設計不良
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設計不良
■共立自動車で乗用車を設計■
井上:まず、最初にトヨタに入る前に共立自動車製作所という会社へ入られたそうですが。
中村:僕が入った共立自動車は、安全自動車と八島自動車と京都工商の三社が金を出し合って設立したから『共立自動車』という社名が付けられた。共立自動車は、横浜にあったクライスラーの組立工場で、ダッジとプリムスという乗用車とファーゴというトラックを年に3,000台ぐらい組み立てていて、オータ号という小型車の車体も造っていた。近くに日本フォードがあって、そこは本格的な自動車専用の組立工場で月に1万台ぐらい生産していた。
井上:共立自動車で小型車の設計を責任者になってやられたそうですが。
中村:満州事変が起こり、そして日中戦争が避けられない状勢となって、アメリカは日本への輸出にいろいろ注文を付けてくるようになり、日本も輸出の外貨割当を減らし「3,000台以上は輸入割り当て外貨をやらない」ということになった。それで、1937年の春に「クライスラー車の組立は先細りで、いずれ駄目になる。国産の自動車をつくろう。中村君、設計の親方になってくれ」と言われた。
横浜にあった共立自動車では地理的に設計する人を集めにくかったので、赤坂にあった自動車の輸入販売をしていた安全自動車の二階の一角を借りて、4、5人が集まって設計を始めた。1938年6月頃に、シャシーやボデ―の設計を一応終えて、ウィリス・オーバーランド(willys-Overland)のエンジンを真似てエンジン設計を始めた。ウィリス・オーバーランド社は、後に合併してカイザージープという会社になった。
井上:そのエンジンの大きさはどのくらいだったんでしょうか。
中村:4気筒の2.5リッターぐらいかな。
そのエンジンの図面を描いていたら、まだ図面が全部完成できてなく、部品の寸法公差や強度など細かい点を検討してないのに、僕らの部長も兼務していた営業部長が「できた図面を早くだせ。次々と造って、悪かったら直せばいい」と言う。僕が「そんなことをして部品を造っても、悪かった場合にどこがどう悪いのか分からなくなってしまうから駄目だ。図面を全部書き上げて、それを照合して、これで大丈夫だろうという図面にしてから流す。そして、造ったものが悪かったら、その図面を照合し直して、また造り直すというように廻させてくれないと困る」と言った。だけど営業部長は「図面を出せ」と粘り、僕は「そんなのはあかん」と言い張る。その抗論を僕らの後ろに来て聞いていた安全自動車の社長が「そりゃあ、図面はきっちりしないといかんだろうが、我々はこれまでいろいろな部品を造って、その部分を組み付けた自動車が走っている。悪ければ悪いところがわかる筈だ。とにかく図面がないと物はできない。図面を流してやってくれ」と言われたので、「今、図面を流したら、私には後の収拾はできません」と言った。そしたら「中村君、みんなが一生懸命になってやろうとしているのに、君一人が堰になっていては困る」と言うので、「そこまで言われるのなら、一応図面が全部できて流した時点で、辞めさせてもらいます」と言い、図面を流し終えた1938年8月に共立自動車を辞めた。
部品屋が集まっていたから、その後「見本のエンジンを見て、こうなっている。ここが違うじゃないか」というようなことで、直したんでしょう。とにかく車は一応できて、少し動いた。ところが、3ヶ月とたたないうちに走れなくなってしまい、何をどう直していいのか収拾がつかなく、どうしようもなかったそうです。共立自動車の副支配人は「あれは随分困った。やっぱし、あんたの言うことを聞いとったほうが良かったらしい」と言われ、社長の中谷保さんも「やっぱし、本当のことを言っとったんだな」と言われていたけど、その頃には僕はトヨタに入っていた。