啓蒙
最低三秒くらいは考えていただかないと分からないかもしれませんが、「啓蒙」というのはバカがいないと成り立ちません。今や多くの人は「自分はバカじゃない」と思っているので、「啓蒙」ということを嫌います。でも、「あんたはバカだ」と言っているわけではなくて、「バカな人がいないと啓蒙は成り立たない」と言っているだけなので、「あ、私には関係ないことだ」と思っていただければそれまでの話ですね。【このことで私がなにを分からせようとしているのかは、当然「自分で考えな」です】いとも優雅な意地悪の教本橋本治p.35 こうして神話が生命なきものを生命あるものと同一視したように、啓蒙は生命あるものを生命なきものと同一視する。啓蒙はラディカルになた神話的不安である。啓蒙の弁証法 哲学的断想P.43 啓蒙の非真理は、その敵であるロマン派が昔から啓蒙に浴びせてきたような、分析的方法、諸要素への還元、反省による解体、などへの非難のうちにあるのではない。啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非心理があるのである。p.58
事実的なものこそ正しいとされ、認識はその反復に極限され、思考はたんなる同語反復になる。思考機械が、存在するものを自らに隷属させればさせるほど、それだけ思考機械は、盲目的に存在者の再生産という分にに甘んじるようになるそれとともに啓蒙は、しょせん逃れるべくもない神話へと逆転する。なぜなら神話はもともと、さまざまの形態をとって、現存するものの本質、つまり世界の循環や運命や支配を、真理の姿として映し出し、希望を断念していたからである。啓蒙の弁証法 哲学的断想P.62 啓蒙の本質は二者択一であり、択一の不可避性は支配の不可避性である。人間はこれまでいつも、自然の下へ従属するか、それとも自己の下へ自然を従属させるか、その間で選択しなければならなかった。市民的な商品経済が拡まるにつれて、神話の暗い地平は、計画する理性の太陽によって照らし出される。その氷のような光線の下に、新しい野蛮の芽生えが育ってくる。支配の強制の下に、人間の労働は、昔から神話の外に連れ出されながらも、支配の下で、再び神話の圏内に引き込まれるのが常であった。啓蒙の弁証法 哲学的断想p.71