。退屈なときには眠りにつくのも容易だし、眠った後は退屈になりにくい。コーヒーを飲むのもいい。オートバイをいじるときには、いつもコーヒーの入ったポットを用意しておく。
退屈であるというのは、《クオリティ》の問題に注意を向け、作業を続行する前に、それらを統制せよという知らせなのだ。
グリース塗り、オイル交換、エンジン調整などをして退屈したときの解決法は、それらをごく当たりまえの習慣にしてしまうことだ。珍しいことをするにも、ありふれたことをするにも、双方それぞれに美的価値がある。前に溶接工にも二つのタイプがいると聞いたことがある。一方は生産に携わる溶接工で、もう一方は修理に携わる溶接工である。前者は狡猾な仕事が嫌いで、何度も同じことを繰り返す仕事を好む。後者は同じ仕事を二度することを嫌う。
退屈への解決策 儀式化
洗車をするときには、教会に行くような感じで、一種の儀式と思ってやる。
慣れた仕事を繰り返しやることも、ときにはいい。
禅との関係はどうか? 「ひたすら坐る」というその修行は、この世で最も退屈な行為であるに違いない。いや、生きたまま土中に埋められるというヒンドゥー教の修行はその上を行くかもしれない。何かを気にかけることも、考えることもせず、動かずにただジッと坐っている。これほど退屈なことがあるだろうか? しかしこの退屈そのものにこそ、禅の教えがあるのだ。それは何か? 見えない退屈のなかにいったい何があるというのか?
「短気」は退屈と近い関係にあるが、それは常に一つの原因によって生じる。つまり仕事に要する時間の見当違いである。これから先何が起こるかなど分かるはずもないし、計画どおりに事が運ぶことはまずまれである。短気は「後退」に対する最初の反動であり、注意しないとすぐに怒りに変わる。
短気を防ぐいちばんの方法は、仕事の時間をはっきり決めないことだ。不慣れな技術を要求する仕事は特にそうだ。計画どおりに進まないときには、倍の時間を割り当て、仕事の範囲を狭めることだ。視点を重要なものに絞り、必要最小限のものから片付けていく。これには柔軟な価値観が要求されるが、普通は価値の移動に伴ってある程度覇気を消耗する。それは必要な犠牲であるが、短気が大きなミスを引き起こしたときに生じるほどの消耗ではない。
私はよく、ナットやボルトやピンなどをきれいに掃除する。ナットが弛くなったり、きつくなったり、錆びついたり、あるいはネジ山に汚れが詰まっていたりすると、私は恐怖を覚える。だから一つ見つけたら、すぐにゲージとカリパスでピッチの幅を測り、ネジ切りでネジ山を切り直し、よく調べてからオイルを塗ったりする。こうして辛抱強くやっていると、新たにまた全体が見えてくる。
また使ったまま置きっぱなしにされている道具を掃除したりするのもいい。これは大切なことだ。というのは、短気を起こす最初の兆候は、必要な道具にすぐ手が届かないという苛立ちにあるからである。手を止めて、散らかっている道具をきちんと整理しなおしておきさえすれば、短気を起こすこともないし、時間を無駄にせず、仕事を順調に進めることができるのだ。
知っておくべき唯一のことは、価値の罠にはまってしまったら、それをしっかりと認識し、仕事を中断してよく考えてみることだ。
真実の罠
データの大部分は従来の二元的論理と科学的方法によって処理される。しかしこれらの方法によっては処理されない罠が一つある──イエス・ノーの論理に関する真実の罠である。
「無」は、《クオリティ》同様、二元的分別の圏外にある言葉である。簡単に言えば、「無」は「分類できない──一でもなく、ゼロでもなく、イエスでもなければノーでもない」この質問にイエスかノーで答えるのは間違いで、そんな答えは許されない。つまり「問うてはならない」ということである。 「無」は、質問のコンテクストが真実からあまりにもかけ離れている場合に適した答えである。 趙州( 中国宋代の高僧)という禅僧が、ある僧に「犬にも仏性があるのか」と問われて、「無」と応じたが(『無門関』の第一則「趙州狗子」)、それはいずれの答えをもってしても正しくなかったからである。仏性は、イエスかノーかという二者択一の質問によって答えを迫っても、捕えることができないのだ。
コンピューター回路の電圧は、「一」か「ゼロ」しか示さないと繰り返し言われてきたが、そんな馬鹿げた話があるものか! コンピューターの技術者であれば、そうではないことぐらい誰だって知っている。電源を切ったとき、電圧が「一」を指しているか、それとも「ゼロ」を指しているか、よく見てみるがいい! 回路は「無」の状態にある。一でもなければ、ゼロでもない。一とかゼロでは意味をなさない不確定の状態にある。電圧計の表示を見れば、多くの場合、「 浮動基盤」の特性を示している。
