中村健也
1913-1988
一日に三時間は読書をしなければならない
1968年 400万のミニコンピュータを自宅用に購入した。当時、戸建てより高価。
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トヨタ初の主査
ハイブリット自動車の開発着手
昭和09年1934年3月 長岡高等工業高校(現 新潟大学工学部) 電気工学科卒業
昭和09年1934年5月 株式会社井立自動車製作所入社
昭和13年1938年9月 トヨタ自動車工業株式会社入社、車体課ボデー工場工機係
昭和14年1939年5月 総組立課ボデー工場
昭和18年1943年11月 粗形材部 部長付
昭和20年1945年8月 製造部車体課課長代理
昭和21年1946年4月 製造部車体工場主任
昭和25年1950年3月 車体工場次長
昭和27年1952年1月 初代トヨペットクラウン企画受領
昭和28年1953年5月 技術部主査
昭和30年1955年1月 初代トヨペットクラウン(RS10型)発売 開発主査
昭和32年1957年7月 初代トヨペットコロナ(ST10型)開発主査
昭和35年1960年4月 二代目トヨペットコロナ(PT20型)開発主査
昭和37年1962年10月 二代目トヨペットクラウン(RS40型)開発主査
昭和39年1964年4月 トヨタ・クラウンエイト(VG10型)開発主査
昭和39年1964年8月 技術管理部参与兼主査
昭和40年1965年2月 製品企画室参与兼主査
昭和42年1967年11月 センチュリー(VG20型)開発主査
昭和49年1974年 東京大学宇宙航空研究所 研究顧問
昭和50年1975年7月 顧問技術者
昭和55年1980年 トヨタ退社
昭和9年1934年3月 長岡高等工業高校(現 新潟大学工学部) 電気工学科卒業
昭和9年1934年5月 株式会社井立自動車製作所入社
昭和13年1938年9月 トヨタ自動車株式会社(現 トヨタ自動車株式会社)入社、車体課ボデー工場工機係
昭和14年1939年5月 総組立課ボデー工場
昭和18年1943年11月 粗形材部 部長付
昭和20年1945年8月 製造部車体課課長代理
昭和21年1946年4月 製造部車体工場主任
昭和25年1950年3月 車体工場次長
昭和28年1953年5月 技術部主査
昭和39年1964年8月 技術管理部参与兼主査
昭和40年1965年2月 製品企画室参与兼主査
昭和50年1975年7月 62歳 顧問技術者
昭和26年1951年7月 鋼鈑用2000トンプレス機製造(6年のプロジェクト) 1942~51
昭和30年1955年1月 初代トヨペットクラウン(RS10型)開発
昭和32年1957年7月 初代トヨペットコロナ(ST10型)開発
昭和42年1967年11月 センチュリー(VG20型)
昭和47年1972年6月 ガスタービン研究が工業技術院の中核プロジェクトに認可
昭和49年1974年 東京大学宇宙航空研究所 研究顧問
国産乗用車クラウンの開発 自動車技術会
『トヨタをつくった技術者たち』
トヨタ クラウン 伝統と革新
開発
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ポータブルスポット溶接機
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自動アーク溶接機、超大型2000tプレス
著作
溶接と付合った日々の思い出
乗用車用小形ガスタービンの開発 (< 小特集> 内燃機関)
トヨタに転職するきっかけとなった豊田喜一郎の宣言 流線型 第一巻 第一号1937年1月1日発行 より
私は自動車製造事業法の生まれるに至った理由を考えると、自家の小利を忘れて一日も早くこの工業を確立しなければならないものと信ずる次第です。
