平準化によるパラドクス
知識や教養が広く行き渡ることで知的権威が低下し、社会が混乱しつつもダイナミックになる。平等化の概念は不可逆であり、差別の正当化はなくなるが、それが必ずしも平和や幸福につながるわけではない。平等に関する想像力は、自己変革への憧れや苦悶を生み出し、社会的な嫉妬や攻撃、自己否定へとつながる危険をはらむ。読書が普及することで、自由な思考が促進されるが、それに伴う複雑な影響も示唆されている。
知識や教養のある人が平準化されていくことで、当然知的エスタブリッシュメントの権威は落ちていきます。それはよく言えば知識が広く行き渡るということですが、悪く言えば、高い教養や科学的な知見があるとはいえない人たちでもものを言うようになり、物事の真偽や重みづけがわからなくなるということでもあります。 みんなが、それなりに情報を得て、ものを言うようになっていく。異議申し立てもする。それが進めば進むほど、世の中は混乱しますが、その一方でダイナミックにもなっていきます。
いったん「平等化」の概念が頭のなかに入ってしまうと、「あの人は特別な人だから、特権を持っていても当然だ」とは二度と思えなくなってしまいます。その意味で、平等化の趨勢は不可逆です
「平等化」したからといって、みんなが平和に幸せに暮らせるようになるわけではない。ただ少なくとも「違う人間だから差別があってもしょうがない」とは誰も思わなくなる。この変化だけは絶対に元には戻らない。
自分は違う人間になれる、という想像力をいったん持ってしまうと、その思いに人は 苛まれ、激しく揺さぶられます。「なぜ私は違う自分になれないのか。何がそれを邪魔しているのか。それとも自分が悪いのか」。こうした 苦悶 は、他者に対しての 嫉妬 や攻撃につながる一方、それが内向すれば絶望や自己否定ともなります。平等をめぐる想像力は、それが一度目覚めてしまうと、危険なものになります。それが苦しみをもたらすものでもあるというのは、平等をめぐる重要なパラドクスです。
「読書によってみんなデカルト主義者になる」