松本人志
https://gyazo.com/44b19f9f7c50087ccdfb73fd822a95d9
まず最初に言っておかないといけないことは、松本人志の才能の軽重は、事件の軽重とまったく関係がない。したがって才能があろうがなかろうが、悪いことすれば悪いし、してないなら悪くない。以上。
私はダウンタウンが好きでも嫌いでもどちらでもない。20年以上、自宅にテレビはない。
報道されたようなことはありえることであり、厳しく追及されるべきであると考えている。
次に松本人志はどう考えてもお笑いにおける天才である。このことは認めなければならない。
しばしば「ダウンタウンなんかおもんない」「一度も笑ったことがない」などと言う人や「いじり笑いだ」と全否定しようとする人がいるけれど、どうかしてると思う。別にお前が「ビートルズ、一度もいいと思ったことがない」「バッハをいいと感じたことはない」「チャーリーパーカーは退屈だ」と思うのは自由だし、別に何も問題ない(フランク・ザッパの名言「その音が君に良いと聞こえたのならそれはいい音楽、クソと聞こえたのならクソ」の通り)。 ただ、そんな人が音楽を偉そうに論じてたら「勘弁してくれ」でしかないし、「ジョンレノンなんて天才でもなんでもない」と言ったらその人に教養や素養がないってだけ。同じように松本人志のお笑いにおける貢献や、その才能を否定することはできない。まあ、現代のバカは啓蒙されるのを嫌う(素晴らしいものが自分にわからないのではなく、自分にわからないものは素晴らしくない。例外はない)と橋本治が言う通りなので、こういうことになるのだが。 お笑いに対してだけは「俺がそいつの才能を決める」と思うのであれば、それは笑いという芸能に対する蔑視である。芸能が被差別性も帯びていることを考えるならばこれは非常に問題のある態度だ。
笑いや芸人に対しては蔑視も強くある。低く見られている。これを問題視し大きく常識を変えたのがダウンタウンと松本人志の天才である。それまでは笑うほうがえらい、笑わせるほうが下となりがちであった笑いを「笑えない人はセンスがないだけ」「おもろいことしても笑う能力がない人がいる」という形で、松本人志は笑いにディバイドを持ち込んだ。
https://youtu.be/gIFFWRperhE?si=1FtzHVMvmnFSGk8g
moriteppei.icon 岡田斗司夫がここで触れているように、松本人志のお笑いの本当に差別的なところは「笑える人間と笑えない人間がディバイドされる」ところなんですよね。「いじりだからダメだ」とか、お笑いなーーんもわかってない人は言って、ダウンタウンと違ってウッチャンナンチャンはいいとか、横山やすしはよかったとか、上岡龍太郎は....とか言うんだけど(苦笑)、同時代のお笑いなんて倫理観で言ったらたいていNGでしょ。 / そうじゃなくて「笑えへん人間を置いてきぼりにすること自体に優越感を感じる笑い」なのが、そういう「お笑いがわからない」人たちの逆鱗に触れるんだと思う。文春の報道によって、そのヒエラルキーが逆転した。笑えない人間と笑われていた人たちが「お前なんか元からおもろないだけじゃ」と笑うようになったっていう。森さん@キンバリー使い🇩🇪: - Mastodon 笑える人にだけ笑える笑いも作れれば、ゴールデンでもう40年近くいくつも番組持ってるような大衆性も同時にあわせもっているのがダウンタウン。松本人志。大ヒット曲を連発してるけど、音楽詳しい人が聞いたら「なんでそうなるの???」を連発するジョン・レノンやプリンスが天才なのとまったく同じ理由で松本人志は天才としか言いようがない。
それでも平気でなぜか偉そうに「松本人志で笑ったことなんかない」と言う人は、実は単に大衆蔑視をしているだけ。「そこらの下賤なゴミ大衆と違って、自分はあんな品のないものをおもしろいとも思ったことないし、支持などしたこともない」と言ってる。
