実験の民主主義
トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ
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民主主義とは、単に政治制度や政治理念を指すだけではない。社会を根底からくつがえし、すべてを作り替えていく巨大な大変動である。民主主義はあらゆる人々──日々生活に追われる庶民、自らの欲望に駆られて没落していく上層階級、つねに休むことなく突き進む新興の産業人、旧体制にこだわり古い伝統の追憶に生きる人々──を飲み込み、その考え方や生き方を変えていく。
トクヴィルがアメリカに訪れた時期はまだ若者だった。フランス革命で反動勢力に属しながらも貴族出身だったこともあり、生きづらさを感じていた。
一方で、トクヴィルはフランス革命の結果、首都パリの力や中央集権的な政府の力がむしろ強くなってしまったと見た。 「集権化」には二種類ある
外交や安全保障などの政策領域における「政治的集権化」は必要
それ以外の内政分野に関する「行政的集権化」は不要
と考えた
日本への導入
「政治的集権(政権)」と「行政的集権(治権)」の話を日本に適用しようとします。強い近代国家を作らないと欧米列強に侵略されてしまうので、その観点から政治的集権は必要。けれども、地域の問題まで全部東京に集権化してはならないと福沢は論じます。当時はまだ 西郷隆盛(一八二七−七七) の西南戦争の記憶が生々しい時期でしたが、福沢は彼ら不平士族を地方行政にあたらせようと提案しました。これは慧眼だったと思います。 不平士族たちを圧迫して追いつめるよりも、地域で政治活動をさせて、地方議会を国会に先んじて発展させるべきだと福沢は考えました。不平士族を地域自治の担い手に育て上げればいい。まず地方議会を固めてその上で国会を作れば、きっとうまくいくと考えたわけです。 立法権と行政権とが一体化してしまう感覚は、まずは議院内閣制であるところに由来します。アメリカのように両者が明確に分離している国では、大統領や知事の選挙と、議会の選挙は別個に行われます。日本の場合は、行政府の長である総理大臣や、他のほとんどの大臣がみな立法府の国会議員でもあることが前提ですから、違いが明確になりません。
行政府がプラットフォームであるという考え方は、まさにトクヴィル的な記述の仕方に基づいてこそ、構想可能になるのかもしれません。 ──GaaS(Government as a Service) は、まさに政府がプラットフォームとして機能するというアイデアです。そこでは、政府はYouTubeやTwitterのようなソーシャルメディアプラットフォームと同様、自らコンテンツは提供せず、みんなが好きにコンテンツを作り、それを人に見てもらったり、販売したりすることを可能にするツール(道具) を提供するだけの機能を有します。ユーザーがコンテンツを生成する「ユーザージェネレイテッド・コンテンツ」(UGC) という考え方です。
「自分たちが見たいものを自分たちで作る」というYouTubeの原則にならって、「自分たちが実現したい社会を自分たちで作る」を原則とするのが「GaaS」であるというのが私の理解で、その意味でプラットフォームは、情報、知識、意見からお金、物資などをユーザー同士で交換することを可能にする雑多な「マーケットプレイス」の形を取ることになります。
トクヴィルが訪ねた七四年後のことになりますが、ヨーロッパから優れた知性を持った別の人物がアメリカを訪れています。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇四−〇五年) で知られるマックス・ウェーバー(一八六四-一九二〇) です。 セクトがお互いの信用チェックシステムとして使われたというのがウェーバーの解釈です。先ほどからアメリカは中央政府が弱いという話をしていますが、中央政府が弱いがゆえに国家が個人の信用を保証することもできませんので、「アソシエーション」でそれを肩代わりするしかない。それは意図してそうなったというよりは、宗教的セクトが無数にあり、それが一種のソーシャルグラフとなりうることが発見され、結果的にそういう機能が見出されたわけです。社会的なさまざまな役割を中央政府に代わって、宗教的なセクトが肩代わりする。そういう土地に根づいたシステムがあったからこそ、トクヴィルの議論も可能になったとも言えそうです。 「自由に援け合う術を学ばない限り、誰もが無力になる」というフレーズにはやはり希望を感じます。 アソシエーションのなかにある、いい部分を活用して秩序を作っていきましょうというのが、トクヴィルがアメリカで描いたストーリーでした。しかし、半ば神話化されすぎている嫌いもありますので、結社については可能性と難しさの両面を見ていく必要があります。
