『トヨタ自動車開発主査制度』
塩沢茂,1987
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目次
第1章 新車開発に“頂上”はない
第2章 これが製品企画室だ!
第3章 オーケストラのコンダクター
第4章 誇れる技術があればこそ
第5章 経営の安定が“名車”を生む
第6章 GMに追いつき追い越せ
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第1章 新車開発に“頂上”はない
日産が主査制度を導入したのは第三代カローラの出来があまりにもすばらしかった
昭和61年10月
乗用車 国内シェア53%
「要は信念かな。いや哲学というべきかもしれないが、それを持って突き進む以外にないんじゃないの。主査といえばカッコいいけれど、現実はねばりを身上とした、まるで説得だけのような立場だからね」
「いや、いまいちというところは出てくるもので…。評価自体がそれです。腰高感が、小さくみせてしまう。佐々木専務は"いまのは先進的"って……。欧米では、その通り評判はいいんですけれど、国内になるといまいちなんですよ。スタイルに対する考え方が違うことはわかっていたのですが……これほどとは……いい勉強になりました」
「そういった悩みは、世界戦略車種としての宿命ですね。となると、第六代は、スタイルも大幅に変わるってことがいえる」
「そこまでは、まだ発表前ですから……。ただ第五代で本格的に採用したFF化を、より成熟させ、それに付加価値をつけるということだけはいえます。主査同士だけにすべてを打ち明けたいが、逆に打ち明けられない事情はおわかりでしょう。この程度でかんべんして下さいよ」
世間では、英知を集めて総合結果のようにみているけれど、たしかに英知を集めても、結果はわれわれ主査の、それも相当の人間性、もっと深くいえば"哲学"の現れですからね。いまは文字どおりの科学万能時代、その戦隊を行くようなクルマ作りが、それで行われているといったって信じないのが当たり前。しかし、当たり前でないことを当たり前のようにして生み出したものであるからこそ、ユーザーが選んでくれるんじゃないか、と思えて鳴らない。科学万能時代だからこそ人間味のあるクルマをほしがる。いまの狩猟開発主査制度は、今後も持続させて欲しいですね」
「わが社は、どのセクションもむだをしておらず、その象徴が製品企画室、といい切れるくらいですので……。が、実際はすでにみなさんもおっしゃっていたように、むだをしようにもその余裕がないというありさまなんです。開発した新車の発表がすむまでは誰もが無我夢中で、一息入れる間もあらばこそ、すぐにそれに対するユーザーの反応調査でしょう。そして、それを踏まえて次の字ユン美にかかるのも早い。つまり、いわば"クルマ漬け"から解放されることは望めないし、また誰もがそんな日課を当然と決め込んでいるのだから始末が悪い。一般の"常識"ではおそらく考えられないことなんですね。一言でいえば、好きだから……。"変わり者"の集まりともいえますね。だれど、それだからカローラも、コロナも、マークⅡも、セリカも開発できたんだとの自負もあるんです」
第2章 これが製品企画室だ!
主査チームは、いずれも主査プラス10人から15人で組織されている。そして、その大半は各部各室の課長ないし係長クラスの、ラインに乗っていない専門職者で占める。肩書きは、主担当員だ。たとえばデザイン部デザイン室からの主査担当員ならば、主査の意向をデザイン室に伝えて反応を得るばかりか、偽薬に主査の協力も得る。さらに、それをテコにしてデザインの作成にかかる。エンジン、ボディ、内装などからの主担当員の役割も、これと大同小異なのだ。
それぞれのデスクに、図面や書類が山のように積まれている。とくに、主査のデスクの上の量は多い。主査のひとりは、苦笑していった。
「準備段階はとにかく、本格的な開発に入ると、まるでそれを待っていたかのようにドサッ、ドサッと連日です。その検討だけで一日が終わってしまうことも珍しくないんですね。泣かされます」
しかし、こう話した主査以外の主査はひとりもいないうえ、主担当員にいたってはほとんどが外出している。まるで締め切り直後の新聞社の編集局だ。が、新聞記者がやれやれといった気持ちで近くの喫茶店などですごすべく外出したのとは異なり、主査や主担当員の外出は、あくまでも"現場"を走り回るためである。仕事の打ち合わせ、または意向の吸い上げを主目的にしている。
6号館の機密、見学禁止
6号館の裏にはテストコースがあるし、安全性、経済性、快適性、走行性能など、設計にフィードバックするデータの収集施設も併設されている。つまり、トヨタの研究・開発のための"心臓"に相当する部分を集めた一帯と知れば、なおさらである。
主査同士のやり取り
主査同士の話し合いはほとんどないのですが、主担当員は協力関係をまるで地で行っているようで……・だから他のチームが"猫の手"も借りたいくらいのときには、応援しています。まあ、その応援で知ったこと、学んだことなどがいずれこちらの仕事にプラスになるのは明らかなだけに、むしろすすめているくらいです。
主担当員との比較で主査をみると、かなり"孤独"なようだ。それを克服して新車の開発に打ち込めるようになってこそ一人前、といわれもする。
「私が新車開発のさいに採用した部品の評判をきいて"よし、今度の新車に使おう"と決めた別の主査は、忘れずに私のところへ挨拶に現れて許可をとるんですよ。もちろん、逆のケースもあります。同じトヨタなんだからと、疑問を持たれる向きもあるけれど、それが慣例になっているんです。私の知る限り、他のメーカーではやっていません。しかし、私はいい慣例だと思っています。なぜならば、自分のすべてを注いだ新車開発ですからね。部品の一つ一つにも、自分が介在しているためです。でも、こんなありさまですから、デスクがそばの主査であっても来やすくなれず、ますます離れた存在になってしまって……。まるで、自分で自分を"孤独"に追いやっているともいえます。おもしろい、変わった世界のように、きっと思われるでしょうね」
創業者と主査制度の関連