この法案の生まれた動機は二個あります。自動車が、益々機会化されてゆく近代軍事国防上に不可欠のものであり、一刻も早く自給自足の確立の必要なるはその一。次に年々外国より流出し或いは国内で外国会社の手によって動かされている概計一億円に余る金額の支配権を、当然我々日本人の手に帰さなければならないことが、其の経済的理由でありませう。
自動車工業は広範囲に亘る他の工業力の綜合によって成り立っています。従ってこの工業の確立は他の諸種の工業を促進発達せしめる事ともなり、近時躍進の一途を辿りつつある我が産業界を益々豊富にしてゆく筈です。併しこの事業は政府や生産者ばかりの手では万全を期する事は出来ません。之を育て上げるのは実に国民大衆諸君の御協力による外なりません。
単に日本人の手に依って出来たというだけではまだ国産車として徹底しません。日本の地理や日本人の趣味に適合し、現在の日本の運輸経済にピッタリ即した物こそ日本と不可分の自動車です。
新しい年を迎えて一製造者としての私は、一刻も早く外国車以上の国産車を完成すべく努力する事を思って勇躍しています。何卒国民大衆の皆様もこの微意を賛して我々を御後援御鞭撻下さる事を偏に願うしだいです。
車体工場での経験
車体工場ではアセチレン溶接やアーク溶接が主力だったので、油圧ポータブルリベッターや据置型点溶接機、バット溶接機に関心を持った。
トヨタにはフラッシュバット溶接機の大規模なものはなかったが、設計上の興味から資料を集めたり見学にも出かけた。溶接機の試行的計画設計を楽しめる時間があったので、サイラトロン制御のシーム溶接機を試作し、変圧器の設計とサイラトロンの使用法を勉強した。
当時、資料も製品もサイラトロンが多く近づき易かったが、試験結果を吟味した結果、本格的に電子制御を計画する場合にはイグニトロンで計画を始めるべしとの結論を得た。しかし、肝腎の材質やその製造を引き受けてくれる会社が日本にあるかどうか判らない。いろいろ調べ、電極材料は住友金属工業のクローム銅合金、構造材料は古河電工の銅ニッケルシリコン合金、その鋳造は秋田工場と判ったときには、戦時統制のためトラック増産が最大関心事となってきて話が進まなくなった。
そんなある日、機械工場の千種さんと鍛造工場の飯田さんがドイツのハッセンクレバー社のパンフレットを持ってきて、「エンジンの吸気弁を作るのにバルブステムの頭の部分を丸く膨らませ、赤熱のまま直ちにプレスすると極めて製品に近いバルブ素材ができるらしい。生産能率も上がるし、素材も節約できる。溶接機に似た機械で膨らましているから、リベットヒーターで試みたが失敗だった。無いか手はないか」と相談された。バルブは耐熱鋼なので、電気抵抗は高く、通電すればすぐ赤熱するが、押しても曲ってしまう。先端から加熱して、徐々に膨らます案はどうかとの提案だった。実験してみようと直ちに材料試験課の久米君に協力を求め、ニクロム合金のパッドを造り試行してみた。熱の配分が難しくしかもパッドがすぐ傷むので、黒鉛のパッドを切り出して試みたが、それも大同小異だった。想案投首で眺めている中に、短い部分を少しずつ膨らます案で、ステムを挟んだ電極もずらし、電極の中をステムを滑らせるための尻押棒も動かす。そのために使うカムの回転走度とストロークを何回か試行し、半年くらいの実験の結果作ることができた。
この仕事で、溶接やプレスから鍛造にも仕事がつながることを痛感した。当時ブラックスミスからホワイトスミスにという標語を何となく聞いていたが、このことかと思い辺り、その後プレス機による精密鍛造に関心を持つようになった
鋼鈑用2000トンプレス
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少なくとも1999年まで稼働