「平等化」の影響を大きく受けているにもかかわらず、ちゃんと目が向けられず、あまり語られていない領域が公務員や官僚制なのではないかと感じています
現実的に考えると、選挙というものは、やはりまどろっこしいわけです。世の中を変えようと思ったらまず一票を投じて、自分が投票した候補者なり政党なりが政権を取って、さらに議会で法案と予算を通さないと、望んだ政策は実現されません。何かが変わるために、いったい何年かかるんだという気持ちになりますよね。
近代における官僚制
例えばロック(ジョン・ロック)は立法権、執行権と並び、「フェデレイティブ・パワー federative power」という権力を論じています。日本語では「連合権」と訳されますが、これは主として軍事権や外交権を指します。立法権と執行権と並んで、連合権があるのですが、この権力は王に属します。現在でも外交や安全保障は、民主主義には 馴染まないと考える人がいますが、この当時は明確に、議会の立法権の外に連合権があったわけです。立法権の統制のきかない部分は現代の民主的な政治体制にも残っています。 生権力の誕生と、官僚機構の 精緻 化。 感染症の蔓延を機に、公衆衛生という概念の発達や、「人を殺す権力」から「人を生かす権力(生権力)」への転換が始まるわけです。人々の生命を管理しようという発想ですね。もちろんそれが、強力な形で発動するのは二〇世紀になってからのことですが、そこでも一九一八年に流行が始まった「スペイン風邪」が大きく作用していたはずです。
私は近代官僚制というのは、その成立の初期から、官僚を人間としては認めず、むしろロボットなりAIであることを要求するシステムだと感じるのですが、その淵源がベンサム(ジェレミ・ベンサム)あたりにあるわけですね。 イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミル(一八〇六-七三) は、『代議制統治論』(一八六一年) で代議制民主主義の理論化を行いましたが、その一方で実はドイツ好きで、その官僚制の合理性や機能性を高く評価していました。『代議制統治論』においても、議会が議論をする場であるのはいいとしても、そこではたして合理的な決定をすることができるかについては疑問を投げかけています。代議制民主主義を正当化しつつも、実は議会の能力をそれほど買っていませんでした。 代議制民主主義とは言いながらも、現実には行政権は着実に拡大し、官僚の役割が増大していったわけですから、理論と現実が 乖離 してしまっています。この乖離はいまなお続いていて、今日の日本でも、法案の多くは実質的に官僚が作っていますよね。議会に立法権があるといっても、実際に立法しているのは行政権という転倒が起きてしまっているわけです。
日本の官僚像
日本には「お上」という言葉がありますが、そこに 揶揄 はありつつも、「国全体のことなんてよくわからないし、勉強できる真面目で頭のいいやつらがやってくれるなら、それでよしとしよう」というニュアンスもあると感じます。「任すよ」という信託ですね。ただ、「任せるなら、できるだけまともなやつに任せたい」とも思うので、「クラスで一番頭の良かったあいつが決めるならいいか」となる。とすれば、「試験」はとても大事で、それだけが「任せてもいい」という信頼の担保になっているわけですよね。
事実上官僚化していた江戸時代の武士を土台に、明治以降は西洋をモデルに法制度を導入し、試験に基づく公平な試験制度を通して選抜された人による統治を実現しました。西洋と中国、法治と人治を日本的に組み合わせたのが、近代日本だったと言えるのかもしれません。
これまでも、行政府は社会の状況を見ながら、技術や制度の最新の動向を調査して、社会のニーズに応えていくことを実はずっとやっていたわけです。その意味では、以前から国民と政治家をつなぐファシリテーターでした。ただある時期から、旧来のモデルが制度疲労を起こし、さらにそれにデジタル化が拍車をかけたことで、それまでうまくいっていたはずの行政の仕事が機能しなくなります。大きく言えば、政府が提供するサービスを市民がただ受け取るだけという一方向的な関係が変わってしまったわけですよね。