昭和8年10月、喜一郎はシボレー乗用車の純正部品と国産の模造部品を買って、部下たちにその材料関係を研究させました。自動車は数千の部品からなっています。部品の形なら誰にでも作れます。しかし、その材質特性や熱処理法がよくなければ自動車部品としての役目を果たすことができない、ということを自動車部の人たちに教え込んだのです。ついで、分解して研究するために33年シボレー・セダンを購入しました。とりあえず機械工場を設け、千種次郎らがそれを分解し、白井武明がスケッチする(図面を画く)ことからはじめました。しかし、なにぶんにもまったくの素人の集まりですから、思うようにはかどりません。喜一郎は、個々の失敗を問題にせず、とにかく最後の目的に向かってひたすら進むように、と激励し、また各人も、自分の頭から不可能という言葉わ消し去って、一にも二にも実行、をモットーにして、とにかく分解、スケッチをやり遂げたのです」
喜一郎の佐吉に対する思い
「父は存命中、かねがね日本の自動車を日本人の力で作りたい、という考えを持っていました。そして、私に折にふれ、自動車を作るようにすすめました。自動車の製作は、疑似油って木、経済的な力が十分にそなわっていなくては、到底できるものではありません。ところが、そのころ豊田自動車では、ようやく自動織機ができる程度でした。しかし、父にすすめられて、とにかく東京、大阪方面の自動車工業を調べ、先輩にもたずねました……」
いまや世界の"名車"といえるカローラの初代と第二代の開発を担当した主査は、長谷川龍雄技監(元専務取締役)である。彼には、喜一郎じきじきの命令を、一度ならず二度までも断った苦い思い出がある。以下は、その述懐である。
「私のトヨタ入社は、昭和21年6月でした。まだ敗戦の混乱で、世のなかが沈み切っていたときでしたが、喜一郎さんは"これから自動車が作れる"と意気盛んだったのには敬服させられたものです。たぶん22年のことを記録していますが、喜一郎さんに呼ばれまして"君は戦争中、飛行機を設計してたんだろう。ジュラルミンを買ってきたから、それで翼のついた空飛ぶ自動車を作ってみないか"といわれたのです。工場の隅には、たしかにジュラルミンの板が山のように積まれていました。が、空飛ぶ自動車なんて夢でしかなく、まして自分の能力では不可能とわかっていたから、とんでもない、と断ったのです。
その三年後、私が技術部の闘争委員長として争議に参加しているさなかでした。突然、社長宅に呼ばれたんです。当然、切り崩しを警戒しました。そんな私に喜一郎さんがなんといったと思います? "月産500台の乗用車工場の建設を企画してくれないか"という内容でした。私は設計担当であって、工場建設は専門外。まして争議のさなかとあって、これまた断りました。正直言って、なぜあんなときに私を呼んだのか、いまだにわかりませんけれど、争議のヤマはみえたとの判断から、さっそく次の手を考え、それがまとまったら、もうじっとしていられなくなり、私に企画案を作らせようとしたに違いない、と推察したのもかなり後のことなんです。つまり、切り崩しなどの狭い了見ではなく、発想の次元が私たちよりはるかに高いことに気づいたってわけです。とにかく、自動車作り一途の方であり、それがすべての行動の基本になっているとの認識で対応すべきではなかったか、と反省もさせられたのですよ」
この述懐のあと、こんな一言もつけ加えたのである。
「社長じきじきの命令に二度もそむき、期待に反したのは、まことに申しわけなく思い、せめて平時になったら粉骨砕身して知遇におこたえしようと思っていたのに……。後年、私がカローラの開発に生命をかけたのは、そのときの気持ちが基礎になっています」
技術採用
「マクファーソンは、日本で初めて採用しました。当時、ヨーロッパでもごくわずかしか使われていませんでした。が、私は"将来のサスペンションは間違いなくこれ"と判定したわけです。
いまでは、ほとんどのクルマがマクファーソンを採用してます。
長谷川元専務は、専務在職時の昭和54年3月、主査としてカローラを開発し成功させた経験などを踏まえて「主査に関する10ヵ条」を"後輩"のために作成した。
三代目カローラ担当主査 佐々木
「なるほど私は、第三代カローラの開発を担当させていただいた。長谷川さんの初代はコンセプトもよく、大変素晴らしいクルマであり、その長谷川さんが再び開発なされた第二代の発表直前に"第三代はお前が……"と命令を受けたんです。そんな事情でしたから、自分の思いで規格を推進し、まとめなければならなかったのです。"10ヵ条"でおわかりのように、それがまた長谷川さんの主査育ての"哲学であったわけでして……"が、おかげで常に不安との同居でした。実際に、開発をスタートさせたのは第二代が発表されて1年くらいたってからですが、すでに月産3万台を超える新記録を出していたため、これほどの生産規模の大きいものを一気に変えていいのかどうかなど、かなり心配し、とにかく、つつがなくやりとげなければならないと……。でも、数を維持するだけでは失敗で、数を増やす使命があったわけですからね。いいわけではなく、正直なところ、どうしてもやや消極的になりがちになってしまうため、"攻め"の気持ちでないと目標は達成できない、と何度も自分にいいきかせたものです」
生産準備が進行しているさなか、変更すべきかで悩むような影響が大きな提案が主担当員から持ち込まれた。主査としての佐々木専務は「本当にやる気なら、俺と心中する覚悟はできているな」といった。おそらくそれにビビったに違いないが、主担当員は「もう少し時間を下さい。さらに調べてみます」といって引き下がった。しかし一、二週間して再び現れた主担当員は「やっぱり変更は欠かせません」といい切ったのである。「よし、それならやろう」と、さっそく席を立った佐々木専務は生産準備部門へ出かけ、変更を願い出たのだが、これに似たエピソードはまだまだあった。
「中村主査の初代コロナ当時、私はボディ設計で図面を書いていたのです。その部屋に中村主査はよくおみえになり、あれこれ指示されたことをいまも覚えています。そんなときに、主査というのは強い個性と強大な権限を持っているのだなァと、つくづく思い、関心し、あこがれたものです」
