Doから始まる民主主義
ゲーム空間では、まさに最初は理念的に構築されたDIWO(DIWO: Do It With Others)というアイデアが、それと意識されることなく日常化しているということですね。プラグマティズムの言葉を用いるなら「習慣化」がすでに起きているということになります 「自分の考えを表明しろ」「意見を言え」と問われると誰でも気が引けてしまいますよね。そこを例えばオードリー・タン(Audrey Tang)さんは「何ができる?」と問うわけです。そう聞かれたら、「何かできることがあるかも」と思えてくるかもしれません。 それはそうですよね。意見を戦わせて「熟議しよう」と言われても、みんな黙ってしまうか、あるいは逆に論破合戦になってしまう。 Doの交換として「参加」を捉え直すと、「人の話を聞くこと」といった受動的な行為もアクションとして価値となり、貢献になる。「インクルージョン」という概念は、本来こうした視点に立たないと成立しないはずです。 「何もできない人はいない」というのはいいですね。『民主主義のつくり方』で強調したのも、まさにそれです。これまでの民主主義論では、「一般意志」なるものがどこかにあって、その意志を実現するために民主主義があると考えられてきました。これに対して、そうではないプラグマティズム的な民主主義の考え方もあるのではないか、という問題提起をしたかったのです。 あらかじめ存在している「民意」なんていうものは存在しない。だから、みんな自分の力の及ぶ範囲内で何らかの実験をして、それに何の意味があるかについては、あとから考えればいい。このように考えるのがプラグマティズムです。この考え方だと、「Doすること」に対しての敷居がものすごく下がる。さらに、誰かが何か魅力的なことをやれば、周りの人もそれにつられてやりたくなる。それが習慣として横につながって広がっていく。気づいてみれば、革命なんかやらなくても、「面白いね」の連鎖から社会の仕組みが変わっていく。プラグマティズムの思想を活用することで、ある意味で楽天的なストーリーを描くことが可能になります。「何もできない人はいない」のです。 ただ留意したいのは、プラグマティズムは「それぞれ好きなことをやってみよう」「とりあえずやってみて」と言いますが、それをどうやって紡ぎ合わせていくかが、実は難しいということです。