1952年に、トヨタが社運をかけた最初の本格的乗用車、クラウンの主査になり企画・設計・生産準備の開発全般を担当する。販売店やタクシー会社の要望を聞くところから始め、『悪路に強く、乗心地のよい乗用車を』というコンセプトを立て、周囲の反対を押し切り前輪に悪路耐久実績のないコイルスプリング独立懸架方式を、後輪に三枚板ばね、観音開きドアなどを採用し、国産技術による初代クラウンを開発する。乗り心地など当時の国内用途にマッチした純国産乗用車として大衆からの熱烈な支援を得る。今日のトヨタの乗用車づくりの基盤が固まる。引き続き、コロナ、二代目クラウン、センチュリーの主査をして開発する。
■初代クラウンの開発■
井上:いよいよクラウンのお話を伺いたいのですが、「乗用車をやるべきだ」という主張をされてクラウンの主査に抜擢されたのでしょうか。
中村:それは、どうかわからない。だけど、自分は「トラックをいくらやっても駄目だ。トラックは乗用車から派生したもので、自動車のソースは乗用車。乗用車の開発をしない会社は、人の尻に付いて行くしかない。そんなことでは駄目だから乗用車が先だ」というころをだいぶ考えていた。1949年頃に、大野修司さんと話をしていて「乗用車をやらない会社は倒産するしかない」と言ったら、「中村君、乗用車工場をやろうとしたらどのくらい金が要ると思うかね」と言われた。正確には憶えていないけど「25億ぐらい要りそうです」と言ったら、「中村君、君はいろんな意見を言うけど、人が聞きそうな意見にしてくれないか。今、トヨタ自動車は五億円だってなかなか『うん』とは言えない」と言われて、そのときは笑い話で済んじゃった。
1950年に、日銀総裁の一万田尚登さん※が「乗用車に手を出して、ペンペン草を生やしても知らん」ということを言っていた。そのように言われると、日本人は「トラックさえやっておけばええ」と曲解する人が多いわけです。下手な運転手と同じで、右側からトラックが着たらそのトラックばかり見て、左側からモノが来ていても気が回らない。
※ 一万田尚登総裁は、「日本で自動車工業を育成しようと努力することは無意味だ。今は国際分業の時代だ。米国で、安くて良い車ができるのだから自動車は米国に依存すればよいではないか」という乗用車開発を批判する談話を発表(日本経済新聞1950.4.13)。
1952年1月に乗用車開発のお鉢が回ってきたときには、先輩では北村忠さん(車体工場)とか小島吉郎さん(総組立工場)とか、多分10名ぐらいいたと思う。「そういう仕事をやらないか」と言われて、「他の人へ回したほうがいい」という目処もない。もちろん、どうやったらできるかという成算があるわけではないから「自分がやった方がいい」とも言い切れない。だけど、みんなに「予々乗用車をやれ」と言っているので、「遠慮をしたいと言えないな。ちょっとこれ断れないな」と思ったから「喜一郎さんはご承知のお話ですか」と聞いた。「ああ、もちろん承知だ」と言われ、会社も本気だと思った。
井上:1955年の「トヨタ技術」に掲載されているトヨペットクラウンRS乗用車の誕生という記事の中に「自動車に関連している人間は誰で乗用車をやりたいと思っている。・・・・」と始まり、「国の産業ということを考えると、どうしても乗用車をつくっていかなくてはいかん」ということと、最後に、「これが望まれて輸出される場合、非常に大きな利益を得られる仕事になる。この目的はまだ達成されていない。最後に笑う人になるまでにまだ3年や5年は掛かるであろう」と書いてありますが、「非常に強い決意というか、どうなるか分からんけども、こうでなきゃいかんのだ」というお気持ちが溢れている印象的な文章です。
初代クラウンの設計基本方針に「こういう車をつくるんだ」ということが明瞭に書いてありますが、この設計基本方針はどのようにして決められたのでしょうか。
中村:そんなに乗用車に関わっていたわけじゃないから、トヨタ自販、ディーラー、タクシー会社などをあちこち歩いて回って聞いた。
井上:この初代クラウンの設計基本方針の4番目に「タクシー用として格安な車」とありますが、その当時としてはタクシーというのはかなり大きな市場だったんでしょうか。