揚妻取締役は、こう述懐する。だが、昭和54年発表の第四代カローラの開発担当主査を、実際に経験してみて、権限なんてないも同然で、代わりにまるで説得して歩くことだけが日課のような立場であることを知り、認識を改める。これは確かなことで、早いはなしが、ボディをこんな設計にしたいとの考えを持っても、主担当員であるボディ設計の課長担当者が反対したら諦めざるを得ないのが実情なのだ。しかも、その課長担当者には、主査が部長格であるとわかっていても、人事権を握られているわけではないから恐れられることなく、反対したければ反対できるのである。もちろん、車両主査は各部門に対して「こういうことをやってほしい」という指示書の発行権限を持っている。しかし、指示書を発行して明解な説明をつけておけば、相手が黙って仕事をやってくれる、というものではない。そんなものはデスクの脇に積んでおけ、ということだってあり得る。それを説得し、納得させて「それじゃ、やってみましょうか」とか、「これをやっておけば俺も損ではないな」といった気分になってもらわない限り、指示しても何も出てこないということになる。揚妻取締役は、第四代カローラ主査を経験したことによって、それを知ったというわけである。
揚妻取締役は出身校の東北大に招聘されて機械科の講師を務めたこともある卓越した理論化で、文章にもたけている。
「休日、若い人たちのガイドでヤングの好んで集まる青山、六本木、原宿、代官山……等々を終日散策する機会を得た。
ヤングの新鮮な生活活動とともに、彼らに場を提供している感性豊かな街の姿、ファショナブルな店のデザインに惹きつけられたのだ
生活の基礎的なものは、すべてみたされているいまの"豊かさのなかでの選択"の時代に、ヤングはいろいろのモノを所有するという豊かさではなく、自分の生活をどう演出するかという"新しい豊かさ"を求めている。
このことは、ヤングがクルマを選択するとき単に価格が安いとか、品質や機能が優れているというだけで商品の価値を評価するのではなく、"都会的感覚""ハイテク感覚"……等といったソフト的な価値が付加されていないと彼らに魅力のある商品とはならない。
最近、我々は新聞や雑誌で成熟時代という言葉に頻繁に出会う。つまり、家電製品や衣服に限らず"食"でも"住"でも生活の基礎的なものはすべて持っているという、物質的に非常に豊かな時代を迎えている。モノの供給は飽和状態となり、消費者にとっては"豊かさのなかの選択"の時代に入ったといえる。このような状況の下では、消費者の生活や意識に変化が生じてくるのは当然といえる。この成熟時代における消費者の購買のスタイルを一言で表現すると"自分の価値感、自分が演出しようとしている生活にふさわしくない商品は買わない"ということである。つまり、自分の求めている生活に"価値"や"意味"を提供してくれる商品を求めるという厳しい選択の姿勢を持っていることを認識しなければならない。
4代目カローラ モデルチェンジを成功させる五つの要素
ひとつでも欠落していると、間違いなくヒットしない
魅力あるデザイン
時流に先んずるオリジナリティの高いデザイン
経済性
低燃費に加えて、耐久性、信頼性、サービス性の抜群さ
快適な移住性
新技術・新機構の導入
価格競争力
第3章 オーケストラのコンダクター
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カローラの主査をやっていたときには、トヨタのなかでは他の誰よりもカローラをよくするために、売れるようにするため文字通り四六時中、考えていました。それができるようにしたのが際立ったところなんです。ところが、いくら考え、優れたアイデアを持っても、デザインとかエンジンの部門にはいずれも担当役員がいるうえ、部長、課長、係長がいます。それがラインであり、そのひとりひとりの強力を得られなければ、具体化させることは不可能なんです。それを示しているのがタテ糸で、各部門に指示が出せるようになっているわけです。ラインではなく、あくまでもスタッフということから当然、指示を出しても思いどおりにならないケースも、と想像されるでしょう。しかし、実際は長い歴史のおかげで有期的に機能しているうえ、長谷川さんの"10ヵ条"にそい、十分に説得できるだけのものを、もう"思想"といえるほどに身につけて臨みますため、まあ絶対にあり得ないケースです。
塩見正直
モデルチェンジの決意は、それがかなえば占拠率の維持どころか間違いなく伸ばせるとの自信を持ったためですが、容易になっとくしてもらえず……。実はその間、ディーラーをよく訪れるんです。途端に、説得に必要な陰口をたたく向きも現れますが、実際はそうではなく、目的もないのに等しい状態なんですね。ならばなぜ、もっと重要なときにそんなムダを、と思われるでしょうが、いろんな話をディーラーとしているうちに、結局は自分がやらなければいけないんだ、となかなか納得してもらえぬことで失いかけた自身がとり戻せるんですよ。ディーラーに"主査さんのおかげで、いまのも売れてます。そらに売れるようにして下さい"なんていわれると、うれしくなりまして……。いかにも"単純人間"の典型みたいですが、私はそう自分しているほどで、常に強気と弱気を交差させながらずっとすごしてきただけに否定する気にもなりません。まあ、そうだからこそ、これまですごせたようにも思ってます」
「300億円もの大金が使え、優秀なスタッフも使えて、自分が乗りたいような新車を思いどおりに開発できる職業なんて、世界中どこを探したってありっこないから、その実感はたしかなことと思うよ」
「だが、思いどおりの新車に着手できるまでが容易でない。"あの重いをするくらいなら"といった先輩も……。本当に、あの説得はきついと思うね」
「主査の好きなクルマであっても、主査が売るのでなく会社が売るんだから、トップがモデルチェンジの企画をなかなか納得しないのは当然だし、だからあとはノーチョイスなんでしょう。いのどき、ちょっとしたことだって、好きなようにできる、いやさせてくれるところなんて、むしろ奇跡に近いんじゃないかな」
主査業
「トヨタは週休二日制です。が、もう準備作業をはじめたら土曜日は休み返上ですね。帰宅は遅いし、疲れから自宅では寝るだけなんです。考える時間なんて出勤と退社のわずかな時間だけといえる状態でしょう。週休二日制を守れといわれたって、守ろうにも守れないのが現実で……」
「"現場現物主義"にそって可能な限り取材して歩き、イメージを作り上げる、いわゆるクリエイティブな仕事と大同小異なものですから、それも仕方ないですね」
「好きな仕事。それも思いどおりにやれるから苦にならない。だから仕事好きとか、一時期いわれた"モーレツ人間"なんかともちょっと異なる。いってしまえば、自分を満足させるためにやってる仕事でしょう」
「だとすれば、ますますクリエイティブな人材にならないといけないってことじゃないですか」
