批判
歌舞伎に代表される町人娯楽は、時の政府=公儀から見れば"下らないもの"である。それは存在するけれども、それを"下らない"とするものにとってはなんの関係もない。関係ないものが存在することは、ただ「いたしかたない」というようなものであって、それを「より高尚であれ」などという干渉が生まれる訳もない。それを"芸術"と規定して"改良"を目指したのは明治以降の近代の話である。江戸の徳川政権にそんなことは関係がない。問題が生まれるとしたら、それはただ一つ、関係のないものが関係を持とうとしたその時だけである。関係のないものが関係を持とうとすることーーその一つが批判である。下らない町人の為の娯楽が"現在の日常"に迫って来てはならない。現在の風俗・事件を、そのままドラマとして脚色することを幕府が禁じたのはその為である。だから歌舞伎は"現在"という時間を中途半端に放棄して、ドラマの背景を"過去"に設定するという特殊な劇作術を持った。"日常"というものは、既に停止しているのであるーー"平和な現在"という状態の内に。"批判"とは勿論、この停滞を衝いて"未来"を要求することである。江戸の封建体制に於いて、このことは何を意味するのかといえば、そのまま体制転覆を意味する。江戸の当時、直訴が一家眷属を含めての死刑という大罪であったのはそういうことだ。たとえその批判に理があっても、結果としてその批判を受け入れて事態が"改善"されることはあっても、批判そのものは悪である。現在は既に"太平"というものの中に完了してしまっているのであるから、それに対する"批判"などというものが起こる筈がないーーだからこそ、それを唱えるものは言語道断の"悪"なのである。 日常が悪であってはならない。それが観客の属する世界の常識である。その日常に娯楽を提供する"非日常"の側は、だから当然この条件を呑む。呑んで黙って譲歩をして、そして黙って詐術を設けた。だから歌舞伎に「ドラマの起こらない日常は、果たして善か?」という問いかけは存在しないのである。「歌舞伎以降存在するすべての大衆娯楽に」と言うべきか。江戸にフランス革命を!橋本治pp.84-6 デモがやたら毛嫌いされているのは、デモが明らかにここでいう直訴と同じ構造をしているからだ。