中村:タクシー市場が半分以上だった。
その頃は、ディーラーも限られていた。兵庫トヨタの滝川さんと坂本さんだったかな。大阪トヨタの中井さん、東京トヨタの中村勘七さん、青森トヨタと札幌トヨタの人は、こっちへ来ていることが多かったので、わりあい会っている。一番よく行ったのは兵庫トヨタの滝川さん。タクシー会社は、相互の多田さん、そして国際自動車、大和自動車交通、日本交通、帝都自動車を回った。トヨタの大事だということで、トヨタ自販の大西四郎さん、川本節雄さん、加藤誠之さんなどみんなが応援してくれ、これこれへ行って需要のスケールを見極めろとアドバイスしてくれた。でも、付いて来てくれたんじゃなくて、自分で勝手に行けと言う。
聞いて回った中で「これだけは守ってあげないと困るな」ということを設計基本方針にした。車の計画を立てるときは、まず設計基本方針を宣言する。豊田英二さんに「こういうことを言っていました」と報告したら、「いいじゃないか」と言われた。英二さんは、自分の中にある程度のイメージをもっていて、『近ければ進めと言われ、離れているともうちょっと調べなさい』という反応をする人です。
井上:クラウンの設計基本方針が決まって、次に開発に入っていかれたわけですね。
中村:クラウンの設計基本方針をもとに「こんな車がいいんだ」という下手くそな絵を僕が最初に描いた。ところが、その絵にデザインの人達が何だかんだと注文を付ける。デザインとしては「何人乗りで全長をどれだけにするかが決まると、人間の大きさから車の高さや室内スペースは決まってしまう。エンジンルームやトランクルームの大きさやスペースも決まってしまう。こういう制約の中でデザインをするわけだから、シャシーとかエンジンを収めるのとはわけが違う」と言う。デザインにはいろいろ手出しをして、もめたり話し合ったりしたので、ひと頃「中村語録を作ろう」という軽い冗談話が出てね。「こういうことを言った」という記録をある人が持っていたけど、1人や2人がそんなこと言ったって、デザインルームを挙げてやる仕事じゃないからまとめる人なんか誰もおらんわね。
井上:ぜひ、まとめておいて欲しかったですね。観音開きにしたのは、どのようないきさつだったのでしょうか。
中村:その頃の乗用車の主な需要はタクシーで、当時のタクシーは運転手の他に助手がいて、お客さんを乗せるときに助手が車から降りてドアを開けていた。「助手がドアを開けるのに観音開きの方が楽なので、観音開きにしてくれ」というタクシー会社の要望に応えて観音開きにした。ところが、車ができる頃になると「近頃はアメリカ式の後開きが多くなってきたから、タクシーも後開きがいい」なんて言い出されて・・・・。
井上:お客さんの要望を先々まで読むのは難しいですね。
ところで、最初のクラウンを発売して市場の反響はどうだったんでしょうか。
中村:まずいところを謝ると、「小さな傷だ、すぐ直る」とお客の方が慰めてくれた。例えばブレーキ圧が抜けてお客さんがどこかにぶつけてしまう。それを謝ると、トヨペット同好会などのご贔屓筋が、金の甌(カメ)に傷がないという文句を引用し「この車は金甌無欠(キンオウムケツ)。よくできている。ちょっとした傷だからすぐ直る」と、とにかく許してくれた。僕はわりあい気楽に謝るものだから、「お客と話しあるときにはトヨタを代表しているのだからそう気易く謝るな」と梅原半二さんに度々注意された。ステアリングのタイロッドが折れて谷に落ちそうになったけれど、辛うじて止まって谷には落ちなかったお客さんが苦情を言いに来た。トヨペットの稲垣英彦さんが「あんた凄いね、よう崖縁で止まったね。これはあんたでなきゃ止まれんね」なんておだてて、修理しただけでお客さんを帰しちゃった。