「クリエイティブな人材に、いくらなったって、ひとりでできる仕事ではなく、スタッフがついてきてくれるというより、文字通り"手足"になってくれないと、満足なものは生み出せない。その点が、一般の人が認識しているクリエイティブうんぬんとはまったく違うところだと思うんです」
「スタッフの巻き込みは、いまの指摘どおりけっして容易ではありませんね」
「容易でない証拠に、僕なんかいけないことと知りながらわめいてしまって……。長谷川元専務は"自分の意図をスタッフに理解させる方策として7回、同じことを繰り返してみろ"とおっしゃっていたけれど、7回はおろか70回もいわないと徹底しないのが現実なんだからたまらない」
新車の開発より、スタッフを"手足"のように働かせるまでにすることのほうが、どうやら苦労しているらしい。が、スタッフは直接の部下だけに叱りつけることもできよう。でも、組織上つながらぬデザイン部、ボディ設計部、エンジン部などの協力をあおぐときには、そうはいかない。
「かつて専門部署だったことをちらつかせたら、絶対にダメですね。私は"主査はもとうちにいたんですか"ときかれてもとぼけるようにしてるんです」
「その態度が賢明ですよ。専門領域外のことは、いうことも控え目になるから、逆に弱点となって露呈する危険はあるけれど、仕方がないって気持ちで取り組むと、相手もわかってくれて積極的に協力してくれたっていうケースもありました」
「いわば大人の態度……。しかし、聖人君子でない弱輩だけに、ついついへらず口をたたいてしまって失敗することが多くてね」
「僕も似た経験は何度もしてます。部分的とはいえ極めてガンコなところがありましてねえ」
「自分を信じると同時に、相手も信じるようにならないと、主査って"商売"はうまくいきっこない、と長い間やっていると自然とわかってくるもんです」
「"みなさんの力を信じるしかないんです"って初めからいってしまうに限りますよ。私は、それを処世術にしてきたのがよかったのか、抵抗された経験はないですね」
『』だが、そういうやり方には賛成できないな。やはりいいたいことはいって、反論されたら反論されたで、そのなかからいいと思ったものは汲み上げて反映させることで引き込まないと……。車両主査制度は、すでに歴史もあっても相手だってどういう立場なのか、あえて説明せずともわかっているのだし、よほど高飛車に出ない限り、結局は協力してくれるもの、と思って取り組むことだってときには必要なんですよ」
どういう新車にするのかのすべての判断をゆだねられているのが主査である限り、もっとも重要なのは信念である。その信念を突き詰めていけば哲学ないし思想といっても許される。主査は、単なるまとめ役ではない。自分の考えた方向に関係部署だけではなくトヨタの総体を走らせる。よほどの器量と信念がない限り、その雰囲気をつくることも不可能だ。しかも、主査はそれにすべてを注ぎ、生活までも犠牲にする。別にこれといった特別報酬があるわけでもないのにである。自分で乗ってみたいクルマが作れる喜びと、クルマ作りが好きでたまらないことに起因する。これは、見方によればけっしてノーマルではない。むしろ異常といえる。信念とか思想の問題にまでふれるのは、異常さが主査たちの発言の随所でかいまみられることも関係する。だが、そこまで突き詰めるからこそ、"名車"も生み出せるといった指摘も可能だ。
「とにかく、総合的に皆の力を結集して一つのものを作り出す。そのため"匠"の視点でとらえられたくないんです」
「"思想"をもったまとめ役ぐらいにみてくれたほうが気持ちも楽になります」
「本当。だから僕なんかでもできるんです。昔からまとめ役は好きで、やらせてほしいとだだをこねたくらいですのでね」
「なるほどねぇ。が、僕の場合は違っていて入社当時、主査の人たちがひどく偉くみえたものです……。いずれ自分も主査になってみたいと思ったんです」
「ところが、いざなってみたらけっして偉くもないことがわかりガッカリした。なのにやめられないで開発を繰り返しているうちに、好きなクルマ作りの魅力のとりこになってしまった。それがホンネでしょう」
「果たしてそうでしょうか。いったん開発に取組むと、少なくとも三回は行き詰まりますね。そのつど、これはどなたも経験しているはずですが、元に戻ろうかと……。だが、三つ目の山がきたら、これを越えたらゴールなんだと考え、勇気がわき起こるんです。僕の場合、戻るべきか突き進むべきかの判断を絶えず迫られたことによって自然と身についた、突き進めないはずがないといった信念もさることながら、やはりトヨタそのものに対する信頼、特に技術力への絶対的な信頼が、それを支えてきたばかりか、大きく増幅させたように思えてならないんです。おかげで、いまも主査を続けていられるんですよ」
「たしかにそうかも知れない。精神力にプラスした技術力に対する信頼は、われわれに自身をもたらしてくれた。もっとも、技術力がなければ、いくらいいものをと望んだって果たせないんだから、主査の生きざまや思想などとは別問題との見方もできる。といって、わけて考えろといえない関係にあるのが技術だけに難しい問題ですね」
第4章 誇れる技術があればこそ
エンジンは軽くなると、まず第一にフリクション(摩擦損失)が減少する。エンジン性能からみてマイナスでしかないそのフリクションを減少させて直ちに大きな効果が現れるのは燃費低減と出力アップだけれど、それだけにとどまらず、いわゆる"ドミノ理論"に基づきミッションなど伝導系統や足回り部品など、他の部品の軽量化も促す。当初、業界が予測していた以上の大きな波及効果も現実のものになったというわけである。
世界の自動車メーカー、技術者の共通した永遠のテーマは、ウォーク・ホーム・フェラー(歩いて家に帰らなくてはならない事故)をいかになくすか
故障のないクルマを作るうえで重要なのは品質管理、生産管理を徹底させることだといわれている。が、同時に設計技術から組み合わせ技術に至る基本的な技術の優秀さが確立されていなければ、いくら品質管理、生産管理に力点を置いても、とうていかなうことではない。
デミング賞受賞の直前に豊田英二がはなしたこと
昭和31年1月に、国産初の本格的乗用車であるクラウンを発売し、幸い非常に好評でした。おかげで会社は急速に発展しましてね。ところが、いろいろな問題が露出し……。人員は約二倍になり、生産は役七倍にふくれたのですが、品質の向上につり合って進まなかったのです。また、新人の増加、教育の不徹底、管理者の力不足と未熟練、横の連携の悪さなとも目立ちました。それとともに、競合企業同士の品質競争が激しくなったのですね。
