赤井久義
1881~1945
交通事故で死去
トヨタ自動車工業副社長
#中村健也 へのインタビュー
■赤井副社長に一目■
井上:戦争が終った直後に、副社長の赤井久義さんがこれから何をやるかという話をしたと本に書いてあるのですが、その辺のところについて伺いたいのですが。
中村:戦争が終って随分人が辞めていったけど、それでも6,000人ぐらいいた。おいそれとは自動車を造らせてはくれない状況だったので、赤井副社長は終戦の翌日にみんなを集めて話をした。それは6,000人が食べていくために「鍋・釜を作る」とか「プレスを使って、もう少し大きなよい製品はないか」というようなことをみんなが考え出す前のこと。
赤井さんは「トヨタはこれから何としても生きていかなければならない。そのためには、中華民国(1912~49)には資源もあるし需要もあるから中国に進出するのがよいと思う。中華民国と手を握ってやっていきたい。そうしないと、みんなを食わしていくだけの仕事はなかなかない」というようなことを言った。それを聞いていた部長連中が「昨日まで敵であった国へ進出するだなんて、絵空事じゃないか。そんなことは無理だ」という反対意見が出て、ガヤガヤしてなかなか収拾がつかない。以前は副社長の赤井さんにそんなことを言い返す人はいなかったけど、戦争に負けてみんなが好き勝手なことを言うようになっていた。赤井さんは、黙っていた。赤井さんとしては、「本当に、明日から飯が食えると思っているわけじゃないけど、ともかくみんな静まれ。商売はあるのだぞ」と会社の方針を示したいという意味で言いたかったんでしょうね。
そのとき僕は、中華民国を助けられる仕事もあるし、向こうの受け入れやすい接触の仕方もあると思っていたから「みんなはそういうことを言っているけれども、僕は赤井副社長の意見に賛成だ。これからやっていく仕事が難しいのは変わらない。だけど、何をやるかわからないで銘々がガヤガヤやっていたのでは6,000人が食っていくなんてことはできるものではない」と言った。そのときは、まだ中華人民共和国ではなかったので中国の空気も日本に対してそんなに否定的ではなかった。
井上:すごい先見の明ですね。
中村:みんなも赤井さんの意見に不賛成だと言ったものの、さりとて自分の意見があるわけでもない。赤井さんの方に賛成だという意見が出ると「それでも俺は反対だ」とは言わない。それでみんな黙ってしまって、その場は収まった。その後、赤井さんが「中村君ありがとう。君が言ってくれて、まあ何とか済んだ」と言われた。
戦争中(1941年1月)に赤井さんが三井物産からトヨタに来たときに、赤井さんとは割に馬が合うというか「ちょっと、うちの役員とはひと味違うな」と思った。首切り騒動を終結するために社長の喜一郎さんと副社長の隈部一雄さんがトヨタを辞めて、その後に隈部さんの会社へ行ったとき「どうしてこういうことになったか」という話をした。「隈部先生は下の方ばかり見ておられた。上を見たり、横を見たりされずに、下の動きばかり気にしておられたから」と言った。以前に設備導入の件で隈部副社長と抗論になったときのような『無礼なことを言うな』とは言われなく、「そうかもしれん。俺はな、赤井さんが亡くなった後は、『赤井さんならどうしただろうか』といつも赤井さんを手本に仕事をしていた。ところが、1949年頃になって、そういうことを思わなくなった。それで、ああいう失敗をやった」と言われた。やっぱり、隈部さんも赤井さんに一目置いていたわけです。
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