組立上のミスだとか設計上のミスだとかいろいろあったけど、大部分は製作上のミスだった。それでも、「そんな造り難いものをやらせるからいかん」というようなことも一切言われなく、「こんなことはすぐ直る」と言う。
井上:このクラウンを日本中で盛り育てるという強い雰囲気があったわけですね。
中村:極論だけど「国中を挙げてクラウンの尻押しをしてくれた」という感じだった。あんなに褒めるのは間違いだと思うんだけど、新聞の投書でも「あの人はようやった」と褒めちぎられた。まあ、人間っておかしいね。波に乗っているときは、どこまで行っても波に乗っているんだね。
朝日新聞が、※ロンドン―東京5万キロをやったでしょ。
※ 1956年4月辻豊記者と土崎一カメラマンが、クラウンデラックスでロンドンを出発し、欧亜大陸の砂漠や険しい山道約5万キロを走破し、その年の12月30日に東京へ到着した。
井上:あの本一生懸命に読みました。
中村:その特派員が「ヨーロッパで120キロぐらいで走った。砂漠へ行っても故障しなかった」などど、とにかく褒める。そんなに走れる筈がない。どう考えたって100キロがいいところ。それに部品部隊が各地に待機していて車を修理した筈。僕が「マスコミの雄たる朝日新聞社が、そんなにトヨタの肩をもつのはちょっと行き過ぎじゃないか。しかも、5万キロをトヨタに代わって走ってくれ、それを褒めちぎるということは、あんた方の沽券に拘るんじゃないか。もう少し控えてものを言う方がいいと思う」と言った。そのときの朝日新聞の答えが、「トヨタがこういう評判をとったことは事実だ。トヨタの評判がニュースだから、朝日新聞がトヨタを扱うのはニュースを分かり易くしているだけ。トヨタのちょうちん持ちなんかしていない」と朝日新聞としてはやましくないという言い方だった。
1938年9月にトヨタ自動車工業に入社、志望として設計、実験の分野を希望していたが、出身校や溶接の知識に詳しい事が注目され挙母工場(後の本社工場)車体生産課工機係に配属され、自社での大型2000tプレス機の開発、溶接機の改良等、工場の生産能力の向上に尽力する。また、それと同時に自社での本格的な乗用車を積極的に開発、生産するべきだと主張していた事を当時の上層部に数多く発言していた為(当時〔1950年頃〕トヨタ自工の主な商品はトラックが中心で、乗用車の開発に関しては、小型トラックシャーシにセダンの車体を乗せていたものが多く、生産台数も少数であった。)、それがきっかけで1952年1月、車体工場次長職の時に、当時の技術担当取締役であった豊田英二から『今度開発する本格的な乗用車の開発責任者になってもらいたい、』と言われ、これに対し、中村は『これは、大株主はご承知でしょうか?』と尋ねた所、豊田英二は『それは当たり前だ』との返答を受け、中村本人もそれまでの生産担当関連の職から開発責任者への異例の抜擢を受ける形で承諾した(正式な辞令及び役職は1953年5月、技術部、車両開発主査)。その直後より、市場調査から設計、生産開始までの準備に全力で尽力し、初代トヨペットクラウンRS型を成功に導いた。(なお、初代トヨペットクラウンはマイナーチェンジ、フェイスリフト等受けながらも、7年にも渡るロングセラーモデルとなった。また、開発当時の主担当員〔当時、現在のトヨタ社内の呼称、サブCE〕は、後に、初代パブリカや初代カローラの開発主査となり、後に『80点主義+α』の開発思想を打ち出した、長谷川龍雄である。)その後、2代目トヨペットクラウンのほかに、初代及び2代目トヨペットコロナ、初代センチュリー(センチュリーの前身モデルであるクラウン・エイトも含む)の開発主査として開発に携わった。「開発は度胸」と常々部下や後輩に語っていた。
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トヨペットコロナ
「ダルマコロナ」の愛称で親しまれる トヨペット・コロナST10型・日本・1957年
関連
第3項 本格的乗用車トヨペット・クラウンの開発