そこで私どもは、第一にトップにおいて品質目標をもっと明確にし、これを従業員に徹底させ、第二に、部門の機能的な連携がはかれるような体制を作る必要があることなどを反省したのです。そして、そのために従来からやっていたQC(品質管理)を、さらに全社的なものとして推進することに決定したわけですよ」
初代コロナの品質問題を受けて
「第一段階は、国際的水準の品質と価格を実現させよう。不良品、不良箇所については半減運動を開始する」
この大号令のもとにいずれの工場も、就業時までQC、QCの合い言葉が繰り返された。少なくともクレーム、手直し、材料の不良などを半減させようというのだから楽ではなかった。QCとは、単なる検査ではなく「工程で作り込むことをいっている」と指導されても、古くからの職人には容易に理解できず、そのうっ積からのトラブルも随所でみられた。つまり、TQC運動はオール・トヨタの意識の変革を求めたもの、と映らなくもなかった。昭和38年の年頃には、石田社長はこう年度方針を示した。
「デミング賞の受賞をねらおう!」
それにそった機能別の管理体制の整備が行われ、役員の部別分担制が廃止された。こうして作り出されたのが、実は第三代カローラだったのだ。そして、デミング賞も受賞した。トヨタが、実質的な意味で"世界のトヨタ"になったのは、そのときである。
排ガス規制
当初、4-5人の技術者が開発していた
「エンジン単体の排ガスを浄化するだけでもまったく新しい技術開発が必要とされ、解決すべき問題も多い。さらに千差万別の、それぞれがまったく違った条件のなかで走るクルマに載せるとなると、安全性、操縦性、経済性などの付帯条項も一緒に解決することが絶対的に要求されてきます」
ガス・タービンの開発検討から既存エンジンの改良、さらに触媒方式など、方式はいろいろあった。化学、機械、金属、電気など総合産業といわれる自動車メーカーの、ほとんどの分野に関連したスタッフが集められ、本命探しがすすめられた。そして、マスキー値を下回るには触媒方式しかあり得ない、という結論に到達する。が、それはいってみればエース選定が終わってスタートラインに立ったというだけにすぎなかった。次の目標は、何千種類とある触媒のなかから、クルマに使って最適なものを選び出す作業である。
「化学の専門家に笑われたこともあります。触媒は"一定の条件"の下で使うのだ、というんですね。だからといって、もはや引き下がれない。体系的につぎつぎと、エンジンにとりつけてみるしかなかったんです
スタッフは519人に増え、マイカーに取り付けて走った
昭和48年にアルミナをベースに貴金属を使うという決定になり、50年規制で任務氏有料
昭和45-49年の五年間で483億円の開発費
生産技術にバトンタッチする際はスタッフは2000人に
長谷川龍雄の世界商品戦略
「いつの世になっても、トヨタとしての開発理念は貫かなくては……。その一つは、ハイ・イフシャンシィ(高効率)でなければならないということ。つまり、それぞれのクルマの大きさに応じていちばんいい燃費効率を実現することです。使う目的に対して、その燃料消費がリーズナブルであるかどうかが問題なんですね。
基本的理念の残る二つは、魅力と品質です。魅力はクルマ本来のいのちであって、それは絶対に削れません。単にトランスポーテーション(輸送機関)というだけでなく何か別の魅力があるからこそ、皆さんに買ってもいただいておるわけですからね。クルマそのものをエンジョイする魅力というものは、維持保存して、さらに発達させなきゃいけないんです。スタイルとか走り、快適性など、クルマの持つ魅力は大切にしなければなりません。
一方の品質のよさとは、仕上げのよさとか、無故障、バラつきがない、耐久信頼性、またすばらしいステアリング特性を持っているといったことも含めての安全性など、いっさいがっさいを満たしたものです。
大野耐一
昭和18年に豊田紡績からトヨタ自工に移る
かくも大野を駆り立てたのは、もともとクリエイト的な人物であったため、と指摘する向きもあるが、それはほんの一部分にすぎず、葬儀用者の人間性にほれ、あまつさえ「ジャスト・イン・タイム」の発送に強い啓示を受けてのこと、と大野と交友関係にあった人たちの大半はみる。
「ジャスト・イン・タイム」についても、すでにふれているが、ここでもう一度記すと、「組み付けに必要な部品が、必要なときにそのつど、必要なだけ、生産ラインのわきに到着すること」である。
創業時から、優れた大衆車づくりを意図していた創業者ならではの、誰もがとうていまねのできない"夢"であり、こだわりなのだ。大野は、それをかなえてやろうと苦闘する。
大野耐一の仮説
大野が描いていた仮説とは「前工程が後工程へ供給するという既成概念を否定し、まず"後工程が前工程へ必要なものを、必要な時、必要なだけ引き取りに行く"と考え、次に"前工程は、引き取られた分だけ作る"」というものだった。
"かんばん方式"は生み出されたわけだけれども、根づかせるまでには、われわれの想像をはるかに超えた抵抗があった。もっとも、それについてもすでにふれているので、ここでは省略する。大野はいった。
「トヨタ生産方式の徹底化によって原価低減は可能とわかっていても、なにごともそうであるように、生兵法は大けがのもとになるのです。そのため、それには産業人としての意識改革こそ先決だと……。
長い間の高度成長時代を通じて、作りさえすればどんどん売れるものだから、ただ"量とスピード"だけを求め、それに慣れ切ってしまっていました。その結果は、いつも相当量の在庫をかかえているのが当たり前という気持ちとなり、そこにオイルショックが襲ってきて、低成長が常態となり、作りすぎのムダといった経営ロスの最大の元凶に直面し、あわてふためく。まずこの頭の切り替えこそ肝心なのですよ。そうでなければ、トヨタ生産方式の特徴も生かせません。いや逆に殺してしまうことになりますね」
技術は経済に裏打ちされなければならない。いかにコストダウンをはかり、いかに大衆の要求にこたえるか
第5章 経営の安定が“名車”を生む
自前拠点と直営拠点
たしかに、直営だと運用は容易となろう。本社の意向を末端にまで徹底させることなど、直営であれば間違いないが、だからといってその徹底が販売実績に結びつくかというと、けっして容易ではなく、「むしろ逆」とみる向きのほうが多い。なぜなのだろう?