もしくは、松本によるお笑いディバイドでディバイドされたことに対するルサンチマン、すっぱい葡萄である。(俺が笑えないんじゃない、あれは元からおもしろくないんだ) 「お笑いなんて低、下である」を否定し、「笑いという妖精さんが見えない人がかわいそうなだけ」という価値観を、その圧倒的な才能で広めてきた天才松本人志が、だからこそ「松本人志がいなくても一つも困らないしダウンタウンが嫌われる」現在の状況をつくってしまった、というのが自分の見たて。 お笑いディバイドでディバイドされた側に大きな「恨」を育ててしまった。性加害問題による松本へのバッシングは異常。性加害についてバッシングされるのはわかるし、ある意味いくらでもバッシングされろと思うが、なぜかそこで「松本人志なんてつまらない」「笑ったことない」とまで言わせてしまっているのは(必要ないでしょう、そんなこと)明らかに松本がディバイドされた人たちに「恨」をつくってしまったためだろう。
ダウンタウンに憧れて様々な才能が集まったし、大喜利、コント、漫才、エピソードトーク、ひな壇トーク......様々なジャンルを開拓し、その才能を発掘、フックアップしてきた結果、お笑いの層の厚さがとんでもないことになってしまった。こうなると別にダウンタウンがいる必要は特にない。
お笑いという価値基準をあまりに他のものと独立に確固としたものとして確立してしまったために、その頂点に立つという、強い権力性を持ってしまった。ノンスタ石田のネタづくり理論で石田も述べている通り、お笑いとは常識との距離感、ズレから生まれるのだが、その常識に松本がなってしまった。こうなると笑いが作りにくい上に、「松本から認められることがそのままこの世界で生きていけること」になってしまう。ここから上納システムが生まれる。 https://youtube.com/shorts/m0OVptSoowQ?si=Q9iDTeMN2QbGBS3h
「松本さんのどこがおもんないんすか」「狙ってる感じ?」「みんなそうやwww」
この人の指摘がものすごく的を射ている。笑える人と笑えない人とが分かれるような、そういう笑いを狙って達成できてしまう、それが松本の天才なのだが、笑いだけではなくすべての価値観が相対化し、一周回って「おもしろいかおもしろくないかは私が決める」啓蒙を嫌うバカが主役の時代には、まさにそれが「おもんない」にしかならない。 ダウンタウンは今回の文春がなかったとしても、もう賞味期限をとっくに切れていた、というか、賞味期限が切れていた=いなくてもよくなったから、文春砲を撃たれるまでになった、とすら言えるかもしれない。
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moriteppei.icon 自分としては、松本ダウンタウンイズムの正統な、そして過激な後継者として粗品がいるし、ポリコレ全方位対応の新時代版として令和ロマンもいるし、文春なくてもダウンタウンはもう要らないというか、もう要らなくなったから、あるいは「なんとかして万博止める」とかそういう動きから文春が出てきたように受け止めてる。/ 松本の権力は「言うてもあの人が圧倒的におもろい」「尖ってる」で作ってた。お笑いこそがすべてを超越した独立の価値基準、ヒエラルキーだというイズムによってレジティマシーを持っていた。ところが、松本は「お笑い」以外に「正しい」にコミットしてしまった(ワイドナショー)し、万博の「アンバサダー」になってしまったし、何より大量の「おもろい」が育ってきてしまったため相対的にお笑い基準でも圧倒性を築くことが不可能になってしまった。/ その結果の引導。自分にはそのようにしか思えなくなってる。森さん - Mastodon moriteppei.icon 松本人志もうろくしたと思ったのは2022年のM1、真空ジェシカへのコメント。「ボケよりツッコミのほうが声大きいのは逆なんちゃうかな。好みかもしれへんけど……」って松本人志は言ってたんだけど、これで「あー、もう完全に「老害」側か」と感慨深かった。「ボソボソ喋るな。もっと元気よくやれ」と言われ既存の芸人から否定されてたのがダウンタウンだったはず……。森さん - Mastodon