技術者はコンピューター回路の特性を読んでいるのではなく、電圧計そのものの特性を読んでいるのである。つまり、一とゼロの状態がすべてを包含するというコンテクストよりも、電源を切った状態はもっと大きなコンテクストの一部となっているのである。
電源を切った状態のほかにも、コンピューターにはさまざまな状態があり、「無」という答えはそこにもたくさん見いだされる。なぜなら、そこには一とゼロの普遍性を超えた、より大きなコンテクストが存在するからである。
「無」という答えを得たことはきわめて重要なことなのだ。それは、自然が孕む答えから見れば、問題のコンテクストがあまりにも狭すぎるので、拡張すべきだと、科学者に向かって語りかけているのである。これによって、その実験の当初の目的であった自然に対する理解が著しく改善されるのだ。
科学はイエスかノーの答えよりも、「無」という答えを得ることによって進歩するのである。イエスかノーかの答えは、仮説を肯定するか、それを否定するかのいずれかである。「無」は仮説を超越している。「無」は、何よりもまず科学的探求を促す「現象」なのである。
オートバイのメインテナンスにおいても「無」という答えが出てくるが、それは覇気を喪失する主たる要因でもある。だが実際ここでは そうあってはならない。テストをしてみて不確定という答えを得た場合、その意味は二つに一つである。つまりテストの手順が違っているか、問題のコンテクストに対する理解が不十分であるかのいずれかである。テストの手順をよく調べ、問題を再検討してみることだ。「無」という答えを捨て去ってはならない。それはイエスかノーの答えと同じくらい重要である。いやそれより もっと 重要である。それがあってこそ、私たちは成長するのだ!
精神運動の罠
話題を「精神運動の罠」に移すことにしよう。オートバイには、これが最も深く関連している理解の領域だ。
ここで最も覇気を損なう罠は、道具の問題で、修理に際して適切な道具がないことである。道具に手間取るほど意気をくじくものはない。
道具の問題はさておき、環境の悪さも覇気を奪う主たる要因である。なかでも照明をよく考えるべきだ。ちょっと明るくしただけで、驚くほどミスが減る。
ときには肉体的な不快を防ぐことができないこともある。暑すぎたり、寒すぎたりするような環境下では、注意を怠っていれば必ず判断が狂う。たとえば、寒すぎれば、急ぐあまりミスを犯すし、暑ければ、それだけ気短になる。
筋力の感覚がない場合、それはかなり大きなダメージを残す。オートバイの外部は頑丈だが、エンジン内部は繊細かつ精密である。筋感覚がなければ、内部の部品は簡単に損傷する。いわゆる「修理工の勘」というやつだ。
修理工の勘は、物質の弾力性に対する筋感覚から生まれる。セラミックのような物質は、弾力性がほとんどないので、圧力をかけるときにはかなり注意を要する。鋼鉄のような物質は、ゴムよりも優れた弾力性を備えているが、機械で大きな力を加えてみなければ、どこまで弾力性があるのか特定できない。
ボルトやナットを扱うには技術を要するが、これらの金属には相当弾力性があることを知っておくべきだ。ナットを締める場合、これには三つの段階がある。まず「フィンガー・タイト」という、接触していながら弾力性が吸収されていない状態。次に表面の弾力性が柔らかく吸収されている「スナッグ」。そして「タイト」と呼ばれる、すべての弾力性が吸収されている状態である。この三つの段階に要する力は、ナットやボルトのサイズによって異なる。また鋼鉄、鋳鉄、アルミニウム、プラスチック、セラミックなどの材料によっても違う。その「勘」を持っている人は、ここぞというときにピタッと手を止めるが、「勘」のない人は、締めすぎてネジ山をつぶしたり、部品を壊してしまったりする。
ペンキ塗りにしても、オートバイの修理にしても、それは自分の存在の一部なのだ。もしいいかげんなことを考えて、一週間のうち六日間メインテナンスを怠れば、七日目にはどんな罠や仕掛けが待っているか分からない。一日たりとも怠ることはできないのだ。
修理に取り組んでいる目の前のオートバイは、自分自身という乗り物にほかならない。「そこ」にあるように見えるオートバイと、「ここ」にいるように見える自分は分離した二つの存在ではない。《クオリティ》を目指して成長するのも一緒であれば、またその軌道から逸脱するのも一緒なのだ。
最も大きな覇気の罠
これこそ最も大きな覇気の罠なのだ! 葬式の行列! 偽善とまやかし、そして超現代的な、自我むき出しの生活様式が、この土地を支配しているのだ。