①本社の"窓口"も、営業拠点の責任者もビジネスマンであり、しかも"いずれわが身"ということもあり、かばい合いが必ず芽吹くこと。②責任者には"自前"でない認識から、あえて拠点のにくまれ者になるより、要領よく、ほどほどにまとまった拠点に仕上げたほうが得策との考えが、常に潜在していること。③これは責任者の任期がいくら長くとも、三~四年とあらかじめ決まっているという事実と関係があること。④拠点の従業員にはそれへの不信から、彼らなりに要領よく振るまうようになること。⑤"体"を張った責任者でなく、むしろ"実践"では素人に近いため、目標達成をせまっても彼らの用意したいいわけには、結局は納得せざるを得ないことなど、ちょっと調べただけでもこれだけのデメリットが指摘できる。
対照的に、営業拠点が"自前"だと、営業窓口に「こんな新車を売れというのか」など、厳しく食ってかかる事例は日常茶飯事で、窓口のそのために使うエネルギーたるや想像をはるかに超す。広報担当者はいった。
『』しかし、その厳しいやりとりは、これまで以上の強い"一心同体"の意識を生み出すんですね。だからいったん納得したならば彼らは、窓口の重いも及ばぬほどセールスしてくれます。"自前だからです。一台でも多く売れば、その利益はそのまま営業拠点のものになるためです。
営業拠点の"自前"システムを作り出したのは、トヨタ自販の社長として"販売のトヨタ"といわれるまでに仕上げた神谷正太郎である。
自販は、昭和26年に自工から販売部門を分離して設立された者で、戦後の急激なインフレと労働争議で最悪な事態になったトヨタの救済条件として金融機関が示した大幅な人員整理や会社の分割に、そった処置だった。
神谷はトヨタの生え抜き(豊田自動織機の出身)ではなかった。
創業者が、豊田自動織機に自動車部を設け、自動車づくりを始めるに当たって営業も必要ということから、日本ゼネラル・モーターズ(GM)にいた神谷に目をつけスカウトしたのだ。神谷の"弟分"で神谷から自販の社長を継いだ加藤誠之トヨタ元相談役らも同様である。
加藤が語るトヨタの誕生秘話
A1型(普通型乗用車)、G1型(普通型トラック)とも、昭和10年②完成したのですが、当時の社名は豊田自動織機のため、ボンネットの先につけるマスコットも、初めのうちは漢字の豊田を図案化したものでした。が、輸入車に対抗して大衆向けに売り込むためには、やはり片仮名のほうがなじみやすい。創業者に相談したら"すべてまかせる"といってくれましてね。ならばと、社名入りのマークを一般に募集したら、丸のなかに"トヨダ"というものが一番多かったのです。そこで片仮名にすることにしたのですけど、問題は"トヨダ"か"トヨタ"かで……。
普通、豊田の読み方は"トヨダ"であり、現に豊田自動織機の作った自動織機の横文字のマークはすべてTOYODAでした。ところが、社内に"トヨダだと字画が十画になる。十画というのは満ち足りてしまって、これ以上の発展は望めない。ダの濁点をとって八画にしたほうが末広がりで縁起がいい"との意見がありました。そのうえ、トヨタと縁の深い名古屋市の市章も丸のなかに八の字です。図案化したときも濁音がないほうがすっきりします。あれこれの理由で結局、濁点をとってトヨタに決めました。この結果、自動車部が分離、独立したときの新社名もトヨタ自動車工業になったのです」
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1936年
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1989年 平成元年 創立50周年
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【豆知識】登録商標の変遷
いまや"トヨタの武器といわれるどの営業拠点も、マーケッティング資料を豊富に持てるまでになれたのは、前出の神谷の市場調査を習慣にまでさせた徹底化の見返りといえる。おかげで、営業区域内の主な家庭の結婚記念日、子供の誕生日から飼っている犬や猫の数、名前にいたるすべてがわかっている営業拠点も珍しくなくなった。
ギネスブックにのる男
トヨタオート東埼玉の椎名保文課長は、ギネスブックに「世界一、クルマを売る男」として載っている。過去十八年間の販売台数は5300台、つまり、一日一台の割りである。が、名刺に「6000台に挑戦」と、大きく刷り込んでいることで明らかなように課長ではあっても、セールスマンとしての引退は考えていない。
これだけ打ち込めるのは、一台売ればかなりの報酬があるため、と誰もが想像する。しかし、実際は基本給プラス一台につき4000円がつく程度にすぎない。だから、ゼニカネの問題ではないと言い切れる。彼もいった。
「要するに、男の仕事と生きざまなんですよ。椎名ファンをふやすんだ、絶対に誰にも負けたくないって気持ちだけですよ。でも、人生なんて何につけ意義をみいださなければやっていけません。そうじゃないですか」
営業の研修
採用者は、入社前の三日間、トヨタ本社の研修センターに送り込み、その後の三ヶ月を本格的な研修期間に当てているんです」
三ヶ月間に、セールスアプローチから納品にいたる基本をたたき込み、セールスマンとして実際に行動させるのは七月からとなっていても、いわゆるOJTで、ノルマ(目標販売台数)はなく、訪れた家で何を話したのかなどを「セールス日報」に書かせ、提出させて課長らの指導を受ける毎日だ。これを三ヶ月ぐらい続けて始めて月一台のノルマを課せられる。二年目になると、ノルマも月二台にふえる。
「二年目からは"お客様カード"も作らせます。このカードは三種類あり、お客様の名前、住所、使用車だけがわかっている場合は赤カード、それに加えて家族構成、生年月日などもわかれば青カード、さらにいまの使用車の購入年月日、前のクルマの種類、次の車検時期、購入予定、欲しがっている車種、いまの使用車を購入したディーラーなどまで加わるとゴールドカードになります。三年目にはゴールドカード300枚というぐあいに……」