さらに、そこにデジタルテクノロジーが入ってきて、供給側とユーザーとの間にコミュニケーションの双方向性が生まれてきます。サービスを提供すれば済んでいたものが、無限のフィードバックループのなかに放り込まれ、供給側の論理で作られてきた政策が一気に 破綻 します。いま起きているのは、まさにそういう状況です。行政のデジタル化が叫ばれる最大の理由もそこですよね。
ユーザー中心の政策づくりの難しさ
─「DXって何ですか?」と海外の政府のDX担当者に聞きますと、判で押したように「ユーザー中心のことだよ」と返ってきます。つまり、これまで供給サイドを中心に作られたシステムを、ユーザー中心に一八〇度転換する、ということです。 サービスを提供する側の論理ではなく、現場で利用するユーザーの視点に立って、徹頭徹尾エンドユーザーの使い勝手を考慮し、その使われ方を見ながら逐次サービスを進化させていくことですね。
行政の側が「どうせわからないんだから俺らに任せておけ」となってしまうと、それはただの権威主義です。逆に、市民の声だけが優勢になり、その道のプロや専門家の意見が軽んじられるのも不幸で、生産的ではありません。 ユーザーの視点は大事ですし、ユーザーにとって使いやすい設計であるべきなのはその通りですが、コンテンツ作りのすべてにユーザーを参加させることは、実際はなかなか難しい。プロの知識をうまく活用するためにどこで線引きするのか、難しいところですね。
直接民主主義といっても、何も知らない市民がともかく白か黒かを判断し、あとはその数だけを数えるというのも、かなり乱暴なやり方です。実際の民意には、さまざまな濃淡があります。そこでクッションの役割を担う政党が必要になります。市民の間にある濃淡あるさまざまな声を、先ほどの言葉でいえば編集し、うまくつなぎ合わせて「大体こんな感じ」と取りまとめていく。 ただ、本章冒頭から見てきたように、いまの間接民主制において、政党による編集作業がうまくいっていません。多様な民意の編集や取りまとめの機能を担うのが、政党だけなのかも疑問です。先ほどのデンマークの専門家の言葉に従うなら、行政府が自ら市民とつながっていってもいいじゃないか、ということです。公務員というファシリテーターがここに誕生するわけですよね。
行使の民主主義
ロザンヴァロン(ピエール・ロザンヴァロン)は、この本で二つのことを問題にしています。まず一つは、これまでの民主主義は「承認の民主主義」であって、「行使の民主主義」がちゃんと問われてこなかったということです。つまり、これまでの民主主義は誰に権限を与えるかの議論ばかりで、市民が自らの権限をいかに行使するかは十分に議論されてこなかった。 ロザンヴァロンは、これまでの立法権中心の民主主義理解では、「大統領制化」する民主主義の問題をうまく扱うことができないと指摘しています。「統治」という観点から「行使の民主主義」に目を向けることを彼が促すのは、このためです。
国民の代表者が議会で決めた法律を実行すればそれでいい、という立法権中心の民主主義モデルを強調しすぎたために、国民は、何年かに一度しかない選挙の日だけは政治主体になるけれど、それ以外の時間にはほとんど無力です。「承認の民主主義」の 陥穽 ですね。
プラグマティズムと民主主義
「プラグマティズム」(実用・実験主義) の祖の一人とされるオリヴァー・ウェンデル・ホームズ(一八〇九-九四) の言葉だったと思うのですが、「自由はあなたのためにあるのではなく、あなたと真反対の意見の人間のためにある」という一節を以前読んだことがあります。いい言葉だなと思いはするものの、それを実行できる自信は到底持てません。せめて自分を戒める言葉として持ち歩くくらいがせいぜいです。 人権や、三権分立は大切と言われると「その通りだ」と頭では思います。ただどこか腑に落ちないので、機会があるとやはり反発したくなってしまうんですね。 「ブルジョワ」を「城の中にただ住んでいる人」という意味で使っています。そのような「ただいるだけ」のブルジョワは、都市国家の運営に主体的に参加して意思決定に加わっている「シトワイヤン」とは区別されます。 このルソーの考えは、いまの日本にもそっくりそのまま当てはまりますよね。例えば「私は八王子市民です」と言うとき、単に八王子に住民票があるくらいの意味でしかなく、主体的にさまざまな公共活動に 勤しむ「市民」とはズレているわけです。だからこそ、ルソーは、それを混同してはいけないと言うわけです。 いまでも、「市民」という言葉には、ルソー的な古代の都市国家に依拠した「政治に主体的に参加する人(シトワイヤン)」という意味と、「単にそこで暮らしている人」、あるいは「経済活動に専念している人たち(ブルジョワ)」という三つの概念が混在しています。
