多値的考え方
理性を信頼するということは、われわれ自身の理性を信頼するというばかりでなく—さらにいっそう—他人の理性を信頼することである。
区分がこまかくなればなるほど、われわれが思いつく行動の方針も多様になる。このことは、人生の多くの複雑な状況にますます適切に反応し得るようになることを意味する。医師はあらゆる人を「健康人」と「病人」の二種に大別するということはいない。かれは「病気」と称される無数の状態を区別して無数の処置のうちから一つ以上を選んで適用する。
二値的考え方は、結局、ただ一つの関心に基づいた考え方であるが、人間は多くの関心を持っている。食う、眠る、友人を持つ、本を出版する、土地を売る、橋をかける、音楽を聞く、平和を保つ、病気を征服することなど。その中のある欲求は他よりも重く、人生は一連の欲求と他との重さをはかり、選択する問題を絶えず投げかける。
「私はこのお金を持っていたいが、それよりあの自動車を買いたい気持ちの方がもっと強い」
「私は切符を手に入れるために並びたくはないが、そのショーはぜひ見たい」
「私は罷業者たちを解雇したいが、それより労働委員会に服従するほうが大切であろう」
「私は憲法を支持したいが、黒人は大学に入れたくない」
文明がわれわれに引き起こす種々の複雑な要求をはかりにかけるためには、予見力と共に、ますます目盛りのこまかい価値の物差しが必要になってくる。それでないと一つの欲求を満足させるために、より大切な欲求を犠牲にしてしまうかも知れない。物事を二値以上の尺度で見る能力を、多値的考え方と呼ぶことができる。
※罷業者 仕事を休む人。ストライキ。
さらに多値的なのは科学の言語である。「熱い」とか「冷たい」とかいうかわりに、われわれは温度を一定の、合意された尺度に従って -20℉,37℃などと、度で表示する。「強い」「弱い」のかわりに力は馬力またはボルトで、「速い」「遅い」のかわりに毎時何マイルとか、毎秒何フィートとか。二種ないし数種の答えに限定するのでなく、数値的方法による場合には無限数を用いる。故に、科学の言語は、無限値的考え方(infinite-valued orientation)を与えると言える。人の行動を、その情況に応じて無限数の方法で適応されることができるので、科学は速やかに進歩し多くのことをしとげることができるのである。