イメージ戦略
技術のトヨタ、販売のトヨタ、教育のトヨタ
協豊会
各地の営業拠点がトヨタと"一心同体"ならば、トヨタ生産方式――つまり、俗にいう"かんばん方式"を支えている「協豊会」と呼ばれる部品メーカー群も同様だ。関係者のなかには「その強力な下請け軍団こそ、トヨタの高収益の源泉」といい切る人さえいる。
創業者が「材料、部品、その他いっさいの関係品もまた有機連絡下に統一せられ、いわゆる」といって、初めて「ジャスト・イン・タイム」の言葉を公の場で使ったのは、昭和13年挙母工場竣工のときで、その翌年には東京、蔵前会館でトヨタの下請け部品メーカーによる「協力会」が発足した。「協豊会」の前身である。
トヨタと下請け部品メーカーが、話し合いの場を統一し、よりよい協力関係を作るのが目的だった。当時の会員は約20社で、明道鉄工所(ねじ)、小島プレス(ワッシャー)など、いまもトヨタの主要下請け部品メーカーとして名を連ねている企業が大半だ。
この「協力会」を母体に「協豊会」が発足したのは昭和18年で、初代会長には当時のトヨタの赤井久義副社長が就任している。戦時中だった。が、トヨタとの関係はますます深いものとなり、スタート当時は東海地区の下請けメーカーが中心の「協豊会」だったのに、関東、関西地区の下請けメーカー群も「ぜひとも参加させてほしい」といいだすようになる。しかし、全国組織への転換は戦後の21年に持ち越された。その年「関東協豊会」が、翌年「関西協豊会」がともに発足し、従来の「協豊会」は「東海協豊会」に名称を変更した。総計200社を超す大組織となる。日本の業界はもちろん欧米の競合メーカーの感心しきりのトヨタと下請けメーカー群の、切磋琢磨が本格化したのは、この時点とみて間違いない。
だが、このときこそ実は創業以来の危機に直面していた。繰り返しになるが、自販分離もそのための処置だった。まるで当然のことのように下請けメーカーへの納品代金の支払い遅延も相次いだ。が、それでトヨタに見切りをつけて「協豊会」を脱会した下請けメーカーは一社もなかった。いずれのメンバーも当時を、むしろこういって懐かしがる。
「トヨタとの"一心同体"の意識を強くさせてくれた、かけがえのない一時期でした。トヨタやわれわれの歴史における胎動期ともいえましょうね」
トヨタがその生産方式を末端にまで浸透させるのに当たっては言葉ではいいつくせないほどの努力と苦労があった。誤解やトラブルを経験し、生産機能がまったく麻痺してしまった下請けメーカーの事例も少なくなかったらしい。ネをあげたところもあった。その一つ一つを、いわばつぶして歩いたのが、当時の自工社長で"中興の祖"といわれる石田退三だったことについての、ちゃんとした記録もある。それによると、疑念や不満を持つ下請けメーカーの従業員の前に進んで立って石田は、こういったのだ。
「あんたら、トヨタのやりかたでは、えらいとか、しんどいとかいうが、これをモノにすれば、トヨタがつぶれてもGMやフォードが買ってくれるのでいい。一生懸命やれば、そういう部品メーカーになれるし、すばらしい職人として認められる。間違いない」
「下請けいじめ」などと堂々と批判されたならば、トヨタでないメーカーの場合、おそらく下請けグループから除外するような報復処置に出たに違いない。しかし、トヨタは逆に下手に出た。おそらく、創業以来の危機に直面したとき、見捨てずに協力してくれたことに対する感謝の気持ちがそうさせたのだ、と小島プレスの経営首脳は推察する。
トヨタ御三家
大豊工業
大豊工業が独自に開発した実験機械を使い、基礎研究を重ねてきている。しかし、レベルは抜群に高く、講師として招かれた東大教授が「いまでも博士号をとらせていい社員が10人はいる」と保証したほどである。さらに脅威なのは、そのうちの三人が高卒ということである。これは、とりもなおさず層の厚さを裏づけるもので、事実、新技術排出能力は年々向上し、昭和54年には特許申請が100件を超すレベルに達した。
「基礎的なことがわかれば、特許なんて、いくらでもみつかるものです」
従来の技術革新は、応用面に偏り、基礎疑似油津については欧米からの詩薬用というケースがほとんどで、大豊工業もけっして例外ではなかった。
カローラの斎藤主査の次の言葉にも、いかにトヨタの労使関係が長期安定的なものであるのかの裏づけが含まれていた。
「製品企画室には関係者以外の立入りはできないんです。が、強力工場(下請けメーカー)からはしょっちゅうみえます。いっしょになって開発関係の部品について考えるケースが多いからです。僕なんかはるかに及ばない高度な技術の持ち主もいますからね。その技術を引き出すのも主査の役割でしょうし……。いまのトヨタは、労使だけでなくグループすべてが"一心同体"なんですよ。そうでなければ売れる乗用車は作れませんし、また売れません」
第6章 GMに追いつき追い越せ
広報担当者の言葉
「いまでもトヨタに関する単行本などたくさんありますが、ほとんどがあらためての取材もなくて……。普段のおつき合いもさることながら、独自に集められた資料で、独自の考えを加えて書かれたものばかりといってもいいくらいなんですよ。
能率
「能率とは」「個々の能率と全体の能率」「能率向上はムダの排除」の三節からなっているのが「能率」だが、それぞれの説も細分化されている。
たとえば、第一節「能率とは」の場合、「効率と能率」「目的と原価低減」「"生産量=必要数"が大前提」にわけ、さらに「目的と原価低減」の部分を「稼働率と可動率」「真の能率と見かけ(計算上)の能率」の二部構成にしているほどのキメ細かさだ。これは、明らかに理解を促す配慮にほかならない。第二節「個々の能率と全体の能率」のなかの「ライン作業り能率」ではこういっている。
「この段階で大切なのは、作業者間のバランスと相互の助け合いである。作業者間のバランス――これは言い換えれば、タクトどおりの生産わ行い、作りすぎをしないことだ。ある作業者が自分だけの高能率をめざして早く作ると、次工程の作業者の前に品物がたまり、これを片づける作業がふえてしまう。しかも、気持ちはあせり仕損じがふえることもある。これではライン全体でみた場合、かえって能率が落ちる。