仕事と市民活動の乖離
むしろ仕事は、市民活動と対立するものとしてイメージされていそうです。 「プロ市民」という言葉は、その意味でも面白いですよね。「プロ市民」は現在では、市民運動とか市民活動ばかりやっている人を揶揄する言葉ですが、その背景には「なんかこの人たち 胡散臭い。どこかから金をもらって活動しているに違いない」という疑念があります。意地の悪い見方ではありますが、とはいえ「市民運動ばかりやっていられる人はどこか生活に困らない、優雅な暮らしをしている人に違いない。その優雅さはいったいどこからくるのか」と 訝しんでしまう。 ChatGPT.iconファンダムは消費者に留まらず、生産者としても機能し、企業との双方向の関係性を築いています。この関係はファンダムが市民的監視団体としての役割を担う可能性を示唆しています。しかし、ファンダムの活動が直接政治的デモクラシーに繋がるわけではなく、その文化と技術は民主主義の新たな実践に活かせる可能性を秘めています。この点から、ファンダムと行使の民主主義を結びつけることが、選挙以外の政治参加の形を模索する上で重要とされています。
ChatGPT.iconオードリー・タンは、「何ができる?」と問うことで、参加と行動への敷居を下げています。これは、意見を競わせるよりも建設的な参加を促します。「参加」を再定義することで、聞くことや他者を受け入れる行為も価値ある貢献となります。「何もできない人はいない」という考えは、民主主義を再考する上で重要です。これは、「一般意志」という概念を問い直し、プラグマティズム的な視角から、事前に定義された「民意」を探すのではなく、実験と行動を通じて社会を形成していく考え方です。プラグマティズムは行動への敷居を下げ、興味深い活動が社会的変化を促す習慣として広がることを促しますが、これらの活動をどう統合していくかは課題として残ります。 プラグマティズムのためのプラットフォーム
ただ留意したいのは、プラグマティズムは「それぞれ好きなことをやってみよう」「とりあえずやってみて」と言いますが、それをどうやって紡ぎ合わせていくかが、実は難しいということです。
何でもやれます。好きなことやってください」と言われると、みんな何をやったらいいかわからないけれど、ルールがあって役割分担みたいなものがあると協力しやすい。
プラットフォームとは、それを利用するすべての人の経済的価値が、それを作った企業の価値を上回ること 「人々が時間を費やすコンテンツの大半が、他の参加者たちによって作られるとき、それはプラットフォームとなる」
市民の意見を集約するオンラインプラットフォームの「Decidim」を日本で最初に導入した兵庫県の 加古川市を、先日見学してきました。行政の皆さんの問題意識としてあるのは、「市民参加」を行政側がどうデザインできるかということです。最初に思いつくのはやはり「パブリックコメント」をオンラインで集めることになりますが、これは当然のように一部の人しか集まらない。
ビートルズをそっくりそのままやりたい、と言ったときは明確な完成形が念頭に置かれます。けれども、「そこにいる人とやれる一番いかした音楽は何か」というオードリー・タン的な問いに立つと、完成形はもはや想定しえない。音楽家のブライアン・イーノ(一九四八− )は、これを「終わりをデザインするのではなく、始まりをデザインする」という言い方で説明しています。 「始まりをデザインする」はいいキーワードですね。 ダメな自治体は、どうしても自分たちで「終わり(最終的なゴール) をデザイン」したがります。パブリックコメントをもらうにしても、「終わり」が設計されたところでやってしまうので、予定調和的な意見ばかりを求める。終わりから逆算して、どういう人たちを集めようかを考えるので、結局誰も集まらない。うまく「始まりをデザイン」して、人が集まったら、あとは、それこそ植物のように自生していくのを見守っていくことが重要ですね。
レヴィはインターネット空間がもたらす転換は、文書/文字に基づく文明から人類が離脱することを促し、それが私たちの「知性」のありようを決定的に変えてしまうと語り、それは近代の出発点となるデカルトのコギト命題「我思う、ゆえに我あり」からの離脱をも意味すると語っています。
集合的知性の根拠と目的は人々が相互に承認し合い、豊かにし合うことであって、物神化されたり、実体化されたりした共同体を崇拝することではない