一般に数人で作業しているところは、必ずネックになる作業工程があり、これがラインの能力となっている。ライン全体の能率を向上させるためには、そのネック工程の作業者を助けなければいけないが、実際には、早くできる人はどんどん物を作ってしまうので、ネック工程前にそれがたまってしまう。これではかえって足を引っぱって、能率を落としているようなものである。
これを防ぐためには、標準作業をはっきりと決めることによって、標準手持ち、タクト、作業順序を守らせ、それによって手待ちができるから、編成がえを行って、バランスをとらなければならない。プレスのように並んで作業するものは、手元に部品が一つきたら、コンベアを止めるような工夫をすることも必要である。
相互の助け合い――いまいったやり方で、作業者間のバランスをとっても、まったく完全にはできないことが多い。数人でやるライン作業には、小さなアンバランスはつきものである。この場合、早く終わった方が遅い方を少し支援することによって、ライン全体の能率を向上させることが可能となる。工程の割りふりを行っても、そのさかい目は相互に助け合うようにすることが望ましい。
たとえば、前工程がちょっと早く終わったら、製品を次の大一工程の治具にはめてやるようなやり方を工夫するといい。
なお、この考え方については、水泳と陸上競技リレーのバトンタッチのやり方が参考になる。
水泳におけるリレーでは、第一泳者がプールサイドにタッチしてから、第二泳者が飛び込む。これに対し、陸上競技では20mのバトンタッチゾーンがあり、このなかのどこでバトンを手渡ししてもいい。
したがって、水泳の場合は早い人も遅い人も100mずつ受持つのに対し、陸上の場合は、速い人に120m走らせ、遅い人に80m走らせるといった"作戦"が可能になる。
現場の仕事の場合は、陸上のリレーでなければいけない。監督者はラインの能率向上のために"作戦"をたてることができるよう、バトンタッチゾーンを作っておくことが望ましい」
また、第三節「能率向上はムダの排除」での中の「能力の浪費はムダ」では、現状の能力=仕事プラスムダ(作業=働きプラスムダ)が、いわゆる普通の状態であることを示したうえで、
「これからムダを省いて、その分だけ必要な仕事をふやせばふやすほど、現状の能力は"真の能力"(100パーセントの仕事を真の能力と呼ぶならば)に近づいてくる。そうすれば、同じライン構成でより多くの製品ができるようになる。しかし、必要数だけしか作ってはいけない。だから、人を減らして多すぎる能力を必要数にちょうど見合ったものにするのである。これは、作業者ひとりひとりについても、工場全体についてもまったく同じである。
作業者ひとりひとりについては、付加価値を生ずる作業と、それに関連してどうしても必要な作業だけにしぼり、これ以外のムダを省くようにする。ラインについては、このような高効率の作業を順に割り当て、はんぱな工数を改善によってなくしていく。さらに、工場全体についても、このようなラインを中心に全体のバランスをとり、ロットをできるだけ小さくし、平準化生産を行って余分な運搬などが生じないようにする。と同時に、不良品の多発などによる検査、手直し工数の増大をなくすよう改善していくなどである。
このようなことが行われていけば、だんだんムダがなくなり、その分だけ作業者もラインも向上も必要な仕事ができるようになる。すなわち、隠れていた能力が現れてくるのである。このときに工数低減を行えば能率は上昇する。こう考えてくると、能率を上げるということは、結局、ムダを省くことである、ということがわかる。ムダの徹底的な排除、これがわれわれの行わねばならない一番の基本なのである」
このようにわかりやすく記し、指導している。が、アメリカでは自分の能力を売りものに交渉のうえ賃金を決め、契約して働き出すのが大半だけに、とうてい受け入れられなかろう、と移る生産方式の一部だ。ホンダ・オブ・アメリカの経営首脳は、そのとおりになれば、つまり受け入れられなければ生産を軌道に乗せるのは容易でなくなり、脅威は遠のくとの見方である。ホンダで働く者の大半はユニオン(組合)と関係ないが、トヨタの場合は全員が加盟しているに等しい。でも、トヨタはそのハンディも承知のうえで、さして心配していない。
「仕方ないですよ。会社の設立事情がまったく違いますものね。でも、マニュアルを得て、ディスカッションを重ねたすえにいったん納得したら、絶対契約を守る国民性でしょう、それに期待する以外にないと思います」
「人間には、個性化志向と人並み志向の二面性があって、大半の人間は常に両者の間で揺れ動いているってことにも直視すべきですよ。その直視が的確ならば、多品種少量時代になっても、見捨てられるクルマにはなりません」
「たとえば、それは?」
「カローラですよ。人間の持つこの二面性についての深い洞察があったればこその、明らかな成果と思います。あまり個性的すぎないし、かといって平凡すぎないんです。そのバランスが実に見事なんです」
開発主査たちは一体なにを基準によろこび、悲しみ、落胆するのだろう? テレゾのレギュラー番組の担当プロデューサーやディレクターの場合、視聴率である。商品開発担当だと、手がけた商品がヒットし売れることなのだ。
「クルマは、パーソナルな移動の手段と考えると、クルマほどいいものはない。その利便性を大衆に提供していこうというのがトヨタの考え方ですからね。大衆に求められているものを、われわれは提供する義務があるってこと。それにかなったクルマが作れたかどうかが、私の基準ですよ」
「それは簡単にいうと、クルマは楽しくなけりゃいかんということですね」
「やはり行き着くところは、カローラのような二面性が満たされているかどうかの評価で合格点をとり、ヒット商品の典型といわれるほど世界で売れ、何気なく出かけた外国の主要都市に立った僕の目の前を間断なく行き交ってくれることです。そんなクルマが作れたら、もう何もいうことはありません」